1 "騎士"との邂逅
東の森、その奥深く。
鬱蒼と茂る木々が、日の光を遮って暗い影を落としている。
朽ちた株の上に幾重にも生えた樹が苔むした様は、長い時間人が足を踏み入れていないことを示していた。
行く手には勿論、道らしい道などない。焦る気持ちとは裏腹に、所々に顔を出した岩と隆起した木の根が行く手を阻む。
茂みをかき分け、倒木を乗り越え、ナオキはひたすらに森の外を目指して走り続けた。
うねる枝が閉ざした彼方で遠吠えが木霊した。
不安定な足下に四苦八苦するナオキを他所に、獣たちが地を蹴る音が近づいてくるのがわかる。
(――やはり、駄目か)
絡み合うように突き出た樹木の根の隙間を縫って、銀毛の狼が次々と飛び出した。
迫り来る牙を紙一重で躱した、と思った瞬間、目の前を血飛沫が舞い散った。
掠めた爪は胸当てを引き裂き、横腹に新たな傷を刻む。
「くそっ、次から次へと湧いて来やがって……!」
飛びかかってきた狼の横っ面を蹴り飛ばし、ナオキは悪態をついた。
獲物を深追いし過ぎて、猛獣の縄張りに足を踏み入れてしまったことに気づいたのはつい先刻のこと。
まずい、と思ったときには木陰から飛び出た影に、地面に組み伏せられていた。脇腹を抉られ、腕に噛みつかれながらも、死に物狂いで狼の脇腹に拳を叩き込む。悲鳴とともに圧迫が消えたのを幸いに、狼の下から這々の体で逃げ出し――
――今に至る。
現在の状況は、彼の口癖を借りるとすれば、「マジ、ヤバい」。篭手も肩当ても、辛うじて体に引っかかっている程度で防具としての役割は果たしてくれそうもない。挙句、執拗に追い打ちをかけてきた狼達に、唯一の武器もへし折られ、残骸を脅し代わりに投げ捨てたばかりだ。
ナオキは暗がりで爛々と燃える瞳を忌々しげに睨みつけた。
行く手を阻む狼達は続々とその数を増やしている。森に生息する獣たちのレベルは高くなく、いつもの彼なら易々と斬り捨てることが出来る相手だ。しかし、今は瀕死の傷を覚悟した上で、やっと一匹をしとめられるかどうか。
毎日討伐依頼を受けている土地勘のある場所であったことから、少々の油断も含まれていたことは否定できない。しかし、それらを差し引いても、気配に気づかなかったのは失態と言わざるを得ないだろう。自分の力を見誤った結果だ。
「ついてないな、全く!」
舌打ちと共に、最後の煙幕を投げつける。
白い球体は放物線を描いて飛び、一拍の間をおいて炸裂した。吹き出した煙が辺りを覆う。痺れ薬が仕込まれた煙幕は、狼を倒すには至らないものの、少しの間なら動きを鈍らせてくれるはずだ。
案の定効果覿面、足元が覚束なくなった狼達は次々と体を地面に横たえていく。
持てる限りの力で、逃走を試みたナオキの耳が死神の足音を捉えた。
葉のこすれ合う音に混ざって、湿った吐息が聞こえる。
ナオキは身構えた。木陰から姿を現したのは、巨象程もあろうかという獅子である。悠然とした足取りで鬣を振りながら、しかし、侵入者に向けて射抜くような瞳を向けている。 獣王と呼ばれる、この樹海の主といわれた獅子であった。
「王様のおでまし、ってか」
わざと軽口めいた言葉を口にしてみても、震える手を鼓舞するには至らなかった。
既に体力は限界まで削られていて、手持ちの道具もつい先ほど使い切ってしまった。残り少ない気力を振り絞って技を繰り出そうにも、隙は見当たらない。わざわざ人がいない区画を選んだ為に、仲間を呼ぶことも出来ない。
いや、助けを求めたとしても、合流する間に殺されるのは目に見えている。
このまま死ぬのも面白くない。それならば、いっそ一矢報いてからでも――。
「悪いが、ちょっと邪魔するぞ」
玉砕覚悟で飛びかかろうとした時、ナオキと獣王の間に割り込んだ人影がある。
白銀の鎧に身を包んだ騎士だ。標準より高めの身長を持つナオキより、頭二つは大きい。無骨な兜のお陰で顔は見えないが、頭の先から爪先まで覆う甲冑の下に鍛え抜かれた肉体が息づいているのが分かった。はためくマントは翼の如く、身の丈程の一振りの大剣を担いだ姿は、畏怖さえ感じさせる。
