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あなたも、わたしも、愛されるために

作者: 月森あいら

近未来を舞台にした、ファンタジーです。離されて育った双子の少女たちが、どうして自分たちは離されたのか、なぜ再会したのか。ふたりの絆を追い求める物語。ふわりとした読後感をお求めのかたに、お勧めです。

 立ちはだかった姿があった。沖津楓の、革靴を履いた足は止まる。吹く風に煽られた制服のスカートの裾が足にまとわりついた。

 寒風の吹きすさぶ戸外、夕暮れ。自宅のマンションの前に立ち止まった楓は、目の前の姿に何度もまばたきした。

「あ、の……?」

 どこか懐かしく感じられる顔。初めて会ったような気がしない。遠い日に出会った思い出でもあるのか。思い出そうとしても何も浮かばず、楓は困惑するだけだ。焦れったい思いで記憶を辿りながら、楓はまた目をしばたいた。

「だれ……」

「沖津楓ね」

 はっきりと彼女は楓の名を綴った。

「……え?」

「沖津楓でしょう、あなた」

 楓は頷いた。薄めの唇、じっと見つめてくる丸くて大きな目。それらはどこか、覚えがある。見たことがある。知っている。楓を見つめる凍りついたような表情を前に、思い出さなくては、と楓は必死に記憶を喚起しようとした。

「は、い……」

「私は、揚羽」

「あげは……?」

 彼女は自分の胸に手を置いた。指の形、爪の形にまで目を奪われる。節の小さい、短めの細い指。楓もそのような手を持っていた。ピアニストになりたいという夢は、その指のこともあって幻のままなのだから。

「沖津、揚羽よ」

 彼女は言った。ほとんど唇が動かなかったように見えた。ひゅう、とふたりの間を駆け抜けた風と同じ調子で名は綴られた。

「沖津……?」

 気がついた。目の前の彼女の姿が、誰を彷彿とさせるのか。なぜ、見慣れ馴染んだ思いを起こさせる理由はなんなのか。

 自分だ。自分に似ているのだ。楓の顔、楓の体。彼女の姿は楓にそっくりだった。体の造作、目の形唇の形、頬骨の形に顎の形。楓をじっと見つめる瞳の、やや薄い色彩までが同じだった。

「……あ」

 顔や体の造作は似ていても、まとう空気が違った。楓の茶色がかった髪は肩までの長さで整えてある。揚羽の髪は、色は同じだが腰までの長さがあった。楓は高校の制服である紺のブレザーとチェックのスカートだが、揚羽は黒のワンピース。ふわりと揺れる裾が、彼女の足にまとわりつくさまは夜の海に打ち寄せる波を連想させた。

 同じ造作のふたりの違いは、髪形や衣服だけではない、その持つ印象がまったく違った。同じ顔のふたりがこれほどに違う空気をまとえるものかと感心するくらいに、彼女の持つ空気は楓のものとは違った。

 同じ年ごろであることは間違いない。しかし楓がクラスの友達とするような、ケーキのおいしい店や趣味の合う服を扱っている店の話などは、彼女にはあまりにもそぐわないように思えた。

 親戚か何かなのだろうか。楓は目をしばたいた。同じ苗字、そしてこの容姿。自分に血縁はないと思っていたのに。そう聞かされていたのに。そうではなかったのだろうか。

 揚羽は楓に近寄った。間近に見る顔にはっとする。その、表情。同じ年ごろの少女のものではない。あまりに深い憎しみと怒りを感じさせるその表情は、楓には出来ない。そしてそこにともにある感情は、怒りだった。自分が彼女に、何をしただろうか。そのような顔をさせてしまうような、悪いことをしただろうか。楓をそう、不安にさせる表情だった。

 揚羽は言った。

「真川博士に会わせて」

 突然突きつけられた名前に、楓はまた驚いた。揚羽の顔色が変わる。恐ろしいほどの真剣味を帯びながら、必死にすがるような、と言うべきか。

「お父さん、に……?」

 楓の言葉に、揚羽は目をすがめた。不快の色が走る。それに思わず後ずさりをした楓に、揚羽は大きく一歩、踏み込む。同じ顔が間近に迫る。

「真川幸彦よ。会わせて。今、どこにいるの」

「な、に……?」

 楓はなおも、後ずさりをした。胸を押さえる。激しく跳ねる心臓は、その動きだけで体の力をすべて奪っていってしまうようだ。大きく何度も深呼吸する。

「どこにいるの、あの男は」

 揚羽の視線は、切りつけるようだ。楓の体のことなど眼中にはなく、ただ真川に会わせろと繰り返す、死に物狂いの形相にぞっとした。

「どこにいるの!」

「……あ!」

 楓はとっさに踵を返す。そして駆けた。オートロックのマンションの、キーロックを懸命に開ける。読み取り機の上に指を置いて、指紋を照合して解除するドアの開閉に、一回失敗した。もう一度。そうしている間に、揚羽の姿がすぐ背後に近寄ってきた。

「……、……あ!」

 突然、ドアが開いた。中に滑り込んだ。揚羽が、あ、という顔をして楓を引き止めようとしたが、そのときには楓の体はマンションの建物内に吸い込まれていた。揚羽の目の前で、ガラスのドアが静かに閉まる。

「は、ぁ……」

 高鳴る息を押さえながら、楓は振り向く。分厚いガラスのドア越しに、揚羽がこちらを見ている。その視線は怒りに燃えている。楓は身を震わせた。エレベーターにまで一気に駆ける。荒い息を押さえながら振り返った。

