あやかし花火
日が暮れて宵をむかえた川のほとり。
梅雨の中休みを利用して散歩を楽しむ者たちもすでに途絶えた、護岸の一環として川岸に作られた芝生の広場と遊歩道。
その遊歩道の反対側。堤防に設置された階段の一番下の段にうずくまって小学校低学年くらいの少年が声を殺して泣いていた。
するとどこからか弾んだ声が響き渡った。
「どっかーん。ひゅーどーん」
「ひゅーどーんぱらぱらぱらー」
突然聞こえてきた声。その声の主に泣いていたことがばれないようにと少年は慌ててごしごしと手の甲で涙をぬぐう。
そうしているあいだも楽しそうな声は絶えず聞こえてくる。
「どっひゅーん」
「ひゅー、ひゅー、ひゅー」
「どーん」
きょろきょろとあたりを見まわしていた少年はやがて座り込んだ体勢のまま首をめぐらす。そして数度瞬いた。
「うしろ……?」
どうやら声は川岸の広場から発せられているようだ。そのことに気づいた少年は四つん這いになってそっと階段を上っていった。
堤防の上までたどり着くと、いったん目をつぶって唾を飲み込む。そうやって覚悟を決めてから再び目を開けた少年は音を立てないように注意しながらそっと広場を覗きこんだ。
目を瞠って息を呑む。
そこには見たこともない茶色くて丸いものがいくつも跳ねていた。
「どーん」と言っては跳ね。
「ひゅー」と言っては跳ねる。
そうして頂点で「どーん」で小さな手足をいっぱいに広げ、落下しながら「ぱらぱらぱらー」と体を点滅させる。
それはどこか打ち上げ花火をほうふつさせた。
あまりにも楽しそうに跳ねているものだから、それらがあやかしの類であることも気にならず恐怖もわかなかった。もとより少年にはそんなことは知りえなかったためなんの意味もなかったが。
少年がそっと近づくと、あやかしたちもようやく少年の存在に気づいたようで楽しそうに手を振ってきた。
「おい、どうした人間」
「こんな時間にうろうろしているとさらわれるぞー」
わらわらと少年の足元に群がる小さなあやかしたちに口々に諭すような口調で話され、少年は口を尖らせた。
「人間っていうな。僕には大地っていう名前がちゃんとあるんだ」
けれどあやかしたちは気にしたようすも話を聞く気もなかった。
「そうかい人間」
「そりゃよかったな人間」
なにが楽しいのか、あやかしたちはきゃらきゃらと笑う。
大地はブスリとした顔つきでその場にしゃがみ込んだ。
「おまえたちはなんでそんなに笑っているんだよ?」
しゃがみこんだことによってあやかしとの距離が近くなり、大地が手を伸ばせば触れることができるほど。
「なあ、なんで?」
こくりと首をかしげて大地が問えば、あやかしたちはまた嬉しそうに跳ね始めた。
「そりゃ楽しいからさー」
「おもしろいぞー」
「人間も跳ねてみろよー」
口々に跳ねろ跳ねろと誘われる。質問に答えてもくれずに勝手なことばかり言うあやかしたちの行動に、大地はますますへそを曲げた。
「そんなことしてなんになるんだよ。おまえたちは花火みたいだけど花火じゃないし。僕は本物の花火が見たかったのにッ」
止まったはずの涙が再び大地の瞳を濡らし始める。
「なんだ人間、花火が見たかったのか?」
「そうだよ!」
「だったら見に来ればいいじゃないか」
「どこへだよ。来週の花火大会は中止になったってお父さんが言ったんだ。連れて行ってくれるって約束したのに! お父さんのうそつき!」
抱えた膝に顔を埋めるようにしながら大地は泣きながら反論した。
あやかしたちがいっせいにニターっと笑って飛び跳ねる。
「どーん」
「ひゅー」
「どっかーん」
「ぱらぱらー」
大地を取り囲んだあやかしたちはそう言って何度も跳ねる。
「おまえたちうるさい! なんでそんなに跳ねてるんだよっ」
「だって練習しないとー」
ようやく答えらしき言葉が返ってきて、思わず大地は顔をあげた。
「練習?」
「そう練習」
「なんの?」
「決まってるだろう。俺たちは打ち上げ花火だよ。夜空で最高にきれいに咲く練習だよー」
