3・月の花粉
彼女の言葉に気圧された訳ではない。あくまで、金を払わずとも泊まれる宿に居座っていただけ。そして、グレシアを殺す機会を窺っていただけなのだ。
朝起きる。頭痛が響く。それを見事にグレシアに見透かされ、鎮痛剤を飲まされる。
食事はグレシア曰く消化に時間の掛からない流動食。麦等の穀物を多めの水で柔らかく煮た、味の薄いもの。
そして、鎮痛剤の副作用として眠気と怠さが訪れ、そのまま朝まで眠る。
退屈、退屈……――――。
「つまんねぇ」
三日が経った。再び、白い天井でくるくる回るシーリングファンと、濁った色の点滴の雫だけを眺めているだけの時間。
隣では、グレシアが彼の腕を抑えながら屈み、注射器の針を肉の中に滑り込ませている。腕に鋭い痛みが迸り、少年は一瞬だけ瞼をぴくりと動かした。
注射器を見ると、フラッシュバックする。
夢の女は、確かに実在する。その確証がある。
だが、それ以外の情報は一切記憶に存在しない。彼女の名前、彼女の容姿、どういった関係性なのか、どこに住んでいるのか、その何もかも。少年は、未だ思い出せずいた。
グレシアの手がゆっくりとスライドすると、注射器の中身が深紅で満たされていく。それは正しく、少年の命の欠片に他ならない。
「本でも読んだらどうだい? ここにあるものならばいくら読んでくれても一向に構わないよ。全て読んだ後だからね。あ、針抜くよ?」
「どうぞ」
彼女は目線を注射器から動かさずに提案する。
少年が寝かされているのは、この書庫のような場所だった。
そこまでの広さでもない割に、幾つもの本棚が犇めき合っておりその全てに分厚い本が収められている。この部屋の中ではベッドすらも異質に見えてしまう程に、本棚がこの部屋の九割を占めているのだ。
文盲の少年に表題だけでその内容を知る事は出来ない。ただ、雰囲気だけでその本の全てが難解な専門書であるだろうという事は分かった。
「……俺は字が読めない」
「成程。ただ王国の識字率から考えれば、珍しい事でもないよ。読み聞かせてあげようか?」
「断る」
「それは残念」
三日も経てば警戒心も自ずと薄れる。少年が、グレシア・ユーフォルビアは脅威にならない。という判断を下したのは、既に昨日の事だ。
グレシアが採取した血液を採血管に入れ、立ち上がる。邪魔な針が抜け、少年は上体を起こした。
曰く、フレレルミンは血中に溶けやすく抜けにくい。その為、摂取した際には何日か経過を見る必要がある。少年はその為に、この場を離れることをグレシアにより止められていた。
「推測では今日で君を留める理由は無くなるよ。嬉しいかい?」
「そりゃ最高だな。もうあのゲロを喰わなくてもよくなる」
「直球すぎて皮肉になってないよ。……まぁそのことでね、私から少し提案があるんだ」
採血管をポケットに仕舞いながら、ベッド横の背もたれの無い丸い椅子に腰を落とした。
脚を組むと、ショートパンツから生えた太腿がぐにゃりと歪む。その声は甘く、しかしどこか苦い。まるで、香草のように。
「どうだろう、少年。私に雇われてみる、というのは」
「は?」
正気か。少年はその言葉を辛うじて呑み込んだ。
少年はグレシア・ユーフォルビアを殺そうとしていた。そして、今もだ。行動を起こさずとも、殺意自体は変わっていない。
人倫に反することは解している。ただ、記憶を失う前の人格が、そうだったのだろう。殺すという行為に関して、一切の躊躇いを感じない。
だと言うのに、彼女は自身を雇うという。つまりは、一度は自分を殺そうとした人間を側に置こうと言うのだ。
およそ常人の思考じゃない。驚きに眼を見開き、彼女の瞳孔を探る。曇りの無い、とは言え輝きも無い。雨の日の雫のような、彼女の蒼玉。
「本気か?」
「ああ勿論。私が冗談を言うような質に見えるかい?」
「自分で言ったんだぞ?」
――――誰とも知れないのは私たちも同じだ。その上、私の命を狙おうとしたおまけ付き。――――
グレシアが、少年をここに止めるという決断をした時の話。彼女は確かにそう言った。
正直ありがたい申し出ではある。