「……あ」

 ガラス戸の向こうにいたはずの少女。揚羽、と名乗った彼女。楓とそっくりでいて、少女の姿。楓を見つめる、痛いまでの鋭い視線。

「あ、げは……?」

 そこにはもう、なにもなかった。楓のつぶやいた名を名乗った人物の痕跡を思わせるものはなにもなかった。ふわり、と風に煽られた枯れ葉が舞う。楓の目に映るのは、歩道と、街路樹。遠くを歩く人影。先ほど目の前にあったはずの姿は、もうどこにもなくて。

 楓は左胸をそっと押さえた。その奥にあるものがことことと乱れた脈を打って、楓に何かを訴えかけているように感じられた。



 「お父さん……!」

 ドアを開けた楓の、第一声が家の中に響いた。

「お父さん、今っ……」

 上ずった声で叫ぶ楓の視線は、目の前を横切ったものに奪われる。小さな電子音を立てながら楓の前でとまったそれに、思わず力が抜けた。

「カエデ、カエデ」

 小さなロボットが目の前にあった。ずんぐりとした胴体に、丸い頭。両手を踊るように動かしている。ローラーで動くようになっているそれは昔々のマンガに出てくるような、大変にレトロな形をしていた。赤に青に光る大きくて丸い目は、にぎやかに点滅して楓の目を奪う。

「オカエリ、カエデ」

 ぴぴ、ぴぴ、と小さな電子音をあげながら、ロボットはくるりと回った。そしてその動きを誇るように、また目を点滅させる。

「オカエリ、カエデ。オカエリ」

「お父さん……?」

 父の姿を探した。楓の父・真川幸彦の丸い背は書斎にあった。机に向かったまま、こっちを向かない。五十年以上の年輪を刻むその背に駆け寄った。

「お父さん、あれ、お父さんの声?」

「かわいいだろう?」

 手が離せないのか、真川はこちらを向かない。楽しそうな声でそうとだけ言った。

「声なんかの生体データは、お父さんのものをインプットして。本体は知り合いのひとに作ってもらったんだ」

「すごい、声。お父さんのまんまじゃない?」

 ペットロボットと呼ばれるこの玩具は、形はさまざまだがどの家にでもあるポピュラーなものだ。楓も友達の家でよく見かける。しかし人間の肉声をこうもなめらかに発することの出来るペットロボットなど、初めてだ。

 楓はちらりと真川の背を見、ロボットを見、そして小さく舌を出した。

「こういうの作るんなら、使って欲しい声とかあったのに」

「どうせ、お前の好きなアイドルとかの声だろう?」

「……」

 あっさりと言われた言葉に、楓は頬を膨らませた。真川はまた、笑う。 その陽気な声に、楓もつられて笑ってしまった。

「お父さんの声で我慢しなさい。留守のときも寂しくないだろう?」

「子どもじゃないんだから」

 回転式の椅子が、くるりと回った。振り返った真川の顔を、楓はまばたきしながら見た。好々爺然としたその顔は、こうして見るととても忙しい科学研究者には見えない。最近は、生え際が怪しくなってきてますますだ。父の仕事のことをよくは知らない楓だが、優しいおじさん、というイメージしかない彼が、てきぱきと部下に指示を与えている姿などというものは、なかなか想像できなかった。

「楓……」

 彼の笑顔は、驚きにほどける。目許に深い皴の寄った、真川の目は大きく見開かれた。

「顔色、悪いぞ」

 真川は勢いよく立ち上がった。じっと楓の顔を覗き込む。

「そ、う……?」

 楓は思わず頬に手を置いた。そう言われると、自分の頬から伝わってくる温度は少し低いような気もする。

「どうしたんだ、また調子悪くなったのか?」

「大丈夫。苦しいんじゃないから」

 楓がしっかりした口調でそう言うと、真川はにわかにほっとした表情を見せた。彼の肩からは目に見えて緊張がほぐれ、続けて深い息を吐いた。

「なら、いいんだが……」

 真川は心底安心したように、薄くなった髪をかき回した。彼を安心させようとにっこりと微笑み、楓は言った。

「びっくりしたから。それでちょっと、苦しくなっただけ」

「そんなに驚かせたか?」

 真川はペットロボットに目をやった。ロボットはふたりの足もとにやってきて、また楓の名を呼んだ。

「違うって。お父さんのせいじゃないから」

「ならいいんだが……」

 真川はまだ心配そうな顔をしている。彼を安心させるためにもう一度微笑んで、真川の苦笑を誘い出す。真川は楓の頭をくしゃっと撫でると、再び椅子に腰を下ろした。その横に、楓は立った。

「手術は成功したと言っていたのに」

 楓を見上げ、真川はため息をつく。その表情は曇っている。

「やっぱり、完治というわけには行かないか。時間の問題と聞いていたのに」

「大丈夫、本当に」

 楓の言葉に、しかし真川はなおも眉根を寄せる。

「移植が、なぁ……」

 真川は、また息をついた。小さなつぶやきは独り言だったのかも知れないが、楓には聞こえた。彼がことあるごとに口にする言葉だったから。そんな真川に、楓は首を左右に振った。