「……打ち上げ花火?」
「そう!」
あやかしたちがいっせいに声を揃える。
「本物?」
「本物!」
さながら合唱のようにみごとにはもって響く返答。
「なんで? 花火大会は中止になったんだろう?」
「なってなーい」
「遅くなっただけー」
「準備する余裕がなかったんだってよー」
「だから俺たち生まれたばっかりー」
「だから練習してるのー」
そういってあやかしたちは跳ね続ける。
やがて大地の目の前にいたあやかしがその小さな手で地面をぺちぺちと叩いた。
「おまえの名前はこれだろう?」
「これって? なにを言ってるのかわからないけど僕の名前なら大地だよ」
あやかしはにぱっと笑ってうなずいた。
「だろう? だったらめそめそ泣くな。こいつみたいに……」
そう言ってあやかしはまたしても地面を叩く。
「がっしり構えていろんなもんを支えないといけないんだろう?」
「え……っ」
目を丸くする大地にあやかしたちが言う。
「遅くなるけどー」
「花火大会はちゃんとあるからー」
「絶対見に来いよー」
「俺たちきれいに咲くからよー」
そして再び目の前のあやかしが大地を真正面から見返した。
「早く帰れ。人間はもう家の中にいる時間だろう? 夜は俺たちの時間だぜ。ちったあ譲れよな」
きゃらきゃら笑って手を振るあやかしたちに見送られて大地はようやく家へと帰っていった。
帰宅するなり両親に大目玉をくらった大地だったが、二月ほど遅れて開催された花火大会には約束通り連れて行ってもらえた。
夜空に咲くみごとな火の花。
花火は跳ねたり喋ったりしないと両親に教わった大地は、あの時見たものたちがなんなのか考えていた。
彼らの言うとおりにこうして花火大会は開かれた。けれども花火は勝手に動くことすらないという。
(あいつらはいったい……)
そんな風に考えていると、あるものが大地の視界に飛び込んできて目を丸くした。周りからもどよめきが沸き起こっている。
夜空には花火が描く『大地』の文字。
そして次に打ちあがったのは『ガンバレ』。
(ああやっと……)
大地は嬉しさのあまり涙が浮かんできた。
「やっと名前を呼んでくれた」
やっぱり花火はいたんだ。
あとはただひたすらに華やかないつもの花火だったが、大地は満足そうな笑顔で見続けた。
それからいくつもの時が流れたが大地は二度と花火のあやかしに出会うことはなかった。それでも梅雨の中休みの宵には、時間を見つけてあの場所へと足を運ぶ。
そしてこの日は幼い息子を肩車して訪れた。
(こうやって息子を支えられるくらいにはなったぞ)
毎年ひとりで訪れては成長の報告をしていた大地は、今年初めてほかのものを連れてきた。
さすがに妻を連れてきてここで抱き上げ、こんなこともできるようになったぞとは恥ずかしすぎて無理だった。妻にも説明などできはしない。けれどこんな幼い息子であれば肩車をしていたとしてもいいお父さんで済んでしまう。
(今年の花火大会も楽しみにしているぞ)
ひとりごつて大地はその場を後にする。
なにも見えなくても構わなかった。
ただ大地が報告したいと思ったからしただけ。
あやかしたちにはそれを聞く義務などないのだ。
くすりと笑みを漏らした大地の肩の上で、息子が突然「どーん」と言ってはしゃぎだした。
「え?」
見上げると、息子は広場を見つめながら楽しそうに手足をバタバタさせている。
「どん、ひー」
さらに続けられた懐かしい言い回しに、慌てて大地が広場に目をやったが、どうやら息子にしか見えないようだ。
けれど。
「いるのか……、そこに?」
年甲斐もなくあふれてきそうになる涙をこらえるために大地は目を閉じた。
「どーん」
息子の声に重なって、あの日の記憶がよみがえる。
はしゃぎ疲れた息子が眠りにつくまで、大地はずっとそこに立っていた。
見えなくてもそこにいる。
あの日はこうして今へとつながっている。
花火を見るたびに思い出す。
あの日の夜空に咲いた奇跡の文字を。
『大地』
『ガンバレ』
――ああ、頑張っているよ。