個別評:唯道もろこし「ポトフに落ちた犬〜Another eats/ dog or girl?」
紹介作品は以下のとおりです。
唯道もろこし「ポトフに落ちた犬〜Another eats/ dog or girl?」
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『家畜ですら牧場を去るべき時機を知っているが、愚かな人は自分の貧欲の限度を知らない。』
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805 - 1875) 「断片」
考えてみれば、食人が下火になってきたのは、つい最近の事なのかもしれない。
近く現在の中国では、清朝の時代まで食人の習慣があったようである。西太后が東太后の為に肘肉を提供したという逸話もあり、また台湾原住民の肉も必要に供して利用されたという。食人習慣は魯迅の批判の的となり、現在では勿論禁止されている。
ヨーロッパに目を向ければ、十字軍遠征の時代に、マアッラ攻囲戦の後、飢えをしのぐために食人が行われた記録が、幾つか残されている。宗教的な逸話としては、聖トマス・アクィナスの遺体が、聖遺物の散逸を恐れた修道士たちによって「処分」された記録が残っている。また、少し視野を広げれば、「薬用のミイラ」も存在していた。
戦時中などは悲惨極まりない。旧ドイツのユダヤ人収容所では、極限状態の中で、体の「一部」を切り取られた遺体があったという記録もある。
日本に目線を向ければ、江戸時代、天明の大飢饉に見舞われた際の絵画が、多くの人々の記憶にも残っている事だろう。
記録を漁ってみても、つい最近まで、食人の記録が存在する。それが「習慣」かそうでないかは別としても、特殊な事例として残されているだけだと考えるのは、余りにも早計である。
然らば、食人の習慣が下火になってきた現代においても、自分達が食卓に並ばないという保証はどこにもないと言えるのではないだろうか。
唯道もろこし氏著「ポトフに落ちた犬〜Another eats/ dog or girl?」は、その異常性と共に語られる、「食事」の可能性について、新たな視野を与えてくれるだろう。
人間達にとって、食習慣が与える影響は先述の通りであるが、倫理観とは元より世界・時代あらゆる隔たりの中で共通ではなく、それが異なる家に住む人同士が暮らすような関係で顕著に現れてくると、私達は強い嫌悪感と拒絶感を抱く事がある。友人を「彼」に書き換え、私を「彼女」に書き換える事によって、共同体形成の前段階を創出した事によって、読者はごく自然に「信頼関係」を仮定する事になった。
しかし実際には、そうした関係の不確かさは、先述の嫌悪感や拒絶感にも認められる通りの不確実な信用に過ぎず、その確実性を保証するものは何処にもない。あるのは、私達が抱く「信頼関係」という空虚な妄想だけである。
作中で度々紹介される「彼」の優しさと残忍性、「彼女」の残忍性と愛情の両面さえ、私達が想起する理想の信頼関係の上に成り立っているという事実は、益々私達の縋り付いてきた保証が心許ないという事実を浮き彫りにさせてくれるだろう。
では、私達は信頼関係や自身の生存を信用するべきではないのだろうか?それを知る術はないが、一つ言えることは、人間の妄言は世界をここまで縮小させたという事実がある、と言う事である。