「私はこうやって普通の生活ができるもん。学校にも行けるし。そういうのは、もっともっと大変なひとのために置いておかないと」

「……まぁ、な……」

 真川は、椅子の背にどかりともたれ掛かった。真川の体重を受けて、貼られた革がぎし、と鳴る。疲れたように目を閉じる真川の姿を目に、楓は先ほどの出来事を思い出した。

「あの、お父さん……」

 楓は恐る恐るつぶやいた。真川は目を開けて、なんだ、という顔をした。

「さっき、変なひとに会ったの」

「変なひと?」

 真川は眉をひそめた。楓は頷いて、先を続ける。

「私に、そっくりなひと」

 その瞬間の真川が、どんな顔をしたのかは分からなかった。彼は体を起こして、モニタを見た。楓の立っている位置からは、彼の表情は窺えなかった。

「沖津揚羽、って言ってた」

「……」

 真川は何も言わなかった。彼の指は、思い出したようにキーボードを走り出す。楓はまばたきをして、そして続けた。

「それに。……あのひと」

「……ん?」

「お父さんに会いたいって言ってた」

「……、……」

 真川は何も言わない。キーの音がかたかたと小さく響く。

「ねぇ」

「間違いじゃないのか」

 モニタに目を注いだまま、真川は抑揚のない声でそう言った。

「でも、はっきりそう言ったもん。それに、私にすごく似てて」

「世の中には似ている人間が三人はいるって言うぞ」

「そういうんじゃ……」

 真川の顔を覗き込んだ。真川はやはり、まっすぐにモニタを見つめたまま。視線を動かさない。

「ねぇ、私に親戚とかいなかったの? 本当のお父さんとか、お母さんの兄弟とか。そこに子ども、いるとか。私くらいの」

「沖津博士に、そんな親族があったとは聞いていないが……」

 真川は、キーを打つ手を止めた。人差し指でこめかみを掻く。ちらり、と楓を見上げる。そして楓を安心させる笑みで、言った。

「調べておくよ。また」

 そう言って、真川は机の上に置かれたマグカップを手に取った。なみなみと注がれた、きれいな色をしたカフェオレを目に、楓は声をあげる。

「また、お父さん……!」

「……あ」

 悪戯を見つかった子どもの顔をして、真川は肩をすくめた。楓はその手からカップを取り上げる。その横には灰皿があって、吸い殻が山のようだ。

「ダメだって言ったでしょう? タバコ吸いすぎ。それに、コーヒー飲むならミルク抜いてカロリー下げてって言われたでしょうが」

 きっと視線を尖らせて、真川を睨む。真川は、困った顔をして肩をすくめている。

「もしかして、お砂糖もいっぱい入れた?」

「……」

「お医者さんにも言われたじゃないの、糖尿、悪くなっちゃうわよ?」

「……、……」

「ひとの体じゃなくて、自分の体の心配もしてよ。もう、若くないんだから」

「……ごめん」

 叱られた子どものようにそう言う真川に、楓は思わず笑ってしまった。

「淹れ直してきてあげる」

 楓はキッチンに向かった。新たなコーヒーを満たしたカップを机に置いたとき、真川はモニタに目を注ぎ、作業の続きに取り掛かっていた。

 盆を抱えたまま、楓は川と同じ方に目をやる。しばし眺めて、つぶやいた。

「……全然、分からない」

 真川は笑った。

「お前に分かられるようじゃ、困る」

「一度、お父さんの働いてるところ、行ってみたい」

 甘えた声でそう言ってみた。真川は声は優しいままに、しかしはっきりと言った。

「ダメだ」

「でも……」

「いろいろと危険な場所があったりするんだ。子どもを連れて行けるような場所じゃない」

「高校生は、もう子どもじゃない」

「子どもだ」

 きっぱりと、断言する口調で真川は言う。

「ましてや、体の弱いお前なんか。連れていけない」

 こういう話は初めてではない。そしていつも同じ終わり方をする。自分の体のことを持ち出されると、それゆえに真川に心配とや手間をかけているという自覚があるだけに、楓も弱い。

「もう、あっちに行きなさい」

「……はぁい」

 促されるままに、楓は体を翻す。足にペットロボットがまとわりついてきた。真川が手元のマウスを扱う音。クリック音とともに、モニタに表示されるものが切り替わる。楓はちらりと振り返り、そこに見たものに声をあげた。

「あ!」

 楽譜だった。真川の目の前のモニタに広がっているのは、音符の羅列。手書きのそれは乱暴な字ではあったが、五線譜にひとつの楽曲を刻んでいた。

「なに、それ?」

「……さぁ……」

 真川も首をひねっている。先ほどのような硬い表情は解けて、驚いたような顔をしている。彼の、そんな子どものような顔に楓は目をしばたたかせた。

「なに、これ?」

「楽譜……みたいだな」

 楓はモニタを覗き込んだ。映し出されているのは拡大画面で、ゆえに全貌を一目で知ることは出来ない。

「ねぇ、これ弾いてみたい。弾いてみてもいい?」

「ああ」

 真川は頷いた。

 何かを考えている様子の真川を首をかしげて覗き込むと、彼は小さく言った。

「これは、きっと……お前の、お父さんの作った曲だ」

「……へぇ」

 立ち上がった真川がキーを押すと、違う画面が現れた。ややあって傍らの棚から、プリンタの起動音が聞こえてきた。

「お前の、本当のお父さん。……沖津博士の」

「なんで、こんなところにあるの?」

「曲を作るのが好きなひとだったから。作品のうちのひとつだろうが」

 真川はプリンタから吐き出された紙を取る。モニタに映っていた楽譜が、液晶画面越しに見るよりもはっきりと印刷されて手元に落ちた。

 『CAEDE』。

 楽譜の冒頭には、そんな文字があった。走り書きされたような、乱暴な字。

「かえで?」

「沖津博士の字だな」

「……汚い」

 楓が素直な感想を述べると、真川はまた笑う。真川は実際、よく笑った。その笑いは朗らかに、いつも楓を楽しくさせた。

「お前の名前を、タイトルにつけたんだな。こんなもの……ここにあるなんて、知らなかった」

 真川は印刷された紙をしげしげと見つめる、そしてそれを楓に手渡した。

「弾いてみるんだろう?」

「うんっ!」

 受け取った楓は微笑んで、リビングに走る。ペットロボットが追いかけてきた。

 古びた、アップライトの黒いピアノ。それに向かい、楽譜を広げる。楓の指は鍵盤を走り始め、同時に 書斎から真川がキーボードを打つ音も聞こえてきた。ふたつの音が重なる。

