今だけはそばにいる
バスに揺られること三十分。家の近くのバス停で降りる。もちろんお金なんか僕は持っていないので、無賃乗車をさせてもらった。バスの運転手さんには申し訳ない気持ちだけど、これは仕方ないことである。
ザクロ曰く『想創』で創ったものも普通の人には見えないので、お金を創っても払うことはできない。というか、死んだ僕の姿は誰にも認識されず、他人の身体は僕の身体をすり抜けるので車内のスペースを取ることもなく、バスにいてもいなくても変わらない存在なのだから、運賃のことはどうか大目に見てほしい。
バスに乗る前、僕は現状の確認を行った。駅前のコンビニにお邪魔し、新聞の日付を一瞥すると、十月十六日の日曜日。僕が死んだ日から一か月以上経っていた。どうやらあの部屋で過ごす時間と現世の時間は微妙に異なるらしい。
ついでに時計も見ておくと、時刻は朝の七時三十五分だった。
現在、妹は中学二年生で、剣道部に所属している。土曜日は朝の九時頃から練習がある。しかし、日曜日に練習はないので、友人か彼氏との約束でもない限り、午前中に家にいないということはないだろう。
そして、きっとお父さんとお母さんも。
午後になったら妹が家にいない可能性が高まるので、僕はさっさと自分の家に向かうことにした。
去っていくバスを見送り、僕は慣れ親しんだ道を歩き始める。
降りたバス停から家までは歩いて五分しかかからない。そのたった五分の距離が、やけに遠く感じる。足が鉛になったかのように重くて、高い山の上にいるかのように息が苦しい。
何度も、何十回も、何百回も通った道を歩いているはずだ。それなのに、どうして異国の地に放り出されたような気分になるのだろう。どうしてこんなにも胸が締め付けられるみたいに苦しいのだろう。
いつもよりも倍近い時間をかけて、僕は我が家の前にたどり着いた。
家の庭は左半分が灰色に、右半分が緑色に分かれている。左側のコンクリートで覆われた駐車スペースには、白いセダンとワインレッドのモコが縦に並んでいる。そのさらに奥には、二台の自転車が見える。一つは新品みたいで、もう一つは錆びまみれだった。前者が妹ので、後者が僕の。遅く買った妹の自転車の方がピカピカなのは当然で、僕の管理の仕方が悪かったわけではないことを言っておく。
右側は大人の男性の身長程度の木がいくつか植えてある。手入れは行き届いているようには思えない。
玄関の前には竹で作られた柵がある。一年ほど前、家の前の田んぼを管理している老人から嫌がらせを受けている、と訴えた母さんが、なるべく家を覗かれないために業者に設置してもらったものだ。
老人からどんな嫌がらせを受けていたのか、僕は知らない。聞いたこともないし、知りたくもない。母さんが一方的にその老人の愚痴を話してきても、右から左へと聞き流していた。
そうでもしないとやっていけない。
僕は『仕事』でなかなか家に戻れない父さんの代わりに、母さんの真っ黒な感情を吐き出される、ゴミ箱の役割を担っていたのだから。
玄関の前で、僕は大きく深呼吸をした。それで心と頭は落ち着いたと思ったのだけど、僕の手はドアノブを掴んでくれない。まるで空気を掴もうとしているかのようだった。あとは握って、手前に引っ張るだけなのに。
僕やグリム・リーパーは通常、現世のものに触れることはできないけど、心から触れたいと思えば触れることができる。
つまり、僕はこのドアノブを本気で触りたいと考えていないのだ。
ドアノブを掴めないなら、掴まなくたっていい。ドアをすり抜けて、家の中に入ればいいのだから。でも、今度は足が動かなかった。深く、深く地面に杭を打ち込んだかのように。
自分がした覚悟なんて、所詮こんなものだったのか。
自分の心の弱さにたまらなく腹が立ち、唇を噛みしめていると、不意にドアが開いた。
家から出てきたのは、母さんと父さんだった。
