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裂日

作者: 中村慧

おいしい

<一>


 ぶん、ぶん。外から、旅人が、私の部屋に舞い込んでくる。

 音の方を見れば、一匹の蚊。ぐるぐると、六畳の部屋の中を、さまよっている。どうやら、開け放たれた窓から、迷い込んでしまったようだった。

 無理もない。外は森。一面広がる盛夏。ところ変わって、この中は一面の白。いや、クリーム色に近いかもしれない。ともかく。蚊はぐるぐると、箱庭の空間に戸惑っている。

 諦めてしまったようで、蚊はそのまま、黄ばんだ壁に羽を休める。煙草の臭いまで吸い込んでしまった、薄汚れた壁。それも、虫にはおかまいなしのようだ。

 この部屋の窓が二つあれば、逃がしてあげられたかもしれないけれど。あいにく、この部屋に窓は、一つしかない。

 私はちり紙を手に、そろりそろりと蚊に近づく。なぜか。刺されたら、かゆいから。かゆいのは、嫌いだ。

「にんげんさん、にんげんさん」

 ああ、先生の言った通りだ。幻聴は、ほんとうに聞こえるのだ。構わず、私はちり紙を覆い被せ、命を摘み取った。

 再び、部屋は静かになる。ちり紙を屑籠の中に、落とし込んだ。

 おひさまが、私の部屋をゆったりと照らしていた。


 先生は、言った。一日目。貴女は、吸血の幼子と出会い、その命を摘む。

 先生の、言う通りになった。


——————


<二>


 次の日。私は布団に横になっていた。天井を、ただ静かに見つめている。見つめていても、何も変わることはない。ただ空には、一面のヤニが広がっているだけ。

 前を見れば、窓。後ろを見れば、ドア。左に机。右に壁。代わり映えのしない、空間。再び、上を見れば。

 ぷら、ぷら。今度は空から、旅人が私の空間を訪れる。

 一筋の、糸。きらきらと光を反射していて、頼りなく、細い。私は糸の先を探す。もぞもぞと動く、黒いもの。

 蜘蛛。きっと巣を作ろうとしているのだろう。無理もない。森に囲まれた平屋。雨風をしのげる。天敵も来ない。彼らとて、生きるのには必死なのだ。

 糸は、徐々に私に向かって、伸びてくる。まるで、天から落とされた救い。外は、雨が降り頻っている。

 私はちり紙を手に、落ちゆく蜘蛛に接近する。

「にんげんさん、にんげんさん」

 ああ、まただ。先生の言った通り。ちり紙をますます近づける。ここは、私の部屋だから。

「まって、まって」

 思わず、手が止まる。幼い男の子の、声。

「……うるさい」

 私は、ちり紙を握りしめた。確実に仕留められるよう、何度も、何度も。

 男の子は、嫌い。弟を、思い出すから。家族が、蘇って仕舞うから。

 そして、そんな私も、嫌い。家族を忘れられない、私。

 気づけば、長い爪が幾重にも、手掌に食い込んでいた。あ。いけない。先生に、言われていたんだった。

 そして、静寂。ちり紙を屑籠の中に、投げ入れた。


 先生は言った。二日目。貴女は、小さき天人と出会い、その命を摘む。そのとき、家族を思い起こす。

 先生の、言う通りになった。


————————————


<三>


 次の日。私は椅子に腰掛け、本を読んでいた。外から漏れ伝わる、雨の圧政。ざあ、ざあ。その甲高い音は、本の世界すらも、脅かし続ける。

「にんげんさん、にんげんさん」

 私よりは年上の、女性の声。私は構わず、本に入り浸る。一人の少女の、思春期。その葛藤と、家族の愛を描いた物語。深く潜っていって、そのまま離れない。

「ちょっと、にんげんさん」

 途端に、文字がずるずると、踊り出す。あたたかくて、やさしい、かぞく。そのすべてが、這いずる虫に変わってゆく。

 思わず、本を閉じる。ぐちゃ。ぐちゃ。何かの潰れる音が、部屋中に響き渡る。