「上手くなったな」

「そう?」

 真川の声。リビングと書斎、部屋は離れていてもそう大して大きい家というわけではない。少し声を大きくするだけで、話は充分に出来る。

「最近は、あんまり練習できないんだけど」

 大して長くもない曲は、すぐに終わった。手持ちぶさたに、ぽん、ともう一度、最後の音を押した。押しながら、楓は肩をすくめた。

「もっと、練習したいけど」

「充分上手だよ。お父さんは、いくら頑張ってもどうしても両手がばらばらに動かない」

「でも、音譜は読めるでしょ。そんな難しい書類とかも読めるくせに」

 書斎の方を見やり、楓は言う。真川の笑い声が聞こえた。

「お前はやはり、お前のお父さんの血を受け継いでるんだろうな。そういうところに、出る」

「ふうん……」

 楓はなおも鍵盤を押す。ぽん、ぽんと上がる音、そこに真川の声が重なった。

「お母さんのことは」

「え?」

「お母さんのことは。知ってたか?」

「事故で死んだんでしょ? 本当のお父さんと一緒に」

 楓は振り向いて言った。真川の肩がちらりと見えるだけだ。それに向かって、楓は首をかしげた。

「なんなの、急に?」

「知ってるんならいいんだ。聞いてみたかっただけだから」

「ふぅん?」

 楓は少し首をすくめ、そしてピアノをもてあそび続ける。楓の視線は、ふと走り書きの文字に注がれた。

「どうして、この綴りなんだろう?」

「え?」

 真川の返事が、書斎から聞こえてきた。『CAEDE』と書かれた、この曲のタイトルと思しき文字を指さす。

「私の名前なら、Kじゃない? なんでCなんだろう?」

「……そうだな」

 真川の声が、遠くからそう言った。楓は首をかしげて、指先で文字をなぞる。

「……何かの、暗号かな」

 楓は冗談めかしてそう言った。

「なんか、これ解読したら秘密の財宝が、とか」

「変な本の読み過ぎだ」

 真川は笑う。楓も笑いながら、指で今度は旋律を辿った。ちらりと書斎の方を伺うと、真川はモニタを見つめ、何かを考えているようだった。手持ちぶさたのまま、楓は目の前の楽譜の上を走る。指を動かす。

 電話が鳴った。ちらり、と電話機の方を見て、真川はお前の友達だ、と言った。

「はい」

 真川の言う通り、相手は楓の同級生だった。四宮深雪。ソフトボールに熱中している彼女は、名前とは裏腹の陽に灼けた浅黒い肌が印象的な少女だ。

 宿題の内容を確認してきた深雪としばらく話を続けたあと、電話を切る。

「気をつけて行って来いよ」

 受話器を置いた楓は、背後からの真川の声を聞く。振り返って不満の声をあげた。

「またぁ?」

 言うと、真川は子どものような顔で肩をすくめた。もう、と楓は手を腰に置く。

「最近、多くない? 高校生の娘ひとり、留守番させといて危ないと思わないの?」

「仕事がね、佳境に入ってるから」

 夜遊びを咎められたような顔をして、真川は言う。

「もう、これが終わったら少しは楽になる予定だから」

「予定は未定、でしょ」

 両手を腰に置いて怒った顔をして見せる。それに両手を合わせて、申し訳なさそうな顔をする。ふたりの視線が合って、そして同時に吹き出した。

「寝る前には、火の元と鍵な。それに、薬も忘れずに飲んで……」

「はいはい。お父さんもね」

 玄関に向かっていた真川は、楓を振り向いて苦笑する。

「寝るときはちゃんと、お布団に入ってお腹出さないように気をつけて」

「はいはい」

 真川は手を振って、玄関を出る。その足取りがどことなく慌てているように思えたのは気のせいか。楓は首をかしげる。足もとに、真川の声で話すロボットがすべり寄ってきた。



 再びの感覚に、楓は思わず胸を押さえた。

 慌てて振り返るも、先ほど別れた深雪の姿はもうなかった。目の前にいるのは、自分と同じ顔を持った少女だった。揚羽だ。まとう空気のあまりにも違った、しかし造作だけは瓜二つと言っていいまでに同じ、あの少女が目の前にいる。

