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播磨針 彦兵衛

作者: 砂野ちや

『本町筋の洟水垂れ』

坂本龍馬が、まだそう呼ばれ、まさかこの少年が土佐の生んだ幕末の英雄になるとは誰も思わなかった頃、ひとりの男が、その土佐で行き倒れていた。

白装束に菅笠、墓標の代わりとなる金剛杖、四国八十八ケ所のお遍路姿のその男は、播磨の国(今の兵庫県南部)三草藩下久米村の庄屋、小寺彦兵衛という。


「ここは?」

目を覚ました彦兵衛は、粗末な筵の上に寝かされ、額には、誰かが介抱してくれたのであろう、絞られた手縫いが乗せられていた。


彦兵衛は、村を出てここに至るまでを思い出す。

「庄屋のおめぇが、そこで引いたら俺たちに死ねと言うことじゃねぇか」

「そうだそうだ、結局、お前もお上の犬ってことだな」

下久米村の幼馴染達に彦兵衛は弾劾されていた。


十年も続く不作で、村は貧窮し、庄屋である彦兵衛は村民の願いを受けて代官に年貢の軽減を願い出たが、親から受け継いだばかりの彦兵衛の言葉に代官が耳を貸すはずもなく、反対に村人達を説得する事になってしまった。

聴く耳を持てるほど村人に余裕があれば、何も彦兵衛が訴え出る必要もなく、それほどに困窮していた村は、一揆を起こすという結論に至る。

一揆となれば、誰もお咎めなしという訳にもいかない。


「老い先の短いワシが、お咎めは受けるでの、彦兵衛、この村の事はお前に頼んだぞ」

「親父様!」

「なぁに、一揆となれば、お代官様もお咎め無しという訳にもいくまいて」

そう言って父は、笑った。


結局、彦兵衛の父親が一揆の責任をとって死罪、彦兵衛も牢獄に入れられた。

刑期が終わり、放免された彦兵衛は、父親の供養のためとの名目で、こうして四国八十八ケ所の遍路旅に出たのだった。

もう何もかもが嫌になった、このまま世捨て人になってしまおうか。せめて、村に米に変わる産業があれば、こんな事にはならなかっただろうに…

そんな気持ちをずっと抱えながら、遍路旅をしているうちに、心労が重なって倒れてしまったのであろう。


結局、彦兵衛は一カ月もの間生死の境を彷徨った。

寝ている間、世話になっている家でずっと見ていたものがあった、この家の主人は釣り針を作っていた。

針金のようにされた鉄の先を尖らせカエシをつけ、型に合わせて曲げ、後部を平たく潰す作業を繰り返している。


「世話になっておきながら、寝てばかりで、ほんま申し訳ない事です」

「気にしな、遍路を世話するがは、功徳じゃき」

「そんな、細かい作業は大変でしょう?」

「しょうえいお金になるがで、えい仕事ながやか」

そうなのか?こんな農民でも、農作業以外で良いお金になるのか?

ならば、この製法を学んで帰れば、もうあんな思いをせずに済むかも知れない。


彦兵衛は、コレだ!と仏に感謝した。

身体が回復した彦兵衛は、早速その技法を学ぼうと、釣り針の親元だと聞いた鍛冶屋の門を叩いた。

しかし、他所者は全く相手にしてもらえない。

こうなれば、腰を据えて掛からなければ仕方あるまい。


里の妻に事情を書いた手紙を送り、資金を送ってもらって、土佐に住み着いた。土佐弁を覚え、三年をかけて土佐の人間になりすます。

もはや、スパイ大作戦か、ミッションインポッシブルの世界であるが、それほど、当時土佐針の製法は藩外に秘匿された技術であった。

やっと、丹吉針の三代目広瀬丹吉の下男として住み着く事が許された。

彦兵衛は、辛抱強く真面目に働き、更にその三年後やっと弟子入りを許される。下久米村を出てから、7年近くが過ぎていた。


「べこのかぁ〜!」

今日も親方や兄弟子から、罵声が飛び叩かれる。

「すみやーせん」

来る日も来る日も、釣り針用の鋼を打つ、彦兵衛の手は、繰り返し潰れた豆が瘡蓋のようになって、ゴツい手に変わっていた。長年の農作業で作られた手であるが、鍛冶ではまた違う部分が鍛えられる。