産業革命により生活水準は飛躍的に向上した。だがそれはつまり、地面と天井の差が広がったに過ぎない。
浮浪者の生活はいつも変わらない。
熱しやすく冷めやすいアスファルトは建材として最悪。ゴミ袋の寝床は慣れると案外心地よく眠れる。小麦をそのまま食べるのは身体に悪いと直感的に感じるし、食べ残しは御馳走だ。
何も変わらない。何も。ただ上が、より眩しくなっただけ。
「そうだね。本来ならいち早く追い出したいところだ。だが、こうなってくると事情が変わった。今の君は何より魅力的な人材だということさ」
「……」
単に、弱者に手を差し伸べたいだけの偽善者。どん底から少年を掬い上げようとする彼女の姿は、そうとしか見えなかった。
「何故?」
「ん?」
「何故俺を雇おうとする?」
なんだ、そんなことか。とでも言うように、彼女は表情を綻ばせた。
「かわいそうだから……と言いたいところだけど、私は慈善活動家ではなくてね。君の記憶に興味がある。君が関与していたかも知れない事件は解決してないんだ。君の記憶次第で大きく傾く可能性がある。何せ君はあの騒ぎの被害者だろうからね。私は犯罪を許さない」
「…………」
少年は思考を広げる。
未だ記憶は戻る気配がない。ただ、救助される前にしていた路地裏での生活は、存外に不自由しなかった。直感的にだが、本来の自分も今のように居場所のない存在だったのだろう、と思う。
それに、グレシアを殺さなければいけないという命令もある。逆らうという選択肢は、何故か脳内に存在しなかった。
ただ殺した後、亡きグレシアの頭を届ける場所を思い出してからでもいいのではないだろうか。
沈黙を拒否の予兆だと受け取ったのか、グレシアが再び口を開いた。
「実を言うとそれだけじゃない。アリアと張り合う身体能力、高い警戒心と、薬物耐性。知っているかい? 私は一つ嘘を吐いたんだ。君のフレレルミンの血中濃度はね、臨床実験では致死量だと断定されていた濃度を大きく超えていたんだよ?」
お互いの利害は、一致したと言ってもいい。
「雇うんだ、待遇も正当なものを約束するよ。宿はここを使うといい。場合によってはアリアの屋敷も空いてるだろう。三食昼寝付きだ。君の場合書類仕事も無い。自分で言うのもあれだけど、この街で二つと無い好待遇だと思うがね?」
「……文字を教えろ」
「ん?」
考えるのを辞めた。
未来のことを考えても仕方がない。少年は、今を生きている。
古代の詩人の言葉を少年は知らない。だが彼の胸には、同じ言葉が跳ねている。いい意味で獣のように。全身全霊で大地に立ち――――。
「……あぁ、契約成立でいいかい?」
「よろしく。探偵先生」
紀元前一世紀。古代ラウマ帝国の詩人、ホルカティアはかつてこう詠った。その日を摘め、と。
現代においてこの日を掴めとも訳されるその言葉は、今この瞬間を楽しめ、と解釈されている。
「じゃあ君は今からローラスだ」
「ローラス?」
「名前が無いと不便だろ? いいものが思い付くまで、そう呼ばせてくれ」
風が吹く。窓際の観葉植物のハーブのような匂いを、彼らは鼻腔まで運んだ。
「いいだろ? 私の好きな、花なんだ」
◆~~~~~◆
「しかし君が受けてくれてよかったよ」
「手放しで受けた訳じゃない。記憶が戻るまでの、暫定だ」
「それで構わないよ」
彼女はベッド脇のキャビネットに置かれていた紅茶を啜り始める。湯気が香る。至福の微笑みを浮かべながら、彼女は喉を鳴らした。
「受けてくれなければ脅してたよ」
「は?」
「建造物損壊罪。喉を狙う攻撃は殺意アリとみなすとして、殺人未遂罪もだね。私は刑法には詳しくないけど、この仕事をやっていると証言台に立つことが多々あってね。私はこれらで訴訟を起こすと、勝ち試合だ。私にとってはお金を貰う儀式のようなものさ。君にとっては悪魔の宣告だがね?」
ソーサーにカップを置く音が、やけに大きく響いた。卑怯だぞ。と言いたげなローラスの唇を人差し指で塞ぎ、探偵少女は悪戯っぽく笑う。
「私は警察でも軍隊でもない。探偵だからね、卑怯でもいいのさ」