「真川博士は、どこ」

 揚羽は言った。切羽詰まったような、息せききった声音。いきなりかけられた声に楓は言葉を奪われて、息を飲んだ。

「あの男は、どこに行ったの」

「……知らない」

 楓はやっと言葉を絞り出した。揚羽はきりりと目尻をつり上げる。

「知らないわけないでしょう? 一緒に暮らしてるんでしょうが」

「本当に、知らない」

 楓はこわばった声で言った。

「お父さんはいっつも、いつ帰るのか言わないで出掛けちゃうし、予定を言ってもその通りに帰ってきたこともないし」

 促されるままにそう答え、そして楓ははっと目を見開いた。

「あ、あなたこそ、誰よ!?」

 精いっぱい視線を尖らせて、揚羽の勢いに負けないように声をあげた。

「いきなり来て、お父さんはどこ、って……。お父さんと、知り合いなの? それだったら、私じゃなくてお父さんに直接……」

「知らないの?」

 楓の言葉を遮ったのは、揚羽の冷たい声だった。

「な……」

「知らないの? なにも」

「……何を?」

 懸命につり上げた自分の目尻が、下がっていくのが分かった。それに応じるように、揚羽の唇の端が持ち上がった。

「私は、あなたの、心臓なの」

 楓はゆっくりと、歌うように言った。

「沖津楓の心臓なの。私は」

「は……?」

 唐突な言葉。反芻する楓の唇は引きつって、揚羽はそれをやはり冷たい目で見ていた。

「私は、あんたよ」

 一歩、揚羽は楓に近づいた。胸元をとんと押す。よろめいた体を、楓は必死に立て直した。

「クローンなの。あんたをもとに作られたクローン。あんたを生かせるために、ね」

「……」

 絶句する楓を目の前に、揚羽は嘲笑いを浮かべる。何も知らない楓を蔑むように、何も知らない楓を羨むように。

「この心臓を、あんたに移植するために、私は作られたの」

 自分の胸に手を置いて。揚羽の手は左胸にあった。その奥にある臓器を指し示す手を、楓はただ凝視した。

「でも、私は死なない」

 揚羽ははっきりと言った。彼女の言葉を、吹き抜けた冷たい風が奪っていった。

「あんたのために、死んだりしない。あんたを喜ばせたりしない。私は生きて、あんたを不幸にするから」

「不幸……?」

 楓の喘ぐような声に、揚羽はまたいやな笑みを浮かべた。彼女の目の色にぞっとする。彼女のまとう、刺のある空気。それが楓をまっすぐに刺してくる。

「真川博士はどこ?」

 冷たい声。楓は震えた。それは、街路樹を揺らした冷たい風のせいではない。それよりも遥かに温度の低い、揚羽の口調のせいだ。

「真川博士に会わせなさい。真川は、どこ」

「……っ!」

 揚羽の手が伸びた。楓の胸倉をつかむ。あ、と楓が思う間もなく、揚羽の顔が目の前に迫った。鏡に映したような、それでいて楓には決して出来ない色を宿した揚羽が、楓を睨みつける。

「隠す気? なら、私は……!」

「や、めてよっ!」

 手を伸ばし、揚羽の手を大きくはたく。とっさのことに揚羽はよろめき、その隙に楓は逃げ出した。転びかけて地面に手を突いた。近づいてくる揚羽を牽制するために、大声をあげた。

「お父さんのことは、知らないって言ってるでしょう!? それに何よ、一方的に……、わけ分かんない! なによ、クローンとか、って……」

 叫びながら、エントランスを見やる。ここからあそこまでは約五メートル。自分の体の具合を考えて、あそこにたどり着くまでにどのくらいかかるか。ロックを解除して中に入って、ドアを閉じるまで。揚羽に追いつかれる前にそうするにはどのくらいの時間と機敏さが必要なのか、楓は必死に考えた。

「私は、知らないっ!」

 揚羽は目を見開いていた。思わず身構えた楓は、しかし揚羽の目が自分の後ろを見ていることに気がついた。楓に注がれていた揚羽の目は、これ以上はないほどに大きく見開かれる。

「……っ!」

 揚羽は勢いよく、楓に背を向けた。風のように駆けていった揚羽を、楓は呆然と見送った。

 振り返る。楓の目に入ったのは、三人の壮年の男たちだった。こちらに向かって歩いてくる。男たちは楓を見、驚いたように小さくどよめいた。

 よろめきながら立ち上がる楓を、三人の男は冷ややかに見ていた。楓の足取りがふらついているのが分からないはずはないなのに、手を貸すでもなくいたわるでもない。そうして欲しいわけではなかったが、そのあまりにも冷淡な態度、そして楓に注いでくる男たちの視線の色に、楓は胸にじわりと不快感が広がるのを知った。

「真川博士は、いるか」

「……」

 横柄な物言い。返事があって当然と決めてかかっているその口調に、楓はむっと眉根を寄せた。

「いるのか、いないのか」

「返事をしなさい」

「知りません」

 楓は言った。自分でも驚くほどに、低い声だった。

「私、今帰ってきたばかりですから」

「では、上がらせてもらう」

 一番若い男は楓を押しのけんばかりに、マンションの方へと近寄った。

「あなたたち、誰?」

 楓が強い口調でそう言うと、一番年嵩の男がむっと眉根を寄せた。

「父と、どういうお知り合いですか」

「沖津楓だな」

「……」

 自分の表情が、歪むのが分かった。男は、まるで実験動物でも見るような顔で楓を見ている。その視線にますます不快感は濃くなった。

「沖津博士の子か。あの男に似て、生意気なことだ」

「……父がいないのに、知らないひとにあがってもらうわけにはいきませんから」

 楓は言って、踵を返す。

「おいっ!」

「沖津楓っ!」

 その声も、まるでラットやモルモットでも呼ぶようだ。楓は小走りにキーロックの前に立つ。指を押し当てて解除する。

「真川博士に会わせなさい」

「君に、拒否する権利などない」

 扉は一度で開いた。開いた扉に身を滑り込ませ、力任せに閉めた。揚羽を目の前にしたシミュレーションよりもいくぶん早く、楓はガラス戸の中に入ることに成功した。ガラス越しに男たちの怒りの表情が見える。

「沖津楓っ!」

 楓は駆けた。苦しくなる前に足を止めてエレベーターの前に立ち、ボタンを押す。男たちはまだこちらを見ていた。開けろ、と言うようなその姿を振り切って、エレベーターに乗り込んだ。

 家の前に立ち、楓は息をついて呼吸を調えた。鍵を開け、家に入る。

 楓の呼気が再び乱れたのは、目の前に広がっている光景に驚いたからだった。

「……な……」

 なぎ倒されたコート掛け。コードを長く引っかけたまま転がった電話。ドアが開け放たれたままの書斎には、うずたかくまき散らされた書類が見えた。

「な、に……、これ……」

 先ほどの男たちの仕業かと考えた。しかしあれほど執拗に、家に入れろと言ってきたのだ。もしこれが彼らの仕業なら、あのようなことを言う必要はない。

「どうして……?」

 指紋判別式のキーロックは、住人でなければ決して開かない。部外者がそっと滑り込んでくることも出来ないセキュリティがこのマンションの自慢なのだ。楓は思わず座り込んだ。

