チーズケーキはとろけてなくなる
色々と一悶着があったけど、無事に本日五人目となる転生希望者の女性を待機部屋に送り出し、一息つく僕とグリム。
ちなみに女性はストレスのない生活を送りたいそうで、猫への転生を希望した。いい選択だと思う。
僕は猫が好きだ。
人間として生きているとわずらわしいことが山のようにあるけど、猫は自由である。好きな時に食って、好きな時に寝る毎日。僕も猫の手が本をめくれるぐらい繊細にできていれば、猫に転生していたかもしれない。
グリムは二冊目のファンタジー小説を読み始め、僕は放置したままになっていたチーズケーキにフォークを入れていた。でも、スーパーで売っているチーズケーキと違って、フォークに絡みついて上手く切れない。この小さな二等辺三角形に旨味が凝縮されているのが分かる。
切り分けたケーキの先端は口に入れた瞬間、舌の熱で溶けてしまった。口に残ったのは、濃厚でありながらもしつこさを感じさせない爽やかなチーズの旨味。何度食べても感嘆するしかない、絶妙な後味のバランスだ。
生前はこのチーズケーキを買うために、一時間前から店の前に並んでいないといけなかったけど、今は好きな時に好きなだけ食べることができる。死んでからも、こんなおいしいものを自由に食べられるなんて、僕は恵まれている。
僕をこの場所で働かしてくれているグリムにひっそりと感謝しつつ、もう一切れ、口に運ぼうとしたときだ。
「失礼するよ」
渋い声と一緒に、ドアをノックする音が聞こえてきた。
部屋の中央には、樫の木で作られた豪勢な扉が現れている。
「どうぞ、お入りください」
本にしおりを挟んで閉じると、グリムが心なしかいつもより硬い声で応じた。
部屋を訪れたのは、タキシード姿のご老人。
初めて見る方だけど、なんとなく雰囲気で分かる。このご老人は人間ではなく、グリムと同じ存在で、しかもグリムより上の地位にいるものだと。
右手には杖が握られている。ただ、その杖は飾りみたいなものだろう。
細い体をしているのに、体の軸はまったくぶれていない。どっしり、と構えている大木のような印象を受けた。
「お久しぶり、グリムちゃん」
「お久しぶりです、支部長。何度も言っていますが、ちゃん付けはやめてください。背中がむず痒くなりますので」
「もう二百年くらい年を取ったら、ちゃん付けを外してあげよう」
「そんなの無理じゃないですか。二百年も経ったら、さすがの支部長も天に召されていますよ」
「なあに、二百年なんて君の年以下の年月じゃないか。あくびでもしているうちに、過ぎてしまうわ」
「…………」
「…………」
一触即発といった険悪な雰囲気を醸し出して、にらみ合う二人。
チーズケーキを堪能している場合ではなくなった。
「……老害」
「……糞餓鬼」
小さな声でお互い罵倒の言葉を口にしたところで、二人は険しかった表情を緩めた。
仲がいいのか、悪いのか。
二人の関係性が読めない。
「相変わらずなようだな、グリム。前からうちのほうに顔を出すことはめったになかったが、ここ一週間ぐらいはあんな簡潔すぎる報告書だけ送りつけてくる始末だ」
支部長の言う簡潔すぎる報告書とは多分、僕のせいだろう。まあ、新人だし、多少は仕方ないよな。
「そうは言われましても、私も暇ではないのです。新人の教育をしなくてはいけないので」
「そういえばそうだったな」
支部長は僕の方を一瞥する。
「転生も天国に行くことも拒否して、うちで働いているなんてどんな変わり者の人間かと思っていたのだが、見た目は普通の可愛らしい少年だな。生前はさぞや、おば様方から可愛がられていただろう。面倒臭いことが嫌いなグリムが、転生推進局の歴史を塗り替えてまで、人間の子どもを手元に置いておこうとするなんてありえない、と思っていたが、この容姿なら納得がいく」
「つまり、支部長が言いたいことは、私がおばさんだから仁見を私の記録係として働かしている。こういうことですか」
「そこまでは言っていないぞ」
「そこまではということは、私の推測は大体合っているということですね?」
にっこり、と。
背筋が凍る笑顔を初めて見た。
年のことでグリムをからかうことは本当にやめておこう。今度は冗談抜きで首を飛ばされるかもしれない。
「……今日は君とくだらない話をしている場合ではない。わざわざ時間を作って、彼がどういう人間なのか見に来たのだ。いつまで経っても上司にあいさつに来ない君たちの代わりに」