 表紙。家族を表していると言わんばかりに、春の空が一面に広がる、表紙。太陽が、桜が、少女をやさしく見守る。

 鈍く重い雲に、満たされてゆく。桜は、幹から絶えゆく。それを払い除ける。春が息を吹き返す。でも、雲の息吹は、どこからともなく、その本を覆い隠す。

「強情を張るのも、よしなさいよ」

 その声は、機械を彷彿とさせる。しかし、機械ではあり得ない。

 先生、なんて言っていたっけ。幻聴は存在しないから気にするな、そう言っていた。

 であれば。幻聴は、どうせ存在しないのだから。


「誰」

「こっちよ。こっち」

 私の勇気を、その声は事も無げに返す。声は、窓の方から聞こえる。ちり紙を箱から何枚も取り出す。そして声の方向に頭を持ってゆく。

 いたのだ。窓の下。足が八本。壁にいやしく、のさばっている。その躯体は、どれほどの同胞を食らったのだろうか、まるまると肥えていて、見るものを芯から凍りつかせる。

「……まさか、あんた?」

「そう」

 ああ、先生。その化け物は構わず、人間に擬態する。

「貴女、なぜ私の子を殺したの」

 子。怪物にしては、人間のようなことを言う。

「なんのこと?」

「とぼけないで。昨日、私の子を殺したでしょう」

 彼女の指定で、ようやく合点がゆく。

「ああ、あれ」

「そう、あれ」

 突然、外から光が溢れ出る。雷だ。神の怒りが、部屋中に行き渡る。

 息を深く吸い、吐く。考えてみれば、会話も案外久しい。幻聴でなければ、より良かったかもしれないが。

「なぜって。ここは私の部屋だから」

「なぜ、あなたの部屋だと殺すの?」

「不快だから」

「なぜ不快だと殺すの? 追い返せば良い」

「なぜって——」

 私は絶句する。その蜘蛛は尊大にも、私の空間を侵して動かない。

「良い? ここは私の部屋。そうね、私のなわばり。だから、なわばりに入られたら殺す。それだけ。」

 途端に、幻聴は黙り込む。なわばり。その言葉が、効いたのかな。幻聴の発生源を見つめる。微動だにしない。それはどこまでも、蜘蛛だった。

「……怒ってる?」

 彼女は、いや幻聴は、それに呼応し、吐き捨てるように言う。

「違う。そういう感情は、持ってない」

 ああ、なるほど。その声は、どこまでも透き通っている。一滴の感情もない、ほんとうの透明。人間の声に確かによく似ている。だが決して、人間ではない。

「折角の子供なの。親として、黙っちゃいられない」

 彼女は、あくまで淡々と、しかしはっきりと、言いおおせた。愛情、なのかな。私は、心の奥底で何かが湧き上がるのを感じた。

「あら。子供想い」

「普通よ。お腹から出てきているんだもの」

「へえ、普通ね」

 私は、手に隠していたちり紙を、彼女に被せる。

「まって——」

 くちゃあ。豊満な身体が、子への愛が、手の中で確かな存在を見せて、反響した。

「あなたが親だったなら、私もこうならなくて、済んだのかな」

 私の世界は、平穏を取り戻す。ちり紙を屑籠の中に、叩き入れた。

 そして本を開いた。本の中には、ちゃあんと、あたたかい家族が存在していた。私はスポンジになって、その世界を吸い尽くす。

 ひとしきり堪能した後は、屑籠の脇に置いた。


 先生は言った。三日目。貴女は、黒き怪物と出会い、その命を摘む。そのとき、親子の愛を手に残す。

 先生の、言う通りになった。


——————————————————


<四>


 次の日、私はドアにもたれかかって、電気も点けず、床を眺めていた。

 昨日からの雨は、もう止んでいるようだった。日は完全に落ちて、今度は月が、凍てつく光を差し入れる。知るよしもない音が、この部屋の中にすら、所狭しと居座っている。ぎい、ぎい。ぎゃあ、ぎゃあ。あなたたちは、一体誰?

