裂日
おいしい
<一>
ぶん、ぶん。外から、旅人が、私の部屋に舞い込んでくる。
音の方を見れば、一匹の蚊。ぐるぐると、六畳の部屋の中を、さまよっている。どうやら、開け放たれた窓から、迷い込んでしまったようだった。
無理もない。外は森。一面広がる盛夏。ところ変わって、この中は一面の白。いや、クリーム色に近いかもしれない。ともかく。蚊はぐるぐると、箱庭の空間に戸惑っている。
諦めてしまったようで、蚊はそのまま、黄ばんだ壁に羽を休める。煙草の臭いまで吸い込んでしまった、薄汚れた壁。それも、虫にはおかまいなしのようだ。
この部屋の窓が二つあれば、逃がしてあげられたかもしれないけれど。あいにく、この部屋に窓は、一つしかない。
私はちり紙を手に、そろりそろりと蚊に近づく。なぜか。刺されたら、かゆいから。かゆいのは、嫌いだ。
「にんげんさん、にんげんさん」
ああ、先生の言った通りだ。幻聴は、ほんとうに聞こえるのだ。構わず、私はちり紙を覆い被せ、命を摘み取った。
再び、部屋は静かになる。ちり紙を屑籠の中に、落とし込んだ。
おひさまが、私の部屋をゆったりと照らしていた。
先生は、言った。一日目。貴女は、吸血の幼子と出会い、その命を摘む。
先生の、言う通りになった。
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<二>
次の日。私は布団に横になっていた。天井を、ただ静かに見つめている。見つめていても、何も変わることはない。ただ空には、一面のヤニが広がっているだけ。
前を見れば、窓。後ろを見れば、ドア。左に机。右に壁。代わり映えのしない、空間。再び、上を見れば。
ぷら、ぷら。今度は空から、旅人が私の空間を訪れる。
一筋の、糸。きらきらと光を反射していて、頼りなく、細い。私は糸の先を探す。もぞもぞと動く、黒いもの。
蜘蛛。きっと巣を作ろうとしているのだろう。無理もない。森に囲まれた平屋。雨風をしのげる。天敵も来ない。彼らとて、生きるのには必死なのだ。
糸は、徐々に私に向かって、伸びてくる。まるで、天から落とされた救い。外は、雨が降り頻っている。
私はちり紙を手に、落ちゆく蜘蛛に接近する。
「にんげんさん、にんげんさん」
ああ、まただ。先生の言った通り。ちり紙をますます近づける。ここは、私の部屋だから。
「まって、まって」
思わず、手が止まる。幼い男の子の、声。
「……うるさい」
私は、ちり紙を握りしめた。確実に仕留められるよう、何度も、何度も。
男の子は、嫌い。弟を、思い出すから。家族が、蘇って仕舞うから。
そして、そんな私も、嫌い。家族を忘れられない、私。
気づけば、長い爪が幾重にも、手掌に食い込んでいた。あ。いけない。先生に、言われていたんだった。
そして、静寂。ちり紙を屑籠の中に、投げ入れた。
先生は言った。二日目。貴女は、小さき天人と出会い、その命を摘む。そのとき、家族を思い起こす。
先生の、言う通りになった。
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<三>
次の日。私は椅子に腰掛け、本を読んでいた。外から漏れ伝わる、雨の圧政。ざあ、ざあ。その甲高い音は、本の世界すらも、脅かし続ける。
「にんげんさん、にんげんさん」
私よりは年上の、女性の声。私は構わず、本に入り浸る。一人の少女の、思春期。その葛藤と、家族の愛を描いた物語。深く潜っていって、そのまま離れない。
「ちょっと、にんげんさん」
途端に、文字がずるずると、踊り出す。あたたかくて、やさしい、かぞく。そのすべてが、這いずる虫に変わってゆく。
思わず、本を閉じる。ぐちゃ。ぐちゃ。何かの潰れる音が、部屋中に響き渡る。
