転んでもいいんですよ。
転びそうな子供についつい声をかけて静止させる。
雨上がりの苔の上は滑る。まして角度のついた地面で転んではみ出しそうな先は道路。私はいつも通り、雨上がりは濡れてて滑るからやめな、と止める。だけどやめなかったし滑らなかった。物思いに耽りながらそれ以上は言わなかった。
もっと転んでいいんです。
私の言うことを聞いていると失敗(とこちらが思ってるだけ)の経験値は下がる。擦り傷は減る。ズボンは破れない。私は同じ色の糸を探して眠い目擦って縫わなくていい。イライラしながら。擦り傷が無いのだから泣かない。泣かなければ家までおんぶしなくて済む。イライラしながら。
転んで学ぶと自分の経験値になる。お母さんの言うこと聞いたから転ばないし泣かなかった。それじゃつまんないだろう。
赤ん坊なんで死ぬぎりぎりまでほっといて良いんです。と育児書関連で目にした記憶がわずかにある。その言葉は一人目の子供と向き合いおろおろうろたえる赤ちゃんお母さんをほっとさせる目的なのだ。
ぎりぎりまでほっておく。助けるのは命の危険差し迫るくらいの時で十分。勿論手を貸すのも愛情だ。だけど泣きっぱなしでもなんの問題もない。
私が二人目を産んだ時に同日に初産を終えた人と仲良くなれた。その人は年上で教師だった。赤ちゃんを目の前にしたらみんなそこから赤ちゃんお母さんになる。
優しい方で旦那様も優しい様だった。二人はいつもかわいい赤ちゃんに目を向けていて愛情をかけていた様だった。
ある日、泣かせてみようか‥?とおふたりは気持ちが一致した。泣きやませすぎじゃない?とふたりとも気づいたらしい。なんとも微笑ましいなと思った。きっとおっとりした子に育つだろう。
もしかしたら我が子がわんわん泣く姿を見てみたかったのかも。赤ちゃんの方ももっと泣きたいと消化不良を起こしている様に見えたのかも。今、赤ちゃんがうちにいないので想像する。
小さい子のお世話は面倒くさいことだらけだ。
今、転ばなければ楽に家まで帰れると私は目論んだ。
毎回親に納得させられて親の作ったルールを守らされていたら人間とはいえない気がする。自ら全て守っていたら尚一層恐ろしい。
いつも先のことばかり考えてる。寒くならないうちに家に連れ帰り何時までにご飯を終えたい。などと。
私は転んだら痛いという経験値を先に得たから知っている。そんなのいやでしょ?と言える。
だけど相手は未経験だ。結果や情報だけ与えられて体感というものを奪われたら。
頭でっかちの私みたいになってしまう。
私があぶないからだめよっと後ろ手に隠したもの。
あたしもあなたもそれが欲しいのよ。
ありがとう。