 外から、また旅人が私の世界に入り込む。茶色の羽に、余計に目玉がついていて、ぎょろ、ぎょろと、あたりを見回している。その目玉は、よく見ると、毛細血管の一つ一つもわずかに浮き出ていて、人間のものとそっくりだった。ただ、白目であるはずの部分は、まっかだ。

 そして、その目玉は私に照準を定めて、机の上に留まった。そこには、履歴書を置いていた。その履歴書は一年前から、その場所で時を止めていて、白い紙であるはずのそれは、灰色へと変化を遂げている。ああ、クビにされてから、そんなに経つんだ。

「神辺ショウ子、さん。二十四歳。人間にしては、まだお若い」

 初老の、穏やかな男性の声。心の底に響く声だった。今は二十五歳だけど、そんなことはどうでもいい。思わず、身を後ろに引きつける。しかし、ドアに思いきり、身体が押し付けられるだけ。

「あなた、文字が読めるの。年齢が、理解できるの」

「ああ。私たちは、博識だから」

 その蛾は、誇らしげであるというふうに、羽を開く。しかし、相変わらず、その声は人間のそれではなかった。

「ご老人は、どうしたんだい」

 私は息を身体の奥底へと押しやる。体も、無意識に彼から離れようとする。余計、ドアが軋む。ご老人。きっと、おじいちゃんのことだ。二年前に行方不明になった、おじいちゃん。

「なぜおじいちゃんのこと、知っているの」

「虫の知らせ、と言うだろう。私たちの情報網は、君たちを凌駕している」

 ああ、どおりで。昨日の蜘蛛も、子の死を知っていた。

「おじいちゃんは、もうここにいない。違うところにいる」

「では、なぜ君が」

「私がただ一人。血のつながった家族だから」

「はて。君が彼の孫なら、彼の子も、また彼の妻もいるだろう」

「全員、死んだ。私が小さいときに、みんな死んだ」

 彼は、目玉を少し、私から逸らした。

「それは失敬」

 私はふふっ、と微笑んだ。なんと気遣いの出来る蛾だろう。あまりに、紳士。可笑しさを紛らそうと、私は話を戻す。

「それで、おじいちゃんに、何の用」

 彼は、羽をめいっぱいに広げ、目もめいっぱい見開く。

「お礼が言いたい。はるか昔、私の先祖が、君の祖父に逃がしてもらったらしい。そのおかげで、今の私がいるのでね」

「ああ、おじいちゃんらしい」

「らしい、とは?」

「誰にでも、やさしい人だった。人でもなんでも、助けちゃって。たまに、面倒なんかも見ちゃって」

 彼は、羽をゆらゆらと動かし、黙って聞いていた。

「私、あの人が大好きだったの。おじいちゃんのところに行けば、嫌なことなんて忘れちゃって」

 目玉を閉じた。茶にくすむ羽の中でも、目玉の部分は少し盛り上がっていて、人間のものとおんなじだった。

「でもとにかく、ここにはいないわ。残念ね」

 そうしたら彼は、にわかに飛び立って、言った。

「そうか。用を果たせないならば、失礼するよ。蜘蛛の親子のようには、なりたくないものでね」

「まって」

 私は思わず、言い放つ。彼は構わず、月を目指す。

「おじいちゃんの行方が、知りたいの。何か手がかりでも、ない」

 目を閉じ、背を向けたまま。

「知らないし、私たちには、何が手がかりかもわからない。私たちは、人間じゃあない」

 彼は、離れていってしまった。

 私は、机を見た。机からは、おじいちゃんの匂いがした。

 ああ、先生。貴方の言うことは、ほんとうだった。私は、戻ってゆく。


 先生は言った。四日目。貴女は、目玉の賢者と出会い、その命を逃す。そのとき、貴女の中に、やさしい泉が現れる。

 先生の、言う通りになった。


————————————————————————


<五>


 次の日。私は机の下にいて、白日から逃れていた。

 先生の言う通り。一週間は、水も、食べ物も要らない。だから、この世界から出る必要もなかった。けれど、陽光はどうしても、そんな私を許してくれない。白が、目に刺さるのだ。

 また、窓から何か、飛び入ってきた。でも私は、影から出られない。

 それはやがて、私の前に舞い降りた。羽を閉じていて、真っ白で儚げ。その優雅さは、蝶のそれだった。

「僕は、殺さないんだ」

 また幻聴が聞こえる。刹那、私の脳みそは、何かかたくて大きいもので殴り付けられた。そう思えたのだ。

「僕のことは、殺さないんだ。蜘蛛の親子は、殺したのに。僕は殺さない」

 少年、といった感じだった。生気に溢れていて、私の脳を突き刺す。途端に、私の中で何かが反乱を起こす。私はその場に、嘔吐した。頭が割れそうで、肺が張り裂けそうで、手は冷たい。でも、その声に応えるわけにはいかない。