一瞬、体が強張ったけど、二人は会話をすることもなく僕の身体を通り抜けていく。
ああ、そうか。
母さんと父さんにとって僕はいてもいなくて変わりない存在だと思っていた。しかし、僕にとっても二人はいてもいなくても変わりない存在だったのだと、何も気づかない二人を見て、はっきりと自覚した。
二人は白いセダンに乗り込んで、どこかに行ってしまう。
僕は心から二人に感謝した。
家からいなくなってくれてありがとう、と。
これで僕は何の気兼ねなくドアを開けることができる。少しというか、かなり情けないけど。
僕は意味もなく忍び足で、リビングをうろつく。僕がいたころと家具の位置が変わっていた。母さんは一か月に一回、模様替えをする。そんなことしても家の中の空気を入れ換えることはできないのに。
襖を通り抜けて、掘りごたつのある居間にいくと、タオルや小物などを入れてあるタンスの上に、小さな仏壇があった。仏壇の隣には、手を合わせに来てくれた人たちからの、菓子、果物などといった供え物。実においしそうである。思わず手を出してしまいそうだ。
仏壇の中には、僕の遺影が飾られていた。高校になってからはまともに写真を撮られたことはなかったから、この写真は中学校のときのものだろう。写真の中の僕は笑っているように見えるけど、目の奥は笑っていない。愛想のない子どもだな、と思った。
一階に妹はいなかった。
ということは二階の自分の部屋か。
階段を上って、右の突き当りの部屋が妹の部屋だけど、せっかく家に戻ってきたんだ。自分の部屋でも見ていくか。そう、特に深く考えることなく、自分の部屋のドアを開けて、僕は後悔した。
僕の部屋に何故か妹、仁見梓がいた。
部屋の中央で体育座りをして、膝に顔を埋めていた梓はドアが開く音に顔を上げる。
あまり寝ていないのか、目には濃いくまがある。心なしか、元々小柄だった体がさらに小さくなったように感じた。いつも二つにまとめている薄茶色の髪はほどけて、床に広がっている。
毎度毎度、元気に、無邪気に僕を振り回してくれた妹の面影はほとんど残ってはいなかった。
「…………お兄ちゃん?」
梓は掠れた声で、そう呟いた。
お兄ちゃんと呼ばれて、僕は飛び上がりそうなくらい驚いた。どうして真っ先に僕のことを呼ぶんだ。ありえないだろ。
「……お兄ちゃんいるの?」
梓はテキトーなことを言っているだけだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
僕のことに気づいてなんかいない。
「……お兄、ちゃん……」
動揺して何らかの反応を返してしまったら、取り返しのきかないことになる。
だから、僕は息をひそめてじっとしていた。
「やっぱり、いるわけないよね……。偶然開いただけか……」
梓は寂しさを紛らわすかのように自分の腕を抱きしめた。
「お兄ちゃん、会いたいよお」
黒く濁った瞳から透き通った涙が零れ落ちた。時折、嗚咽が聞こえてくる。
僕が危惧していた通りだった。梓は、一か月が経った今でも、僕の死を乗り越えることができていない。これだけ憔悴しきった様子を見ると、学校にも通えているのか心配になる。
その涙がマットを濡らすたび、梓が泣いていると言うのに何もできない自分の無力さが、矢のように僕の心に突き刺さっていく。必死で妹の身体を抱きしめて安心させてやりたいと言う衝動を抑えた。
決して僕は妹に自分の存在を悟られてはいけない。死後の世界の存在を知られたら、妹がどんな行動に出るのか予想できる。
妹に会う前から分かっていたことだ。
僕にできることはなにもない。
そう、何も。
でも、会わなくてよかったとは思わない。
どんなに辛そうな顔でも、どんなに悲しそうな顔でも、妹の顔を見ることができて本当によかった。
どれだけの時間がかかるか分からないけど、早く僕のことを忘れられる日が来ることを願いながら、僕は泣いている妹のそばに居続けた。