「なによ、これ……」

 ひとの気配はない。侵入者はすでに去ったのだろうか。それとも、どこかで息を殺しているのだろうか。その想像に、ぞっとする。

「カエデ、カエデ」

 近寄ってきたのは、ペットロボットだ。真川の声で楓を迎えるその存在に、いささかほっとした。頭を撫でてやると、嬉しそうにくるくると回った。

「お父さん……」

 つぶやいた。楓を襲ったのはその呼び名から感じる安堵と、その不在に抱く不安だった。

「大丈夫、なの……?」

 胸を押さえて、息を殺して。そうやってずっと、座っていた。



 大きな音を立てて、受話器を置いた。

「どうして……!」

 楓は唇を噛む。顔を上げて壁の時計を見た。その真ん中にはめ込まれたデジタルカレンダーの日付を、指折り数える。大きくため息をついた。

 小さなモーター音に振り返ると、真川の声で話すロボットが部屋の真ん中を横切っていた。楓の視線に気づいたのか、こちらを向いて近寄ってきた。いらだった楓を慰めるかのようだ。

「なんで、つながらないのよ!」

 ヒステリックな声で楓は叫んだ。ロボットが驚いたように止まった。ぴぴ、と目が青く光った。

「ダイジョウブ、ダイジョウブ」

 ロボットは、真川の声でそう言った。

「……」

 心の落ち着いているときなら、慣れた父の声は楓を安心させてくれるもの。愛玩用のロボットのちょこまかとした動きもかわいらしく感じられる。しかし今は、苛立っている楓の心を逆撫でするだけだ。

「もう、じっとしてて!」

 楓が叫ぶと、ロボットは止まった。楓を見つめているような気がしたのは気のせいだろうか。自分の意思などがあるはずのないロボットの慰めるような視線に、楓は苛々と髪をかき回し、頷いた。

「……ごめん」

「ダイジョウブ、ダイジョウブ」

 楓は息をついた。そうやって自分を落ち着かせて、そして書斎に入る。荒らされた書類の山をかき回し、机の上にもとからあった書類にも目を通し、そして引き出しを開ける。そこに小さな紙片を見つけ出した。

「……うん」

 そこに書いてあったのは、真川の勤める研究所の住所だ。楓は自分の部屋に駆け込む。本棚から取り出した地図を調べる。バッグを取り上げ、玄関へと向かう。コートを取って、紙片をポケットに滑り込ませた。

「キヲツケテ、カエデ」

「うん。お父さん、一緒に帰ってくるね」

「カエデ、キヲツケテ。カエデ」

 ロボットに微笑んで手を振った。

 バスと電車を乗り継いで、一時間強。住所の示す先にあったのは、森だった。むせ返るほどに緑の濃く茂った森の中には、目を凝らすと建物の一部が見えた。建物も緑に溶け込んだ自然物であるかのように感じられる、不思議な設計の建物だった。

「ここ……?」

 あたりは薄暗く、行き交う人影もない。楓は不安に森を見上げ、そして奥を見やる。

 門があった。静かなモーター音をあげあげる監視カメラがこちらを見ていた。近づくと、楓の動きに合わせてカメラも動いた。

 門が開いた。驚いてカメラを見上げるが、カメラはもう楓のことなど忘れてしまったかのように、またあたりを映している。楓は小さく首をすくめて門の中に入った。背後でがちゃん、と大きな音がして驚いた。

 楓は建物の方へと進んだ。足もとには一面に緑の芝生が敷き詰められていて、こういう状況でさえなかったら見とれてしまうような緑の庭だった。

 芝生を抜け、石を敷き詰めた道を歩く。とても、ここが研究所であるなどとは思えない。研究所、という言葉から、もっと冷たい、無機質な場所を想像していたのに。

「揚羽!」

 目の前には人がいた。建物の中から慌てて出てきた白衣を着た女性がこちらを睨んでいる。彼女はこちらにつかつかと歩いてくる。髪をざっくりと短く刈った、肌の白い女性だ。格好からして、ここの研究員と思われた。彼女の細い目は鋭く楓を刺し、思わず肩を引いた拍子に突然怒鳴りつけられた。

「なにしてるの!」

 彼女は叫んだ。伸ばした手でぐいと楓の腕をつかんだ。引き寄せられて驚く楓の目の前に、彼女の目が迫った。

「どこ行ってたの! つまらないことして手間をかけさせないで!」

「え、え……?」

「あんたがいなくなって、どんなに大騒ぎになったか。いったい、どこから抜け出したわけ?」

 研究員は、楓を引き寄せる。髪をつかんで引っ張り、楓に悲鳴を上げさせた。

「髪、どうしたの!?」

「え、……あ、の……」

「なに勝手にいじってるのよ! あなたの体は、あなたのものじゃないって何度言わせれば分かるの。そんなだからどんどん研究が遅れるんじゃないの」

 ぐい、と引っ張られて悲鳴を上げた。そんな楓を鬱陶しそうに睨み、髪を放す。

「まったく、真川博士が甘やかすからろくなことにならないのよ」

「え?」

 今度の楓の声は、戸惑いではなかった。耳にした名前にはっきりと反応しての言葉だった。しかし研究員には、楓の表情などを見てはいない。

「早く!」

 叱り飛ばされて、楓は思わず背筋を正した。逆らおうにも逃げようにも、ましてや真実を告げようとしても、研究員はその余裕さえも与えてくれない。

 ぐいぐいと引きずられる。逆らうすべもないままに歩いた。

「手間かけて、私たちの仕事を増やさないで」

研究員は迷うこともなく大きな白い扉の中に入り、楓は建物の中に引きずり込まれる。

「……あ」

 静かだった。薄暗い照明がどこまでも続く廊下を照らしている。白く塗られた壁とリノリウムの床。銀色の扉がいくつも並ぶ、病院のような内装だった。楓は身震いする。病院は物心ついたときから縁の切れない場所ではあるが、だからといって好きか、といえばまったく別の話だった。無機質な、しん、と静まり返った廊下に楓の靴がかんかんと音を立て、それにさえ怒鳴られた。