「どうして殺したんだい。どうして、罪のない彼らを殺したんだい」

 かの声は、私の反応がないと見て、余計に大きく、騒がしくなっていった。今までと違って、愉しげで、どこか演劇めいている。先導者。煽動者。慈悲に溢れているようで、その実、快楽に勤しんでいる。誰かにそっくりだった。

「おお、かわいそうな蜘蛛の親子!」

 一閃、唐突に脳内にねじ込まれた。手を伸ばし、その羽をつまむ。彼の身体は、びくっ、と痙攣した。

「貴方、弟にそっくりね」

 愛おしき弟。今でも忘れることはない。

「弟にそっくりなのよ。その自信も。その憎らしさもね」

「何を言って——」

「貴方、自分が美しいと思っているでしょう。だから、殺されないって」

 私は男の子の羽を、丁寧に、一枚もいであげる。その子は、悲痛な叫び声をあげた。その声は、神のお気に召す声だった。天まで届く声。でも、救いを求める声。くうん、くうん。人間に縋る、子犬のよう。

「痛いでしょう。痛いでしょうね。私も痛かったのよ」

 また、一枚。叫び声は、世界中を幾重にも、こだました。悲しげで、切なくて、きれい。

「そんな声、出せるんだ。早く教えてくれれば、良かったのに」

 あ、でも。

「ああ、自分じゃ、わからないね」

 私は、お前とは違う。おじいちゃんみたいに、やさしくなくっちゃ。

「今のあなたの声は、私の叫び声とおんなじよ」

 ちゃあんと、教えてあげた。やさしいお姉ちゃん、できているかな。

「やめて……」

「なんでよ。お前は止めてくれなかったじゃない」

 あ。羽がもうない。でも、足はまだ六本もある。また、一本。お前は、ガラスのように可憐で、脆い声を出した。

「いまのおとうさんは、私に、こう言っていた。お前はだめなやつだ。だから、俺が、女にしてやるんだって」

 また、一本。おんなじような叫び声で、少し飽きてきて仕舞う。

「いまのおかあさんは、私に、こう言っていた。お前には何の価値もない。だから、すべて私の、言う通りにしなさいって」

 ああ、おかあさん言っていたな。飽きるのは工夫が足りない。工夫しろ。って。

「お前は、気楽だったろうねえ。黙っていれば、すべて揃ったんだもんねえ」

 足を三本、胴体から一気に引き摺り、堕とす。お前はまた、情けなく、轟いた。もはやその中に悲しさは感じられない。どこまでも動物的で、どこまでも情熱的だった。

「それだけじゃ足りなかったのね。お前は愉しんでいた。人のふしあわせが、そんなにさいわいだったのかい」

 さっきの一声に命を吹き込んでしまったのだろう。もう虫の息だった。文字通り。それで、こう囁くのだ。

「やめてくれ、頼む。お願いだ。ネエ——」

 でも、私の耳に、お前の言葉は届かない。

「お前さえいなければ。お前さえいなければ、私は——」

 威風堂々、最後の一本を抜き取ろうとした。だが、お前はもう、既に事切れていた。

 ああ、終わっちゃった。胴体からは、紅い体液がだらだらと、床に垂れ湿る。

 私はため息まじり、彼の部品だったものごと、屑籠へプレゼントした。

 屑籠は、ありがとう、と言って、けた、けた、笑う。

 彼の脇には、家族の物語があった。ああ、私にも、家族がいるんだ。私はその本を、机の上に戻した。


 先生は言った。五日目。貴女は、白き壮麗と出会い、その命を剥奪する。そのとき、憎悪をすべて、嘔吐する。そして貴女は、家族の渇きを抱く。

 先生の、言う通りになった。


——————————————————————————————


<六>


 次の日。私はドアに手をかけ、立ちすくんでいた。