表紙。家族を表していると言わんばかりに、春の空が一面に広がる、表紙。太陽が、桜が、少女をやさしく見守る。
鈍く重い雲に、満たされてゆく。桜は、幹から絶えゆく。それを払い除ける。春が息を吹き返す。でも、雲の息吹は、どこからともなく、その本を覆い隠す。
「強情を張るのも、よしなさいよ」
その声は、機械を彷彿とさせる。しかし、機械ではあり得ない。
先生、なんて言っていたっけ。幻聴は存在しないから気にするな、そう言っていた。
であれば。幻聴は、どうせ存在しないのだから。
「誰」
「こっちよ。こっち」
私の勇気を、その声は事も無げに返す。声は、窓の方から聞こえる。ちり紙を箱から何枚も取り出す。そして声の方向に頭を持ってゆく。
いたのだ。窓の下。足が八本。壁にいやしく、のさばっている。その躯体は、どれほどの同胞を食らったのだろうか、まるまると肥えていて、見るものを芯から凍りつかせる。
「……まさか、あんた?」
「そう」
ああ、先生。その化け物は構わず、人間に擬態する。
「貴女、なぜ私の子を殺したの」
子。怪物にしては、人間のようなことを言う。
「なんのこと?」
「とぼけないで。昨日、私の子を殺したでしょう」
彼女の指定で、ようやく合点がゆく。
「ああ、あれ」
「そう、あれ」
突然、外から光が溢れ出る。雷だ。神の怒りが、部屋中に行き渡る。
息を深く吸い、吐く。考えてみれば、会話も案外久しい。幻聴でなければ、より良かったかもしれないが。
「なぜって。ここは私の部屋だから」
「なぜ、あなたの部屋だと殺すの?」
「不快だから」
「なぜ不快だと殺すの? 追い返せば良い」
「なぜって——」
私は絶句する。その蜘蛛は尊大にも、私の空間を侵して動かない。
「良い? ここは私の部屋。そうね、私のなわばり。だから、なわばりに入られたら殺す。それだけ。」
途端に、幻聴は黙り込む。なわばり。その言葉が、効いたのかな。幻聴の発生源を見つめる。微動だにしない。それはどこまでも、蜘蛛だった。
「……怒ってる?」
彼女は、いや幻聴は、それに呼応し、吐き捨てるように言う。
「違う。そういう感情は、持ってない」
ああ、なるほど。その声は、どこまでも透き通っている。一滴の感情もない、ほんとうの透明。人間の声に確かによく似ている。だが決して、人間ではない。
「折角の子供なの。親として、黙っちゃいられない」
彼女は、あくまで淡々と、しかしはっきりと、言いおおせた。愛情、なのかな。私は、心の奥底で何かが湧き上がるのを感じた。
「あら。子供想い」
「普通よ。お腹から出てきているんだもの」
「へえ、普通ね」
私は、手に隠していたちり紙を、彼女に被せる。
「まって——」
くちゃあ。豊満な身体が、子への愛が、手の中で確かな存在を見せて、反響した。
「あなたが親だったなら、私もこうならなくて、済んだのかな」
私の世界は、平穏を取り戻す。ちり紙を屑籠の中に、叩き入れた。
そして本を開いた。本の中には、ちゃあんと、あたたかい家族が存在していた。私はスポンジになって、その世界を吸い尽くす。
ひとしきり堪能した後は、屑籠の脇に置いた。
先生は言った。三日目。貴女は、黒き怪物と出会い、その命を摘む。そのとき、親子の愛を手に残す。
先生の、言う通りになった。
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<四>
次の日、私はドアにもたれかかって、電気も点けず、床を眺めていた。
昨日からの雨は、もう止んでいるようだった。日は完全に落ちて、今度は月が、凍てつく光を差し入れる。知るよしもない音が、この部屋の中にすら、所狭しと居座っている。ぎい、ぎい。ぎゃあ、ぎゃあ。あなたたちは、一体誰?
