行方不明
母親は行方不明を私の母校(高校)が主催した模試で書けなかったそうです。
20時50分。
今日は少し早く出られた。アンドリューは足早に愛車に乗り込む。ぬいぐるみを助手席に数匹座らせているのは、そこに乗せるべき人間がいないからであろう。彼のパートナーと呼べる存在はもちろん、まともに仕事以外の関係を持つ人間がいないのだ。
別にそれでいい。俺にとって恋人や友人なんて、ただの夢物語でしかない。一生童貞?のぞむところだ、……と言いたいところだが、大学時代ひとりだけ彼女がいたな。浮気旅行で新潟に行ったきりだ。はは、ざまあみろ。
セダンにエンジンを入れる。アクセルを踏み、ハンドルを右に。煌びやかな街とは不似合いなダーク・ロックをかける。気に入ったBGMだ。知らぬ人から見れば車内は異質な空間かもしれないが、男にとっては教会に負けず劣らずの心地良ささえ感じられるのだから仕方がない。
銭湯の前に差し掛かると、丁度ひとりの髪を濡らした高校生ほどの娘が出てくるのを見た。フェイスタオルを首にかけているが、ドライヤーなどは無いのだろうか。彼は銭湯を利用したことがないからさっぱり分からないが。
しかし妙だ。ただ風呂に入る割には大きなリュック。家出少女か?声をかけるべきかもしれないが、もしそうでなかったら?通り過ぎてもなお、彼には気がかりに思えるようであった。妙なのは人間に興味を持たない貴方がそれを考えることだ、などと言う人もいるかもしれない。
わだかまりが取れぬまま自宅へ辿り着いた。セダンから犬のぬいぐるみを拾いあげ、誰もいない駐車場からマンションの一室へ。入るなり食事もとろうとせず、すぐソファに横になった。
ぽつりと呟いてみる。「まったく、本当に奇妙だ」紛れもなく、自身に向けた言葉である。
うつらうつらとし始め、ふいに思い立つ。夕食はまだなのに、風呂も入っていないのに、こんなソファで寝ようとしてしまったなんて。几帳面なアンドリューには己にもどかしさを感じた。やはり疲れているのだ。一度落ち着こうとコーラをついだ。やはりいくぶん気が張っていたのか、ひとくち飲もうとした途端むせてしまった。カーペットが台無しだ。真冬、これなしでひんやりとした床で食事だなんて考えたくもない。いくらアイスランド生まれだとはいえ、この温暖な気候で20年以上過ごしてきたらそちらに慣れてしまう。
やむを得ないが、コインランドリーにでもぶち込むしかない。ひとり暮らしのうちにそんな大きな洗濯機などない。陰鬱そうに男はぬいぐるみを抱え立ち上がった。
セダンにカーペットを積み、近くのコインランドリーに走らせた。担ぎながら自動ドアをくぐると、あの少女がいた。思わずまじまじと見つめてしまったが、気づいた彼女はにっこりと笑った。男は思わず目を逸らす。
「…………さっきも偶然見かけただけだ。別に、その…………偶然だなと」
「なんだ、てっきり私が美少女すぎて惚れたのかと思った。おじさん女難に見えるし」
ジョークなのかさっぱり分からないほど、実際のところ彼女は可愛らしかった。そんなことを息をするように放てるのも、やはり愛らしさを感じる。付け加えられたひとことも含めて、アンドリューは否定しなかった。
「余計なお世話だ」ふっ、と笑う。「君だって、まさか家出でもしてきたんじゃないのか?お嬢さん」
少女は目を見開いた。ビンゴらしい。
「慣れているのか?コインランドリーに銭湯。だが住む場所はないだろう」
「うん、ないよ。っていうか捨てたっていうか?一応家出って括りになるだろうし」
両親は心配していないのか?と思わず口走りかけたが、無粋なことだ。何かを言おうとしたが、とち狂った結果これまた無粋な言葉を発してしまった。
「うちに来るか?」
発語してから気付く。俺は何をしているのか。一歩間違えたら、いや間違えなくても誘拐で立罪しうる。いやする。確かに費やす趣味がプログラムを組むことである時点で仕事で生きがいが収束してしまう。つまりそれは衣食住以外に金を使わないということ、食べ盛りひとり増えたところで家計には響かない。確かにそうだ。それでも、ある意味冤罪を自ら被るなんて。父と同じ目に遭うかもしれないのに。李下になんとやらと言うだろうに。厄介事を持ち込むなんて。馬鹿なのか?