 食料を確保しに行く必要があった。いくら先生の言う通りとはいえ、その実、飢えも、渇きも、少しは感じていた。必要だったのだ。私のかわいい、ごはんたち。

 しかし、ドアには、いた。茶に鈍く輝く、あの虫。触覚をいやしくも、縦横無尽に走らせ、日輪の光を、穢らわしく、乱反射させる。

 あいにく、食用でも、飲用でもなさそうだった。であれば、私は彼と戦わなければならない。戦って、生を勝ち取るのだ。

 彼を殺すには、ちり紙では難しい。厚みのあるものが、ほしい。

 私は見渡す。後ろの窓。左の布団。右の机。机の上に、あの本があった。家族の物語。手に取り、彼に対峙する。

 知らないうちに、口を動かしていた。

「私ね。もう、家族に恨みなんてないの」

 舌が、唇が、肺が、それぞれ意志を持った。

「私を育ててくれたのは、紛れもなく家族なの」

 ああ、その通りだ。心は、各々の器官は、意志を一致させた。

「だから今は、はやく家族に会いたい。みんなで、またご飯を食べたい」

 彼は、触覚を、ぬる、ぬると動かすと、私に、果敢に話しかけた。

「君のは、ほんとうかい」

 私と同い年くらいの、男。それは、明らかに怒りを抱いていた。

「こんな窮屈な部屋に、閉じ籠もって」

 私は思わず、笑ってしまった。虫にも人格が宿って仕舞う、そんな現代。

「ゴキブリが説教するなんて、良い時代ね」

 彼は、続けた。

「得られぬものは、得やしない」

 いまだ。私は本を、彼に思いきり叩きつけた。彼は素早く、下方へ移動する。右足に当たった。しかし、それでも彼は、逃走を諦めることがなかった。

「残念だね。君に僕は殺せない」

 彼は下へと移動しつつ、吐き捨てるように言った。怒りを抱いたまま。

「僕の方が、正しいから」

 そして、うちなる外へと、逃げおおせた。

 本は、角がまるくなってしまって、もう読める代物ではなかった。

 もう、要らないや。私は紙の束を、床に投げ捨てた。屑籠が、怒って揺れる。


 先生は言った。六日目。貴女は、卑しき論者と出会い、その命を逃す。そのとき、貴女の考えは、より確かなものとなる。

 先生の、言う通りになった。


————————————————————————————————————


<七>


 次の日。私は布団から、動けなくなっていた。烈日が私を蝕み続ける。

 飢えも、渇きも、極限に達していた。確かに一週間は、水も食べ物も要らなかった。だが、それはただ、誤魔化しているだけだった。先生にも、少しお茶目なところがあったのだ。

 それに、あれは、ドアから、向こう側へと逃げた。もしかしたら、私を、食らう気かもしれない。世界の彼方は、此方とは違う。

 ぴー、ぴー。小鳥が、私を心配して、尋ねに来てくれた。

「にんげんさん、にんげんさん」

 その小鳥は窓辺に留まって、楽しげに、歌っていた。ああ、私を助けにきてくれたのだ。

 私はその小鳥を、身体ごと捕まえる。その身体は、ぶる、ぶる、と、エールを、送ってくれている。そのまま、壁へと押し付け、固定する。

「ありがとうね、小鳥さん」

 私は、空いた片手で、床に横たわる、本であったものを持ち上げた。

「やめて、ショウ子——」

 あれ。問う暇もなく、その鈍器を、頭目掛けて叩きつけた。びくん、びくん。数秒踊って、彼女は静けさを会得した。

 赫赫。液体が、手の甲を伝う。温度を持っていて、ねっとりしていて、不快。

 粘液を、舐めた。甘くて、しょっぱくて、でも鉄っぽくて、健康。飢えも、渇きも、外へと逃げ出して仕舞った。そして、飢えと、乾きは、外に出て、烈日を完全に堕落させた。彼の刃は、この部屋に入るのを、止めて仕舞う。