外から、また旅人が私の世界に入り込む。茶色の羽に、余計に目玉がついていて、ぎょろ、ぎょろと、あたりを見回している。その目玉は、よく見ると、毛細血管の一つ一つもわずかに浮き出ていて、人間のものとそっくりだった。ただ、白目であるはずの部分は、まっかだ。
そして、その目玉は私に照準を定めて、机の上に留まった。そこには、履歴書を置いていた。その履歴書は一年前から、その場所で時を止めていて、白い紙であるはずのそれは、灰色へと変化を遂げている。ああ、クビにされてから、そんなに経つんだ。
「神辺ショウ子、さん。二十四歳。人間にしては、まだお若い」
初老の、穏やかな男性の声。心の底に響く声だった。今は二十五歳だけど、そんなことはどうでもいい。思わず、身を後ろに引きつける。しかし、ドアに思いきり、身体が押し付けられるだけ。
「あなた、文字が読めるの。年齢が、理解できるの」
「ああ。私たちは、博識だから」
その蛾は、誇らしげであるというふうに、羽を開く。しかし、相変わらず、その声は人間のそれではなかった。
「ご老人は、どうしたんだい」
私は息を身体の奥底へと押しやる。体も、無意識に彼から離れようとする。余計、ドアが軋む。ご老人。きっと、おじいちゃんのことだ。二年前に行方不明になった、おじいちゃん。
「なぜおじいちゃんのこと、知っているの」
「虫の知らせ、と言うだろう。私たちの情報網は、君たちを凌駕している」
ああ、どおりで。昨日の蜘蛛も、子の死を知っていた。
「おじいちゃんは、もうここにいない。違うところにいる」
「では、なぜ君が」
「私がただ一人。血のつながった家族だから」
「はて。君が彼の孫なら、彼の子も、また彼の妻もいるだろう」
「全員、死んだ。私が小さいときに、みんな死んだ」
彼は、目玉を少し、私から逸らした。
「それは失敬」
私はふふっ、と微笑んだ。なんと気遣いの出来る蛾だろう。あまりに、紳士。可笑しさを紛らそうと、私は話を戻す。
「それで、おじいちゃんに、何の用」
彼は、羽をめいっぱいに広げ、目もめいっぱい見開く。
「お礼が言いたい。はるか昔、私の先祖が、君の祖父に逃がしてもらったらしい。そのおかげで、今の私がいるのでね」
「ああ、おじいちゃんらしい」
「らしい、とは?」
「誰にでも、やさしい人だった。人でもなんでも、助けちゃって。たまに、面倒なんかも見ちゃって」
彼は、羽をゆらゆらと動かし、黙って聞いていた。
「私、あの人が大好きだったの。おじいちゃんのところに行けば、嫌なことなんて忘れちゃって」
目玉を閉じた。茶にくすむ羽の中でも、目玉の部分は少し盛り上がっていて、人間のものとおんなじだった。
「でもとにかく、ここにはいないわ。残念ね」
そうしたら彼は、にわかに飛び立って、言った。
「そうか。用を果たせないならば、失礼するよ。蜘蛛の親子のようには、なりたくないものでね」
「まって」
私は思わず、言い放つ。彼は構わず、月を目指す。
「おじいちゃんの行方が、知りたいの。何か手がかりでも、ない」
目を閉じ、背を向けたまま。
「知らないし、私たちには、何が手がかりかもわからない。私たちは、人間じゃあない」
彼は、離れていってしまった。
私は、机を見た。机からは、おじいちゃんの匂いがした。
ああ、先生。貴方の言うことは、ほんとうだった。私は、戻ってゆく。
先生は言った。四日目。貴女は、目玉の賢者と出会い、その命を逃す。そのとき、貴女の中に、やさしい泉が現れる。
先生の、言う通りになった。
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<五>
次の日。私は机の下にいて、白日から逃れていた。
先生の言う通り。一週間は、水も、食べ物も要らない。だから、この世界から出る必要もなかった。けれど、陽光はどうしても、そんな私を許してくれない。白が、目に刺さるのだ。
また、窓から何か、飛び入ってきた。でも私は、影から出られない。
それはやがて、私の前に舞い降りた。羽を閉じていて、真っ白で儚げ。その優雅さは、蝶のそれだった。
「僕は、殺さないんだ」
また幻聴が聞こえる。刹那、私の脳みそは、何かかたくて大きいもので殴り付けられた。そう思えたのだ。