弟子になって五年、針金を作り、先端を尖らせ、型に合わせて曲げる、しかしこの先の焼き入れだけは、盗み見ることすら出来なかった。

刀鍛冶の弟子が、焼き入れの時の水の温度を知ろうと、水に手を入れただけでその腕を切り落とされる。それほど厳しい世界だった。


「おんしは、土佐の人間じゃーないがろう。どういう事情があるのかは分からんが、今日まで、よおじって働いたな。

このまま、土佐に住むつもりはないがかや?」

ある夜、呼ばれた彦兵衛は、親方の丹吉にそう聞かれた。一気に冷や汗が出る。隠していたつもりが、親方は百も承知だったのだ。


「ガハハハ!他所もんだと聞いて、今更、どうこうしようという気は無いがや。

おんしが、国に戻るつもりながなら、ここから先は教える事は出来んがで、いてもいかんちゃ」


おまえが、国に帰るつもりなら、ここにいても、この先の秘匿技術は教えることが出来ないから、もう国に帰った方が良い。

と親方は言うのだ。

この親方丹吉は、この後、坂本龍馬のパトロンなったような豪気な人であったが、下働きと合わせて八年仕えた彦兵衛を彼なりに思いやった、優しさだったのかもしれない。

彦兵衛は土佐を離れ播磨に戻る決意をした。


こうして、彦兵衛は十一年ぶりに故郷の下久米村に戻った。

「久しぶりじゃのう、長ごぉ留守を任せてすまんかった」

人に頼んで、多くの田畑を管理し、家計を切りもりしてきた妻に労いの言葉をかける。子供たちも、大きくなっていた。

村は一揆の後、税に対して軽減されたようで、この十年は問題も起こらず無事だったようだ。

「親父様、見守っていてくだされ、ワシはこの村で釣り針を作って皆が食うのに困らないようにしてみせる」

父の墓前に手を合わせて、彦兵衛は一揆の前の父親との約束を思い出していた。


鍛冶場の準備も整い、彦兵衛は隣街の三木まで鉄の買い出しに出かける。

三木は三百年ほど前、織田軍に一度滅ぼされた。戦災地の復興の為に沢山の大工が集まり、大工の道具を作るために鍛冶場がたくさん出来た。この大工たちが全国に三木の金物を広め、五十年ほど前から江戸との取引も始まり金物の街として栄えていた。彦兵衛の村から三木までは、徒歩で日帰り出来る距離だ。

彦兵衛は、この三木で屑鉄を仕入れて釣り針の材料にしようと考えた。


思惑通り、タダ同然で材料を仕入れて、村へ持ち帰り、土佐で学んだ通り先ずは金槌で打って針金状に成型する。

次に、鋏で長さを揃え、先を尖らせる。次にイケと呼ぶ先端のモドリ部分をヤスリを使って起こす。

型にハメて手で釣り針の形に曲げ、チモトと呼ぶ釣り糸に結ぶ部分を潰して作る。

ここまでは、土佐で習い実際に何度もやった。


問題は、この後だ。

熱処理工程で、焼き入れと焼き戻しがある事は、知っている。

最後は、研いで完成だ。

熱処理をどの温度でどの程度行えば良いのかが、丹吉が最後まで秘匿した技術であった。

「仕方がない、こればっかりは、繰り返し試してみるしかないのだろう」


余談であるが、土佐針は鋼を材料に作られているそうで、彦兵衛が入手した屑鉄は、一般的な金物に使用される包丁鉄であり、鋼に比べて炭素含有量が少ない。

鋼の炭素含有量は、焼き入れにおいて極めて重要で、彦兵衛の鉄では基本的には焼きが入らない。

また、炭素の量が多すぎると今度は脆くなり折れてしまう。

こういった現代技術を知らずに、模索する彦兵衛が随分と苦労したであろう事は想像出来る。


彦兵衛の釣り針は、柔らか過ぎて何度やり直しても、強く引くと延びてしまう。温度を変えたり、急冷水を油にしてみたり。

それに加え焼き戻しの不充分なものは折れた。

日本刀のように刃先になる部分に鋼をあわせるなどという事は、小さな釣り針では無理である。

一年が経ち、二年が経ち。

やはり丹吉が秘匿しただけの事はある技術だったのだ。


試行錯誤の過程で、焼き入れ後の焼き戻しだけは、なんとかなるようになった。

焼き戻しとは、焼いてゆっくりと冷却することで、鉄の内部組織を均質化して、曲げや焼き入れで発生した残留応力を取り除き、成型された釣り針に形状を記憶させる熱処理だ。

ドライヤーで髪をセットするとき、冷える時にブラシで押さえて、形を整えるのに似ている。

これにより釣り針は、飛躍的に強くなる。

しかし、焼き入れだけは思うようにいかない。


途方にくれたある日、近くの村の野鍛冶にヒントをもらった。

鍬の先に炭を塗って焼くと、同じ鉄で先端にだけ、焼きが入ることがあるそうだ。

粉炭を塗った釣り針を、炭を詰めたルツボの中で焼き、急冷する。

思っていたような焼きが入った!

浸炭焼き入れという技法の発見だった。

彦兵衛は嬉しさのあまりに、踊り狂ったという。


「親父様!親方!やっと釣り針になりました!」

彦兵衛の釣り針は、芯が軟鉄で、表面のみに焼き入れの入った硬い鋼。

折れ難く、曲がり難い適度のスプリング力があり、しかも表面硬化により貫通力に優れる理想的な釣り針となった。


一般的に職人には、技術を伝えたいが教えたくないという絶対矛盾的自己同一なややっこしい性格の人が多い。

彦兵衛は、当初からの目的が、村の飢饉対策であり、皆が幸せになれるようにという思いで、釣り針作りを始めたために、こういう職人気質なところも商売人的な勘定もなかった。

彦兵衛針は、知名度のあった京針や大坂針として、売られるようになり、その後播磨針と呼ばれるようになる。


門下生も多く集まり、その門下生どころか同業者にまで、この製法を隠匿せず教えたのである。

結果、下久米村付近に沢山の釣り針製造者が集まり、量産されたことから、播磨針彦兵衛の名前は全国に知れ渡り、土佐針丹吉と並ぶまでになった。


その後も彦兵衛の探求心は衰えることなく、時は幕末を経て、明治に移り変わり、明治十六年には、時の農商大臣に賞を授与されている。

播磨針は、フィリピン、イギリス、ノルウエーまでも輸出され、現在、尚もこの地方には、一流釣り針メーカーが、軒を連ね全国の釣り針の90%を生産している。


一部の特殊な釣法を除き、釣り針無しでは釣りは成立しない。

たかが釣り針、しかし、激動の時代に彦兵衛が生涯をかけて伝えた播磨針は、今日も何処かで釣り人達の期待に応えているのだろう。

いろいろな説があるため、フィクションで創作した部分もあります。


釣り針をテーマにした三作

これで終了です。

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