 私は小鳥の首元に、グラスを備えておいた。この珍味を、後で確かに嗜むのだ。屑籠は怒り狂って、そっぽを向いて、こう言った。

「ぼくにも、くれやい」

 私は、いじわるな笑みを浮かべて、優しく言った。

「だめ。これは私のもの」


 先生は言った。七日目。貴女は、小鳥と出会い、その頭を潰す。そのとき、貴女は家族に、最も近い人間となる。

 先生の、言う通りになった。


——————————————————————————————————————————


<八>


 次の日。わん、わん。私はその音で、目が覚めた。

 もう、烈日がこの世界に、見えることはない。世界は陰に住み良い箱庭。

 わん、わん。その音は、だんだんと誇大になってくる。犬は、人間の言葉を知らなかった。やがて、窓を突き破って、わんこは、世界を侵犯した。

 二人の警官は、眼前の光景に言葉を失った。言葉が失われたのだ。

 わんこたちが、急に、大人しくなった。もしかして、話しかけてほしいのかな。

「お前、一体なにを——」

「わんちゃん、こんにちは。貴方たちも、遊びに来てくれたのかな?」

 その部屋は、糞尿にまみれていた。だが、それは些細なこと。そう思えるほどに、その部屋は異形だった。鼻を切り裂くなまものの臭い。彼岸の色。それらが支配する空間。

「今までもね、いろんな子が、来てくれたの。まず、蚊ね」

 注射器が、床一面を覆い尽くす。もはや、この部屋の土台でもあった。

「それに、蜘蛛の親子。家族愛って、虫でもあるのね。感動しちゃった」

 うつ伏せに倒れる小さい子と、その子に覆い被さる女性。もしかして、親子であろうか。女性は、大切そうに、その子を抱きしめていた。

「あと、博識な蛾。その次はね、傲慢な蝶」

 高校生か、あるいは大学生か。少年が机の下で、吐瀉物を枕に仰向けになっている。いや、胴体が。四肢は関節ごとに切り取られ、七つ、周囲に点在している。右足の上腿だけは胴体に接着したままだった。苦悶と憎しみを顔に明確に浮かべて、凍りついていた。

「あ、ゴキブリもいた。彼、どこに行ったのかしら」

 少年の傍には、余計に右腕がもう一つ、落ちていた。大方、交番に来た男性のものだろう。血みどろになって、顔面を蒼白にして、助けを求めた彼。彼は言っていた。家族といっしょに、彼女を戻そうとした。そうしたら、みな、殺された。

「さいごは、小鳥さん。私、あの子のおかげで、死なずに済んだんだから」

 初老の女性。頭と、胴体と、完全に切り離されている。そして、首下には大きい盃が据えてあって、なみなみと、たましいが注がれていた。

「みんな、楽しい子たちだった。虫さんって、こんなに個性豊かなのね。知らなかった」

 どれも、胴体が著しく欠損していた。熊に襲われた方々。それとおんなじ形をしていた。まるで、彼女が喰った、そう言わんばかりの。

「それに、あなたたち。ああ、なんて楽しい日なの」

 そして、その中央に立つ、女性。血に塗れて、もはやどんな服かも、わからない。ただ、冷酷なまでに、少女だった。目を輝かせ、屈託のない笑みを絶やさず、髪は血にも負けず、さらさらと、流れを持つ。そして、手には、鈍く光る灰色の刃をかざしていた。

「これも先生のおかげね。ありがとう、先生」

「お前、さっきから何を言って——」

「そう。これが、最後の子たち!」

 彼女は、鋒をこちらに向け、飛びかかってくる。二人の警官は咄嗟に銃を構える。ばあん。ばあん。二発の弾は、彼女を求め、そして、貫く。彼女のたましいが散って、星となる。


 刹那、私は床に広がるひとたちを、見た。いとこ。おばさん。おとうと。そして、おかあさん。憎悪に愛した、家族たち。先生は言った。八日目。貴女は、二匹の眷属と出会う。そのとき、貴女は、家族の元に、帰る。

「まあ、かわいい!」

 彼女は、少女であることをやめていた。遠くなるほどに、成年の女性。顔をしかめて、まっさおな涙を流して。

 蝋の心は、融けていた。そしてそのまま、血に堕ちた。


————————————————————————————————————————————————


<く>


 その夜。部屋の中心。世界の中心には、おひさまがいた。おひさまは、まっぷたつに裂けていた。

 白い蛾は、言った。

 貴方は、言っていた。宗教に溺れた牝鹿など、薬物にたましいを献げた牝鹿など、我が血の恥さらし。私たちの家に、隔離しなければならない、と。

 黒い蛾は、言った。

 貴方は、言っていた。そうしたら、みな、殺された。あの牝鹿は、最後まで我が家に、仇なすケダモノであった、と。

 二匹の蛾は、こう尋ねた。

 さて、問題です。彼女の穴を創りたもうたのは、いったい、誰?

 彼女の父親は、言った。

 彼女自身。そうでしょう。

 二匹の蛾は、言った。

 エエ、そうでしょう。

 そうして彼らは、おひさまを、なかよく喰らい尽くした。

 おひさまは、にこにこしながら、彼らに蝕まれていった。


 おしまい。


——————————————————————————————————————————————————————

アルカリイオンの 水

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