「僕のことは、殺さないんだ。蜘蛛の親子は、殺したのに。僕は殺さない」
少年、といった感じだった。生気に溢れていて、私の脳を突き刺す。途端に、私の中で何かが反乱を起こす。私はその場に、嘔吐した。頭が割れそうで、肺が張り裂けそうで、手は冷たい。でも、その声に応えるわけにはいかない。
「どうして殺したんだい。どうして、罪のない彼らを殺したんだい」
かの声は、私の反応がないと見て、余計に大きく、騒がしくなっていった。今までと違って、愉しげで、どこか演劇めいている。先導者。煽動者。慈悲に溢れているようで、その実、快楽に勤しんでいる。誰かにそっくりだった。
「おお、かわいそうな蜘蛛の親子!」
一閃、唐突に脳内にねじ込まれた。手を伸ばし、その羽をつまむ。彼の身体は、びくっ、と痙攣した。
「貴方、弟にそっくりね」
愛おしき弟。今でも忘れることはない。
「弟にそっくりなのよ。その自信も。その憎らしさもね」
「何を言って——」
「貴方、自分が美しいと思っているでしょう。だから、殺されないって」
私は男の子の羽を、丁寧に、一枚もいであげる。その子は、悲痛な叫び声をあげた。その声は、神のお気に召す声だった。天まで届く声。でも、救いを求める声。くうん、くうん。人間に縋る、子犬のよう。
「痛いでしょう。痛いでしょうね。私も痛かったのよ」
また、一枚。叫び声は、世界中を幾重にも、こだました。悲しげで、切なくて、きれい。
「そんな声、出せるんだ。早く教えてくれれば、良かったのに」
あ、でも。
「ああ、自分じゃ、わからないね」
私は、お前とは違う。おじいちゃんみたいに、やさしくなくっちゃ。
「今のあなたの声は、私の叫び声とおんなじよ」
ちゃあんと、教えてあげた。やさしいお姉ちゃん、できているかな。
「やめて……」
「なんでよ。お前は止めてくれなかったじゃない」
あ。羽がもうない。でも、足はまだ六本もある。また、一本。お前は、ガラスのように可憐で、脆い声を出した。
「いまのおとうさんは、私に、こう言っていた。お前はだめなやつだ。だから、俺が、女にしてやるんだって」
また、一本。おんなじような叫び声で、少し飽きてきて仕舞う。
「いまのおかあさんは、私に、こう言っていた。お前には何の価値もない。だから、すべて私の、言う通りにしなさいって」
ああ、おかあさん言っていたな。飽きるのは工夫が足りない。工夫しろ。って。
「お前は、気楽だったろうねえ。黙っていれば、すべて揃ったんだもんねえ」
足を三本、胴体から一気に引き摺り、堕とす。お前はまた、情けなく、轟いた。もはやその中に悲しさは感じられない。どこまでも動物的で、どこまでも情熱的だった。
「それだけじゃ足りなかったのね。お前は愉しんでいた。人のふしあわせが、そんなにさいわいだったのかい」
さっきの一声に命を吹き込んでしまったのだろう。もう虫の息だった。文字通り。それで、こう囁くのだ。
「やめてくれ、頼む。お願いだ。ネエ——」
でも、私の耳に、お前の言葉は届かない。
「お前さえいなければ。お前さえいなければ、私は——」
威風堂々、最後の一本を抜き取ろうとした。だが、お前はもう、既に事切れていた。
ああ、終わっちゃった。胴体からは、紅い体液がだらだらと、床に垂れ湿る。
私はため息まじり、彼の部品だったものごと、屑籠へプレゼントした。
屑籠は、ありがとう、と言って、けた、けた、笑う。
彼の脇には、家族の物語があった。ああ、私にも、家族がいるんだ。私はその本を、机の上に戻した。
先生は言った。五日目。貴女は、白き壮麗と出会い、その命を剥奪する。そのとき、憎悪をすべて、嘔吐する。そして貴女は、家族の渇きを抱く。
先生の、言う通りになった。
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<六>
次の日。私はドアに手をかけ、立ちすくんでいた。
食料を確保しに行く必要があった。いくら先生の言う通りとはいえ、その実、飢えも、渇きも、少しは感じていた。必要だったのだ。私のかわいい、ごはんたち。
しかし、ドアには、いた。茶に鈍く輝く、あの虫。触覚をいやしくも、縦横無尽に走らせ、日輪の光を、穢らわしく、乱反射させる。