 小さな部屋に連れて行かれた。窓のない、狭い部屋だ。とても広いとは言えない楓の部屋よりもなお狭い。

「おとなしくここにいるのよ」

「あ、の……」

 楓が恐る恐る声をあげると、研究員は鋭い視線を向けてきた。

「自分の部屋に帰りたいとか、そういう話は聞かないわよ」

 楓を見て、ふんと鼻を鳴らす。彼女の表情は、明らかに侮蔑だった。楓に話しかけられることさえも厭うような顔つきだ。まるで実験動物でも見るかのような。

「まったく、真川博士がいらないことをするから。調子に乗らせて、どうしようっていうの」

 最後の言葉は聞こえなかった。楓が聞き返す前に、重い扉が、ばたん、と音を立てて閉じられた。

「……なんで、こんなの……」

 楓は手探りで、暗い室内の壁を伝う。隙間なく閉じられたドアに近づいた。全体に手を滑らせても、なんの引っ掛かりもない。ドアだというのに、ノブのひとつもないのだ。

「なに、これ……?」

 先ほどの研究員は、入るとき確かに電子錠を開けた。しかし内側にはなにもないということは、この部屋は普通の部屋ではない。中に入った者を閉じ込めるためのものだ。

「……」

 ぞくり、と身が震えた。それはこの薄暗さも手伝って、楓をどこまでも不安にする。閉所恐怖症や暗所恐怖症の性質はなかったはずだが、しかしこのような場所、明らかに閉じ込められているという状況では、心細さから逃れられなかった。

「……出して」

 つぶやいた。自分の声がうつろに響く。

「出して。ここから、出して……」

 耳に届く自分の声は、痛々しかった。その声音にぞっとした。楓自身の声でありながら、そこに滲む色は恐怖をあおり立てる。閉じ込められているという恐怖が、脅えとともに全身にしみ込んでいく。

「出して、出して……!」

 ドアを叩いた。しかし分厚くて重そうなそのドアは、楓の拳の立てる音など吸い取ってしまう。鈍い音が響きはするが、その程度の音、例え目の前を歩いている者があったとしてもその耳に届きはしないだろう。

「出して、ここ……出してっ!」

 渦巻く恐怖の中で、思った。あの研究員は、楓のことを「揚羽」と呼んだ。自分は揚羽と間違えられている。ということは、揚羽はこんな目にあっているのだ。しかし、よもやこれが日常などということはあるまい。あるはずがない。あって欲しくない。楓は必死にそう考えた。

「い、や……」

 自分はどうなるのか。楓は胸を押さえた。必死に息を吐く。荒い呼吸と激しく揺れ始める心臓。なだめるように何度も胸をさすったが、しかし楓の感情の乱れとともに心臓は苦しく暴れ始める。呼吸が荒くなって、体中から力が抜ける。指の先が冷たくなる。楓は激しく息を繰り返した。

「……あ!」

 ドアが開いた。顔をあげる。そこにいたのは男性だった。やはり白衣を着て、フレームなしのメガネの向こうから楓を見ている。

「行くぞ」

「……え?」

 今度は腕を取られることもない。楓は促されるままにふらふらと立ち上がる。そして男に従った。

「早くしろ」

 先ほどの女性の研究員は、ヒステリックに楓を怒鳴りつけた。楓の一挙一動に八つ当たりのような怒鳴り声を向けてきた。しかし目の前の男性の研究員は、楓を振り返ることもしない。速すぎるスピードで、ただ先を行く。

「ちょ、ま……」

 その速度は今の楓には辛い。今はもう、普段の生活に大きな影響はないものの、いったん調子を崩すともとの体調に戻るのには時間がかかる。呼気も荒いまま楓は胸を押さえ、待とうとする様子など寸分も見せない男を必死に追った。

「あっ!」

 足がもつれて、床に倒れた。転んだ音を聞いたはずなのに、研究員はちらりと楓を振り返っただけだった。楓が必死に起きようとしているさまも、息を荒くしているさまも、見てはいるはずなのに、彼の目にそれはなんでもないことであるようだった。

「早く」

 抑揚のない声。ロボットのようだと思った。否、家にいるペットロボットの方がまだ愛想がある。先ほどの女性の研究員の楓を見る目が実験動物を前にしたものであるのなら、今目の前にいる男性研究員の目は、無機物を見ている。彼の目には楓が自分の意志で動くことさえ不思議なのではないだろうか。

「さっさとしろ」

 研究員は踵を返して、前を歩く。楓は胸を押さえたまま荒い息をこらえ、そっと傍らを伺った。

 人影はない。目の前の廊下は、左に分岐している。そちらに何があるのかは分からないが、楓を待つ様子もなくさっさと歩いていく研究員の目を盗むことが出来れば、そちらに駆け込めるのではないか。楓はとっさにそう考えた。

 右も左も分からないこの建物の中、その先に何があるのか、どう逃げればいいのか、そしてそうした結果どうなってしまうのか。予測などしようもなかったが、しかし今、この瞬間。楓は恐怖から逃れたい衝動に、意識のすべてが集中するのを感じた。