「はい?」
思わず素っとん狂な声を上げてしまう。
今まで二人だけで会話していたから、邪魔しないよう空気に徹していたら、聞き捨てならないことが耳に入った。さすがに口を挟まずにはいられない。
「おい、グリムさん。上司に報告がいるなんて、聞いていないんだけど」
「当然です。言っていませんでしたから」
「それで問題ないのか?」
「問題ないわけないだろうが」
局長は腕を組んで、眉間にしわを寄せている。
「グリムよ。どうしてこの人間を記録係として雇ったとき、本部にあいさつをさせに来なかった?」
「わざわざ聞かなくても分かっているでしょうに」
「……人間をうちに連れて行ったら、間違いなく騒ぎになる。どうせ君はそれが面倒臭かったのだろ?」
「ええ、大正解です」
「やはりな。そうでなければいい、と思っていたが、同時にそうだろうな、とは思ってもいた。今さら君のそういう性格を責めたところで改善されるとは微塵も思わんから、何も言わないでおく。が、許したわけではないと言うことを忘れぬように」
「分かりました」
返事だけはしっかりしている。
残念ながら反省しているとは全く思えないけど。
「さてと」
支部長はパイプ椅子を杖で小突き、座り心地のよさそうな西洋風の椅子に変えると、その椅子にゆったりとした動きで腰かけた。
「初めまして、仁見由くん。私は転生局日本支部の支部長をしている者だ。気軽に支部長と呼んでくれていい」
椅子から立ち上がり、僕は頭を下げた。
「初めまして。あいさつが遅れてしまい、申し訳ありません」
「君は気にしなくていい。悪いのは、君のとなりにいる無責任な上司なのだから」
「それはそうなのですが、上司にあいさつをするという当たり前のことに気が付かなかった僕にも落ち度はあります。お詫びと言うわけではないのですが、」
僕は軽く手を叩いて、紅茶と先ほど僕が食べていたのと同じチーズケーキを二人分用意する。
邪魔だったので大量の本を消したら、まだ読んでいないのに、とグリムが切なげに呟いていた。
いつでも読める本なんか気にしている場合か。
「どうぞ召し上がってください」
「これはこれは、気が利くじゃないか。グリムなんてまともに私をもてなしたことは一度もないぞ。寝転がりながら、私の話を聞いていたときもあったしな」
「それはひどいですね」
「だろう?」
同意が得られたのが嬉しいのか、支部長は満足そうに頷く。
それにしても。
前からテキトーなやつだと薄々感じていたけど、支部長が現れてから、今まで辛うじて保てていた化けの皮がどんどんとはがされていく。記録の仕方についてダメ出しをしてきたのも、自分の仕事が増えるのが嫌だったのだと、今なら分かる。
人間ではないのに、僕よりもよっぽど人間臭い存在だな、と思った。
ただ僕としては隙のない性格をしているやつよりも、いい加減な性格なやつの方が好感を持てる。
「私の話なんかしていていいのですか? 支部長はとてもとてもお忙しいんじゃないですか?」
「君に言われたくはないが、そうだな、本題に移ろう。君にはどうしても聞いておきたいことがあった。
どうして君は転生をしなかったのかね?」
支部長はじっと僕の目を見つめてくる。鋭い眼力にたじろぎながらも、僕ははっきりと答えた。
「最初、転生を拒んだのは、なんとなく転生をしたくなかったからです」
「なんとなく、か。なら、今はどう思っているのかね?」
「前と変わりません。転生をするつもりはないです」
支部長は床を杖で突いて、クリップでまとめられた書類を自分の手元に創り出した。
「これはグリムから送られてきた、君の報告書だ。あまりにも情報に乏しい報告書だが、これによると、君の生きがいは食べることと本を読むことと書かれている。それならば、なおさら転生をした方がよいのではないか?」
支部長の言いたいことは大体分かる。
つまり。
「異世界にいけば僕が味わったことのない料理を食べることができて、かつ、未知の本を読むことができる。または現世に転生すれば、死ぬ前には読めなかった本や料理を食べることができる。だから、転生した方がお得ということですか?」
「ああ、その通りだ。ここで既存の知識の本を読み、口にしたことのある料理を食べて過ごしているよりも有意義だと思うが」
支部長の言うことにも一理ある。
異世界の料理と、食べ損ねた現世の料理。
異世界の知識と、手に入れ損ねた現世の知識。