あいにく、食用でも、飲用でもなさそうだった。であれば、私は彼と戦わなければならない。戦って、生を勝ち取るのだ。
彼を殺すには、ちり紙では難しい。厚みのあるものが、ほしい。
私は見渡す。後ろの窓。左の布団。右の机。机の上に、あの本があった。家族の物語。手に取り、彼に対峙する。
知らないうちに、口を動かしていた。
「私ね。もう、家族に恨みなんてないの」
舌が、唇が、肺が、それぞれ意志を持った。
「私を育ててくれたのは、紛れもなく家族なの」
ああ、その通りだ。心は、各々の器官は、意志を一致させた。
「だから今は、はやく家族に会いたい。みんなで、またご飯を食べたい」
彼は、触覚を、ぬる、ぬると動かすと、私に、果敢に話しかけた。
「君のは、ほんとうかい」
私と同い年くらいの、男。それは、明らかに怒りを抱いていた。
「こんな窮屈な部屋に、閉じ籠もって」
私は思わず、笑ってしまった。虫にも人格が宿って仕舞う、そんな現代。
「ゴキブリが説教するなんて、良い時代ね」
彼は、続けた。
「得られぬものは、得やしない」
いまだ。私は本を、彼に思いきり叩きつけた。彼は素早く、下方へ移動する。右足に当たった。しかし、それでも彼は、逃走を諦めることがなかった。
「残念だね。君に僕は殺せない」
彼は下へと移動しつつ、吐き捨てるように言った。怒りを抱いたまま。
「僕の方が、正しいから」
そして、うちなる外へと、逃げおおせた。
本は、角がまるくなってしまって、もう読める代物ではなかった。
もう、要らないや。私は紙の束を、床に投げ捨てた。屑籠が、怒って揺れる。
先生は言った。六日目。貴女は、卑しき論者と出会い、その命を逃す。そのとき、貴女の考えは、より確かなものとなる。
先生の、言う通りになった。
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<七>
次の日。私は布団から、動けなくなっていた。烈日が私を蝕み続ける。
飢えも、渇きも、極限に達していた。確かに一週間は、水も食べ物も要らなかった。だが、それはただ、誤魔化しているだけだった。先生にも、少しお茶目なところがあったのだ。
それに、あれは、ドアから、向こう側へと逃げた。もしかしたら、私を、食らう気かもしれない。世界の彼方は、此方とは違う。
ぴー、ぴー。小鳥が、私を心配して、尋ねに来てくれた。
「にんげんさん、にんげんさん」
その小鳥は窓辺に留まって、楽しげに、歌っていた。ああ、私を助けにきてくれたのだ。
私はその小鳥を、身体ごと捕まえる。その身体は、ぶる、ぶる、と、エールを、送ってくれている。そのまま、壁へと押し付け、固定する。
「ありがとうね、小鳥さん」
私は、空いた片手で、床に横たわる、本であったものを持ち上げた。
「やめて、ショウ子——」
あれ。問う暇もなく、その鈍器を、頭目掛けて叩きつけた。びくん、びくん。数秒踊って、彼女は静けさを会得した。
赫赫。液体が、手の甲を伝う。温度を持っていて、ねっとりしていて、不快。
粘液を、舐めた。甘くて、しょっぱくて、でも鉄っぽくて、健康。飢えも、渇きも、外へと逃げ出して仕舞った。そして、飢えと、乾きは、外に出て、烈日を完全に堕落させた。彼の刃は、この部屋に入るのを、止めて仕舞う。
私は小鳥の首元に、グラスを備えておいた。この珍味を、後で確かに嗜むのだ。屑籠は怒り狂って、そっぽを向いて、こう言った。
「ぼくにも、くれやい」
私は、いじわるな笑みを浮かべて、優しく言った。
「だめ。これは私のもの」
先生は言った。七日目。貴女は、小鳥と出会い、その頭を潰す。そのとき、貴女は家族に、最も近い人間となる。
先生の、言う通りになった。
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<八>
次の日。わん、わん。私はその音で、目が覚めた。
もう、烈日がこの世界に、見えることはない。世界は陰に住み良い箱庭。
わん、わん。その音は、だんだんと誇大になってくる。犬は、人間の言葉を知らなかった。やがて、窓を突き破って、わんこは、世界を侵犯した。
