0と1の間の第1話
僕は将来、自殺願望を抱く詩人になりたいと思う。
毎日毎日美しい言葉と醜い言葉を乱用して、死への憧れと狂気を尊ぶこの重すぎる思いを高音で甲高い気持ちの悪いメロディで繋いで、意味のない文章を築き上げたい。
文体だけで、文字だけで、それらを読み上げるリズムだけで、誰かを殺せたら。そしていつかその詩が僕自身を殺せる日が、文字だけで、自らに死を、招く日が来るようならば。
僕はきっと、幸せになれると思う。
――なんて、ね。
僕がこういった感じのぶっ飛んだ想像を膨らませるのは、大好きな入浴中だけ。僕にはお得な安心機能が付いている為か、人様に迷惑をかけない仕組みとなっているので妄想は膨らませるだけで放出はしない。これがモットー。
それから素敵だと思うが、僕は自殺願望の詩人になるつもりはない。僕は将来、自殺願望の詩人になりたいと思う、なんて云ったけれど、云ってみたかっただけであって本心ではない。
けれども、本心もちゃんと含まれている。僕は風呂が大好きだ。生活の中で一番何をするのが好きかと聞かれたら真っ先に「入浴と睡眠」って答えるね。睡眠も好きなんだよ。
もしかしたら今僕は夢の中にいるのかもしれない。
確かに入浴中だが僕の部屋の浴槽はこんなどこかの銭湯の浴槽みたく広くないし――僕の向かいに誰かいることもない。何よりおかしいのが僕も相手も服を着たまま湯に浸かっていることだ。そして向かいの相手は黒髪の綺麗な大人の女性だった。
――いや。いやいやいや。
大丈夫だ。かなり焦ってはいるが誰かさんが想像するような展開にはなっていないはずだ。何かしちゃいけないことをした覚えもない。僕はまだ健全でいい子のはずだ。冗談だけど。
「美戯」
ふいに、彼女が僕の名前を呼んだ。
僕は吃驚して彼女を見る。何で僕の名前を知っているのだろうか。僕は彼女が誰だか分からない。
いや。
思 い 出 せ な い 。
「久しぶりね……美戯」
彼女がふと笑う。その表情が誰かにそっくりで、僕はなんだか吐き気がした。
冗談ではない。
「貴女、誰ですか?」
僕は瞬間的な努力の結果として、この質問を口にしたが、「これは罪なの」と彼女は僕の努力を思いっ切りスルーして言葉を繋ぐ。
彼女は白のワイシャツの下にタイトなジーンズを履いていた。対する僕は今通う学校の制服を着ている。
浴槽の壁に背を預けて足を投げ出す僕と、同じく伸ばした彼女の足が触れることのないくらい、湯船は広い。でも僕はこの広さに感動できない。だって似てる。
う、と息を吐く。
似てる、似てる、似てる。誰かさんに。どうしよう、凄く気持ち悪い。胃の中をぐちゃぐちゃに掻き回されたような感覚に陥る。鳩尾に大きな鉛が押し当てられたかのようで、僕は右手で口元を覆った。
「美戯」
しかし追い討ちをかけるように何時の間にかこちらに寄ってきた彼女に両手を奪われる。口元を押さえるものを取られ、嗚咽をあげる。
「これは、罪なの」
罪。
罪?
「逃げれられないのよ、美戯。貴方はこの罪をずぅっと背負って生きていなければいけないの」
女の顔は本当に目の前にあるのに、黒い靄みたいなのに覆われて、口元しか見えない。そのせいで、この女が笑っていることしか分からない。頭の中でぐるぐる回る罪と言う言葉が、今不気味に笑う女に重なって、気持ち悪さが倍増。気持ち悪い……なにか出そうだ。
この時僕には、自分の口をコントロールする自重能力が欠けていたに違いない。
「罪を背負うはずなのは、あんたじゃないか!」
僕の悲鳴に女ははっとして後ずさった。両手が自由になった僕は、溢れる生暖かいものをやっと拭う。それから胃の中身を吐き出すのをやっとでこらえる。
罪を背負うべきなのは、あんたじゃないか。僕はなんで、あんなことを云ったんだ?
「美戯、みぎ、あぁ、美戯」
女は頭を抱えている。そしてしきりに僕の名前を呼ぶ、呼ぶ。彼女はまだ僕を引きずり込もうとしているのだ。罪で出来た湖に。
「自殺なんて、貴方には出来ないわ、美戯」
嗚咽と涙に紛れた僕に影が覆い被さる。見上げると、女が目の前に立っていた。
その右手には、包丁。
あれは確か、台所に在ったものだ。
殺される。その直感は本能が力強く告げた物だった。
「私を否定しないで」
「やめろ」
「私は美戯を殺せないわ」
「やめろ、よ」
「だって美戯は私を、私を!」
殺される。でも、僕は。
逃げ場の無い僕に向かって勢い良く右手が振り下ろされる。
殺される。
とっさにかざした右手に、刃の先が落ちていく。
まるで、吸い込まれるように。
突然全ての動きがゆっくりになって、――その瞬間にも何故か僕は気持ち悪さを感じたのだが――どうしようもないまま、僕はつぷりと音も立てることなく手のひらを突き破り、これから赤くなるであろう包丁を見ていた。
そしてそのスローモーションの中でも思考はいたって普通の速さで行われていた。
殺される。でも、僕は、僕は
。
痛みと死の代わりに訪れたのは、唐突過ぎる目覚めだった。