そんな思考がぐるぐる巡る間、少女は少女で考え込んでいた。が、
「……よろしく頼んでいい?」
正気?どこの馬の骨ともわかんないガキを連れ帰ろうとするなんて、ちょっと信じられない。悪い意味じゃないけど。だって見たことない。学校の先生もいい人ばっかだけど、こんなこと、言える人はいるのだろうか。流石に教師だし怪しいことはしたくないか。……まさか危ないことするために?でもそういうことには疎そうだしなぁ……信じたいなぁ……それにしてもお荷物を引き受けようとするなんて、この人馬鹿なの?
だけど、賭けに乗ってみようかな。
終わるまで1時間ほどかかる。彼女の方は?
「あと50分くらいだよ」
「10分くらいなら誤魔化せるな。一度帰ろう」
「さっそく?うん、お邪魔します!」
少女は目をキラキラとさせる。こんな野暮ったい男のひとり暮らしに興味があるのだろうか。
助手席に乗るよう促すが、彼女は「後ろでいいよ」と聞かない。わかった、と男は折れた。
エンジンを入れると、彼女の方から話しかけてきた。
「このぬいぐるみさんたちはおじさんの恋人の代わりかなにかなんでしょ?」
余計なお世話だ。まったく、この小娘はなかなかアンドリューに刺さるような物言いをする。男は頷いて、アクセルをゆっくり踏んだ。
「ぬいぐるみは裏切らないさ。人間とは、違う」
背中が笑っていた。嫌な笑いだ。何か辛い過去でもあったのだろうか。もちろん少女に知るよしはない。
「なんかごめん」
「構わないさ、俺だって初対面の相手に洩らすことじゃない」
「それは肯定するよ。暗いこと言うんだね、やっぱり幸薄そうだよおじさん」
「だから余計なお世話だよ」
少女は根が明るい人間らしい。俺とは大違いだ、と自らを嘲ってみる。
「それから、おじさんと呼ばれると急に老けた気分になる」
ぶっきらぼうに言い放った。
「もう少し楽しそうだったらお兄さんって呼んでたね」やはりぶれない様子だ。
「そうじゃなくて」男は遮るように言った。「いや、そうかもしれないが、俺にはアンドリューという名前があるんだよ」
「もっと早く言ってよね、おじさ……じゃなかったアンドリューさん」
そこまで言ってはっとした。
「あ、私はサク。本当は西園寺律花って言うんだけど、この名前気に入らないからよろしくね」
親から貰った名前だろう?と口走りかけてしまう。危ない。こんなに陽気に生きているから、家出少女であることをつい忘れてしまう。
「サク、か……漢字は?」
「漢字っていうか数字なのかな、39(サーティー・ナイン)だよ」
意味はあるのだろう、わざわざ英語で言ったことにも。アンドリューにも(英語の方で)心当たりのある数字だった。
「昔そんな歌があったな」
「知ってるの?」
「そりゃあ君より長く生きているから。サクが知っていることの方が驚きだ」
「いい歌だから」
理由になっていないとは思ったが、別に構わなかった。
「私、天文学者になりたいと思ってるんだけど、そのきっかけになったひとつなんだ」
嬉々として語る。夢を追うのは幸せなことだ。叶わなかったとしても、過程こそ楽しいのだ。勿論そんなことは口に出さないが。
マンションの駐車場に停めるのは本日2度目だ。特段苦手なわけではないが、稀なことだから少し感慨が湧くだけだ。
「何階?」「6階だ」「ちょっとお高かったりする?」「少しはな」
ぬいぐるみに手を伸ばすと、サクは先程とおなじようににっこりと笑った。
「やっぱり恋人代わりだ」
はは、なんだか笑えないね。