異世界転生の武人【素早さ無限】を体験する
目覚めは「起きよ」という神からの啓示。
この世界には、そういう格言がある。
朝目が覚めるのは神様が「起きよ」と命じているからだ。つまり、神様はいつも人々を見守っている。だから人道を踏み外してはならない。道徳にもとる行為は控えなさい。悪事を働こうとする人は「誰かに見られていないか」を気にするものだが、人に見られていなくとも神様には見られているのだから、それを忘れてはならない。恥を知れ。正しく生きよ。
と、そういう意味の言葉である。
だが、俺は思った。毎朝世界中の人々に「起きよ」と命じて回る神様というのは、いったいどれだけ素早く動き回っているのだろうか。そんなに速く動けたら、最強じゃね?
というわけで俺は、目覚めの瞬間に「起きよ」と命じに来る神様を捕まえて、弟子入りする事にした。しかし、これがなかなか難しい。「起きよ」と命じられて目覚めた瞬間には、もう神様は次の人のところへ移動してしまっている。捕まえるには目覚めるほんの一瞬前、命じられるその瞬間を捉えなくてはならない。つまり眠っている間に行動を起こす必要があり、しかもそれが尋常ではない速度を必要とする。ハエすらなかなか捕まえられない人間が、神様を捕まえようというのだから、その苦労は並大抵ではない。
まずは鍛えまくって、神様を捕まえられるだけの速さを手に入れる。そして眠っていても捕まえようと動けるように、自分に徹底的に動きを叩き込む。
何十年、何百年と鍛え続け、挑み続け、失敗し続けた。
ところがある朝、ジャーキング――寝ている間にビクッと動く現象――が起きて、ちょうど「起きよ」と告げに来た神様をぶん殴ってしまった。
「ぐへあっ!?」
「んあ? ……ああっ!? か、神様! すんません! すんません! 弟子にしてください!」
「うむ。なかなか鍛えておるようじゃな。見事、見事。
して、弟子とな? 少し待っていなさい。先に人々を起こしてこなければ。」
それから1時間ぐらい待っていると、神様が戻ってきた。
「待たせたな。
さて、話を聞こう。弟子にしてくれとな?」
「はい。強くなりたいのです。
毎朝人々を起こして回る神様ほどの速さがあれば、最強なんじゃないかと。」
「うーん……お前、ただ速く動ければ一方的に攻撃できて最強だと、そんなふうに単純に考えておるんじゃないか?」
「……違うのですか?」
「うん。違うね。
とりあえず……そうじゃな、速さだけ、神の領域になってみようか。一時的な、まあ体験会というやつじゃ。今回は、体感で丸1日にしておこうか。」
そう言うと、神様はテーブルに置いてあった本を持ち上げ、空中で手を離した。
すると、その本が空中にそのまま浮いていた。
ちなみに、その本は昔の有名な武人が書き記した武術書である。宮本武蔵の「五輪の書」みたいなやつだ。暗記するほど何度も読んでいるので、だいぶボロボロになっている。
余談だが、なんでそんなに何度も同じ本を読むのか?