どちらも捨てがたい。僕にとってその二択は、妻と子どもの片方しか助けられないとき、どちらを助けるか。そう聞かれているのに等しい。
だから、どちらも捨てないことにした。
「異世界や現世のどちらかに転生するよりも、ここにいた方が僕の食欲と読書欲は満たせます。だって、ここでならどちらの世界の情報も得ることができて、得た情報を再現し放題ではないですか」
最初は気まぐれで転生を拒んだ。
でも、今は、確かな自分の意思で転生を拒んでいる。こんな恵まれた環境を手放してたくない。
支部長はあごに手を添える。
「ふむ、年の割にはなかなか頭が回るようだ。しかも、清々しいほどに欲望に忠実だな。それなのに…………」
「面白い人間ですよね?」
部屋を見渡し、支部長は何かを言いかけた。それを遮ったのはグリムだった。
「ああ、面白い人間だ。君が興味を惹かれたのも分かる。やはり実際に目で見てみないと分からないものだな、そのものの価値というのは」
「報告が疎かになるくらい教育に夢中になるのも分かりますよね?」
「それはない」
支部長はばっさりと断言した。
「ちゃんと仕事はしなさい。上司がそれでは新人に示しがつかない。舐められてもしかたないぞ」
「大丈夫です。ちゃんと締めるところは締めているので」
鎌を使った恐喝という手段で、な。
グリムがそういう行為に及んだのは、僕が度を超えてからかったせいでもあるので、支部長にチクったりはしないけど。
「君の言葉はいちいち信用ならんな。まあ、いい。最後に一つ、仁見君に伝えておくことがある」
「なんでしょうか?」
「君はしばらく記録係として働いていてもらうが、他の仕事も経験してもらおうと考えている」
「他の仕事ですか?」
「申し訳ないが、仕事の内容について説明している時間はない。詳しいことはグリムに聞いてくれ。と、言いたいところだが、グリムに任せるのは心配なので、転生局の概要について簡単にまとめた資料だけ置いていくから、あとで読んでおいてくれ」
「親切にありがとうございます」
細かいところまで気を遣われて、申し訳なくなる。
ところで、上司に手間をかけさせている当の本人はというと、
「用が済んだらさっさと帰ってくださいね」
悪びれる様子が微塵もなかった。
こんな部下やだなあ。
僕だったらとっくに首を切っている。
「まあ、待て。どっかの誰かさんと違って、菓子とお茶を用意してくれたんだ。召し上がってから帰る」
そう言うなり、支部長はケーキを手で掴んで、たった三口で平らげた。時間がないからといってフォークのこと忘れないでほしい。続けて、紅茶も一気に飲み干してしまった。飲んでいると言うよりも、直接、胃に流し込んでいると言った方が正しい。紳士な恰好をしている割に、豪快な人である。
ちらりと自分の隣を見たら、グリムの皿とカップはとっくに空になっていた。僕の視線に気づいた彼女は満面の笑みで、人差し指を立てる。もう一つちょうだい、という意味だろう。
一つ食べたんだから、自分で再現できるだろ、と突っぱねようとしたけど、大した手間でもないので、グリムの要望を叶えてやった。
恩は売っておくに越したことはない。例え恩を売っても何の役にも立たなそうな相手でも。
僕とグリムの一連のやり取りを見ていたのか、支部長はティラミスの黒いところだけを口にしたような苦々しい顔で、
「あまりグリムを甘やかさない方がいい。何百年、そいつの上司をやっている身からの忠告だ」
「重みのある忠告、感謝します」
「こちらこそ。紅茶とチーズケーキ、おいしかったぞ。これはお世辞ではなく、心からの言葉だ」
「ありがとうございます」
自分が気に入っているものを、他人に褒められるのは嬉しいものだ。
「それでは、また会おう」
支部長は踵を返した。
最低限の礼儀として、扉が消えるまで頭を下げて見送る。
いつのまにか元に戻っていたパイプ椅子の上には、書類が置いてあった。その書類にざっと目を通し、
「転生局について説明してもらえる?」
そう、グリムに尋ねて、返ってきたのは空っぽの皿だった。
「……何これ?」
「皿」
「もう一つほしいってこと?」
「はい」
僕は眉間をもみほぐす。
支部長がどうしてあんな忠告をしたのか、分かった気がする。この少女は甘やかせば甘やかすほど駄目になっていくタイプだ。
僕は渋々、床を踏み鳴らす。
「それ、食べたら説明頼むな」
「らじゃー、です」
返ってきたのは、頼りない返事であった。