「そのまま、動かないで居てくれると助かる」
騎士が右手を掲げると、ナオキの身体が光に包まれた。
体力が急速に回復していく。受けた傷が塞がっていくのが分かる。騎士が回復魔法をかけてくれたのだと気づいた時には、彼の姿は消え失せていた。
「さあ、行くぞ!」
いつの間に抜いたのか、彼は鎧と同じく白銀に輝く両手持ちの大剣を携えて、駆けだしていた。重装備も何のその、雷光の如き速さで獅子へと迫る。
騎士の姿を見とめた獣王は、獅子吼した。
大気を振るわせる咆吼と共に、地を蹴った巨体が騎士目がけて突進する。騎士は避けるどころか、獅子に向かって跳躍した。
獅子の後足を狙ってなぎ払う。
獣王は虚を突かれた様子を見せたものの、さほどダメージはないらしい。危なげなく着地し、すぐさま騎士へ向き直った。頭を振り立て、牙を鳴らして騎士に襲いかかる。巨体に見合わぬ素早さで繰り出される爪の一撃は、当たれば防具を裂き、衝撃は内臓を抉るだろう。
しかし、騎士は難なく避けつつ、死角に潜り込み、確実に攻撃を通していく。暴れ狂う獅子に張り付くように動きながら、隙を見て強力な一撃を叩き込む。抜き身の大剣を軽々と振り回し、獅子を翻弄する様は余裕すら感じられた。
鮮やかな立ち回りに、呆然とみていることしか出来ない自分に歯噛みした。悔しいが、次元が違う。装備が万全であったとしても、ナオキが入る隙間はないであろうと思われた。
幾度、刃が振り下ろされただろうか。
騎士の放った突きが、飛びかかろうとした獣王の後ろ足を砕く。怒りとも呻きとも突かぬ声を上げた獅子は、身をもだえさせて身を仰け反らせた。その隙を騎士が見逃すはずもない。
気合い一閃。
無防備に空いた腹に向けて、騎士の渾身の一刀が走る。
喉笛まで袈裟懸けにされて、森の王たる獅子は苦しげに呻き声を上げながら崩れ落ちた。
「すまん、君の獲物を横取りした」
獅子を易々と倒した後、彼が呆然としているナオキに向けた言葉は意外なものだった。
申し訳なさそうに頭を掻きながら言うには、付近をぶらついていたら、偶然獣王を見つけたので思わず割り込んでしまった、とのことだ。
「埋め合わせになるかは分からんが、先程の奴が落としていったものだ。君が使ってくれ」
言いながら地面に突き刺したのは、一降りの大剣だ。「虎殺し」、獣王を倒すと稀に手に入ると言われる希少な武器の一つである。
言うだけ言って、身を翻そうとする彼に、
「あの、」
ナオキは思い切って声をかけた。
騎士が、兜に包まれた顔を向ける。その表情は伺い知れない。
「助けてくれて、ありがとうございました」
言いたいことは他にもあったのに、絞り出せたのはありきたりな台詞だけだ。投げかけられた感謝の言葉に軽く手を上げて答えた後、騎士の姿は掻き消えた。瞬間移動の魔法を使ったのだろう。あっという間の出来事で追いつくことは敵わなかった。
吹き抜けた風が、大剣の柄に下がる飾り緒を揺らす。
薄暗い中で、牙を模した刃はナオキの顔を映して輝いていた。
暫しの躊躇いの後、ナオキは『虎殺し』を引き抜いた。
長い刀身を杖代わりに、疲れた体を引きずって森の出口を目指して歩きはじめる。今までのざわめきが嘘だったかのように、辺りは静まりかえっていた。不思議なことに、一番近くの町に帰るまで、ただの一度も獣に襲われることはなかった。
――後に、ナオキは知る。
数ヶ月前から、プレイヤーを助けて回る"騎士"が居るという噂が流れていると言うこと。
白銀の甲冑に身を包み、身の丈ほどもある大剣を携えた姿は、中世の騎士の如く。
体力が尽きかけている者を見つければ、回復魔法をかけてやり。
苦戦している者が居れば、助太刀してやり。追われている者が居れば追っ手を蹴散らしてやり。
全てを成し終えたら姿を消してしまう、お節介焼きな"騎士"が居るという、噂を。