不思議なことに、武術の稽古というのは、工夫を繰り返していくうちに、1周回って元に戻る。より効率的に動くには、と考えをめぐらせ、少し改良する。それをまた少し改良し、また少し改良し……と繰り返していくと、あるとき最初に考えた改良と同じことを考えていることに気づく。
そして、1周回ったときの改良は、1周前の改良よりもレベルが高くなっていることに気づくのだ。より深く武術を理解したことに、そのときようやく気付けるのである。
つまり、強くなろうとすると螺旋状に工夫を凝らしていくことになるわけだ。だから次の改良を求めて、同じ本を読み返すことになる。
「ようこそ、神の領域へ。これが神の速さ、無限のスピードじゃ。」
「……これが……?」
別に速くなった気はしない。
周囲を見回す。
そして気づいた。
本が浮いているだけではない。ありとあらゆるものが、動きを止めている。
俺が速くなりすぎて、周囲の動きが止まって見えるのだ。
「これが神の速さ……!」
「そうじゃ。これが神の速さ、無限のスピードじゃ。」
「ありがとうございます!」
「よいよい。
これは一時的なものじゃ。お前がさらに鍛えてこの速さに到達したとき、どんな事が起きるのか……そして、この速さを使いこなすには、どんな事が必要なのか、しかと体験するがよい。
十分に理解できたなら、お前は絶望するかもしれん。じゃが、この速さは体感で24時間が過ぎたときに効果を失うから安心するがよい。
これが最初の指導じゃ。では、お前がまた次の指導を必要としたときには声をかけよう。」
「はい。精進します。ありがとうございます。」
それから体感で24時間、俺は無限のスピードを体験した。
そして、神様が言っていた通り、絶望した。
なぜなら、何もかも止まっているのだ。一方的に攻撃できるのはいいが、日常生活がまったく成り立たない。
まず、ほんの少し動いた瞬間に、目が見えなくなった。光よりも速く、無限のスピードで動いているからだ。光が目に入って、網膜を通り、視神経を経由して脳に到達――風景が認識される、そこまでにかかる時間よりも速く動いてしまっているので、何も見えなくなっている。
さっきまで見えていたのは、神様のパワーでそうなっていたからだろう。速さだけでは足りないもの。見るための能力を補ってもらっていたのだ。
俺はしばらくじっとしてみたが、待てども待てども見えるようにならない。無限とは「際限なくどこまでも増え続ける様子」を表す言葉――概念であり、数値ではない。10から10を引けば0だが、無限から無限を引いても無限。無限のスピードで動いたということは、止まっても無限のスピードで動いているということになる。だから、いくら待っても光の速度なんかでは遅すぎて追いつけない。無限のスピードで追いかけても追いつけないのだ。
ということは、1秒間に無限に動けるということ。それは0.1秒でも無限に動けるということであり、0.01秒でも0.001秒でも無限に動けるということだ。つまり今、周囲の時間が止まっているのと同じ。神様が「体感で24時間」と言っていたのは、「実際の24時間」だといつまで待っても終わらなくなってしまうからだと理解した。
これが理解できた瞬間、俺は絶望した。
残り24時間、目が見えない状態で過ごさなくてはならない。いや、無限のスピードを身に着けたら、これが一生続く。しかもその一生は、体感では無限に終わらない。
だが、暗闇で戦うことになったという想定は、武術ではよくあること。気配を察知する能力を高めるために、目隠しをしたり、背中を向けて対戦したりする稽古法もある。目が見えなくなる事だけなら問題はない。気配を探って――いや……いや、ダメだ。
気配がしない。すべてが止まっているんだから、気配なんかしない。気配というのは「動くぞ」という決意が体の外へ漏れ出たもの。すべてが止まっているこの世界では、何物も「動くぞ」と決意することができない。
そればかりか、音も聞こえず、匂いもせず、皮膚感覚もない。おそらく味もしないだろう。神経信号が脳に届くまでにかかる時間が、この無限のスピードの世界では、あまりにも長すぎる。
それに――
たとえば動物を狩ったとしよう。血抜きができない。待っても待っても血が抜け落ちてこないからだ。それなら血抜きは諦めて、そのままさばいて食べてしまおう。まずは火をおこし……って、おこせない。じゃあ、すでに燃えている火を探して、そこへ肉を突っ込んでみよう。……焼けない。熱が伝わるための時間がないからだ。この無限のスピードの世界では、生肉と生野菜しか食えない。
いや、ちょっと待て。もっと重要な事を忘れていた。
アインシュタインの特殊相対性理論――光の速度で動いた物体は、重さが無限になるんじゃなかったか? じゃあ、無限の速度で動いた物体は? ……え? これって、俺終了のお知らせ? 体感24時間が終わった瞬間、俺、潰れて死ぬんじゃね?
いや、もうすでに死んでる? 五感がまったく機能しないから、今自分がどんな姿勢で何をしているのか、どこにいるのか、どっちを向いているのか、全く分からない。肉体を失って意識だけが残っているかのような感覚だ。もう死んでいたとしても、何も不思議はない。
「さて24時間じゃ。
どうかな? 無限のスピードは。」
「……生きてる……!」
五感が戻って、最初の感想は、それしかなかった。