二人の警官は、眼前の光景に言葉を失った。言葉が失われたのだ。
わんこたちが、急に、大人しくなった。もしかして、話しかけてほしいのかな。
「お前、一体なにを——」
「わんちゃん、こんにちは。貴方たちも、遊びに来てくれたのかな?」
その部屋は、糞尿にまみれていた。だが、それは些細なこと。そう思えるほどに、その部屋は異形だった。鼻を切り裂くなまものの臭い。彼岸の色。それらが支配する空間。
「今までもね、いろんな子が、来てくれたの。まず、蚊ね」
注射器が、床一面を覆い尽くす。もはや、この部屋の土台でもあった。
「それに、蜘蛛の親子。家族愛って、虫でもあるのね。感動しちゃった」
うつ伏せに倒れる小さい子と、その子に覆い被さる女性。もしかして、親子であろうか。女性は、大切そうに、その子を抱きしめていた。
「あと、博識な蛾。その次はね、傲慢な蝶」
高校生か、あるいは大学生か。少年が机の下で、吐瀉物を枕に仰向けになっている。いや、胴体が。四肢は関節ごとに切り取られ、七つ、周囲に点在している。右足の上腿だけは胴体に接着したままだった。苦悶と憎しみを顔に明確に浮かべて、凍りついていた。
「あ、ゴキブリもいた。彼、どこに行ったのかしら」
少年の傍には、余計に右腕がもう一つ、落ちていた。大方、交番に来た男性のものだろう。血みどろになって、顔面を蒼白にして、助けを求めた彼。彼は言っていた。家族といっしょに、彼女を戻そうとした。そうしたら、みな、殺された。
「さいごは、小鳥さん。私、あの子のおかげで、死なずに済んだんだから」
初老の女性。頭と、胴体と、完全に切り離されている。そして、首下には大きい盃が据えてあって、なみなみと、たましいが注がれていた。
「みんな、楽しい子たちだった。虫さんって、こんなに個性豊かなのね。知らなかった」
どれも、胴体が著しく欠損していた。熊に襲われた方々。それとおんなじ形をしていた。まるで、彼女が喰った、そう言わんばかりの。
「それに、あなたたち。ああ、なんて楽しい日なの」
そして、その中央に立つ、女性。血に塗れて、もはやどんな服かも、わからない。ただ、冷酷なまでに、少女だった。目を輝かせ、屈託のない笑みを絶やさず、髪は血にも負けず、さらさらと、流れを持つ。そして、手には、鈍く光る灰色の刃をかざしていた。
「これも先生のおかげね。ありがとう、先生」
「お前、さっきから何を言って——」
「そう。これが、最後の子たち!」
彼女は、鋒をこちらに向け、飛びかかってくる。二人の警官は咄嗟に銃を構える。ばあん。ばあん。二発の弾は、彼女を求め、そして、貫く。彼女のたましいが散って、星となる。
刹那、私は床に広がるひとたちを、見た。いとこ。おばさん。おとうと。そして、おかあさん。憎悪に愛した、家族たち。先生は言った。八日目。貴女は、二匹の眷属と出会う。そのとき、貴女は、家族の元に、帰る。
「まあ、かわいい!」
彼女は、少女であることをやめていた。遠くなるほどに、成年の女性。顔をしかめて、まっさおな涙を流して。
蝋の心は、融けていた。そしてそのまま、血に堕ちた。
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<く>
その夜。部屋の中心。世界の中心には、おひさまがいた。おひさまは、まっぷたつに裂けていた。
白い蛾は、言った。
貴方は、言っていた。宗教に溺れた牝鹿など、薬物にたましいを献げた牝鹿など、我が血の恥さらし。私たちの家に、隔離しなければならない、と。
黒い蛾は、言った。
貴方は、言っていた。そうしたら、みな、殺された。あの牝鹿は、最後まで我が家に、仇なすケダモノであった、と。
二匹の蛾は、こう尋ねた。
さて、問題です。彼女の穴を創りたもうたのは、いったい、誰?
彼女の父親は、言った。
彼女自身。そうでしょう。
二匹の蛾は、言った。
エエ、そうでしょう。
そうして彼らは、おひさまを、なかよく喰らい尽くした。
おひさまは、にこにこしながら、彼らに蝕まれていった。
おしまい。
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アルカリイオンの 水