 今の体の状態。自分が走れる速度。廊下の分岐にたどり着くまでの時間。足音をひそめさえすれば、少しくらいは逃げられるかも知れない。運よく隠れられる場所があれば、体が落ち着くまでそこにいればいい。そこまで体が持てば、の話だが。

「……」

 楓はそっと、息を飲んだ。苦しい呼吸と痛む胸を必死になだめる。研究員の背中を凝視する。目を白衣の背中に縫い止めたまま、足音を殺す。

 彼の視界から廊下の分岐が消えた瞬間、楓はさっと身を翻した。廊下の影に身を隠す。そのままゆっくり、後ずさりをする。そしてある程度の距離を取ったところで、くるりと方向を変えた。

 誰もいない廊下を、速足で行く。足音で注意を引かないように。もっとも、速足といっても今の楓には普通に歩く速度が精いっぱいだ。しかも足音を気にしたまま。

「揚羽!?」

 声が聞こえた。それに驚いた拍子に、靴音が響いてしまった。

「……あ!」

「揚羽、揚羽っ!」

 追いかけてくる声が響く。楓は慌てて靴を脱ぐ。その場に捨てて、駆け出した。すぐに心拍数が上がってくる。胸が痛む。体が痺れる。こうなることは分かっていても、しかし走らないわけにはいかなかった。もう一度、あんな狭くて暗い部屋に閉じ込められるのはごめんだ。

 揚羽はいつも、あのようなところに閉じ込められてるのだろうか。自分の部屋、と言っていたから、あそこに常にいるわけではないのかも知れない。然りとて無縁の場所でもないのだろう。

「揚羽!」

 廊下の角を、出来るだけ素早く曲がった。楓がどちらに曲がったか研究員が見届ける前に、彼を撒いたはずだ。足音が遠くなったような気がして、それにほっと楓は胸を撫で下ろす。それと同時に、くらり、と大きなめまいが襲ってきた。

「……あ、ぁ……」

 心臓も、緊張の糸が解けてしまったのだろうか。体が急に力をなくす。今まで張りつめていた神経が切れてしまったかのようだ。

「……っ、……」

 楓はその場に崩れ落ちる。焦れば焦るほど、体は動かない。もがくことも出来ず、冷たい床の温度を頬に直接感じた。

「あ、っ……」

 ダメだ。必死に自分の体を立て直そうとした。しかし、荒い息を抑えることは出来ない。胸を突き破りそうな、心臓の鼓動を治めることも出来ない。楓はただただ胸に手を置いて、ぎゅっと服をつかんだ。苦痛を少しでも和らげようと懸命になった。

 声が聞こえたような気がした。研究員が楓の居場所に気づいたのだろうか。しかし楓にはもう、なす術はない。

「あ……」

 周りが真っ暗になった。見つかれば、連れ戻される。狭くて暗い部屋に閉じ込められる。開けられないドアに出入り口を封じられて、自由を拘束される。いつ出られるかも分からない恐怖にさいなまれ、出れば出たで人間を見るものではない視線を注がれる。恐ろしさしか感じられない扱いをされて、追い立てられて。

 つかまってはいけない。あんな思いは二度としたくない。そうは思いながらも、楓の体はその主の言うことを聞こうとはしない。

「ダ、メ……」

 目の前が見えなくなった。



 視界がぼやける。何度もまばたきをした。

 楓の見たのは白い天井だった。同時に飛び込んできた明るい光に、目を何度もしばたたかせる。

「ここは……!」

 あたりを見回す。ここはどこだ。あの牢獄のような部屋か。連れていかれる途中だった場所なのか。それとも、もっと恐ろしいところか。

 しかしこの部屋には、楓を脅えさせる無機質な印象がない。白いカーテンがふわりと揺れる窓際には、小さな観葉植物の鉢が置いてある。

「……あ」

 楓は胸に手を置いた。痛みは治まっている。苦しさもずいぶん引いた。ドアノブを回す音がして、はっと顔を上げた。

「気がついたね。大丈夫?」

 入ってきたのは白衣の男性だった。背の高いすらりとした体つきを見ると楓より十歳くらいの年嵩だろうかとは思われるが、その表情は柔和で人懐こい印象を受ける。彼は楓を見ると、にっこりと微笑みながら近寄ってきた。

「気分は? 目が回ったりしない?」

 楓を覗き込んで、彼は言った。楓は首を左右に振った。そうするだけの体力が戻っていることにほっとする。

「大丈夫です……」

 よかった、と微笑みかけてくる彼をじっと見つめる。しかしそんな彼のまとっている白衣は、にわかに楓を緊張させた。

「私……!」

 安堵している場合ではない。この男も、優しい表情はしているがこの研究所の一員に違いない。それでは楓は、この男から逃げなくてはいけない。楓の体には緊張が走り、それとともにまた左胸がずきりと痛んだ。

「……っ!」

「心配しなくていいですよ」

 楓の表情に、白衣の男は苦笑した。そして安心させるように柔らかく微笑みながら、言葉を続ける。

「ここは僕の部屋ですから。誰も来ない」

「あなたの……?」

 男はにっこりと頷いた。大きく見開いたままの楓の目の前、彼の頬の周りの黒い髪がふわりと揺れた。

「僕は、九条っていいます。九条和臣。ここの、工学研究部の研究員です」

「工学……?」

 楓は目をしばたいた。落ち着きを取り戻したことに安心したのか、九条は微笑みを濃くする。

「どうしてあんなところにいたんですか? この研究所のひとじゃないですよね」

「どうして分かるんですか?」

 九条は笑って、自分の胸を指差した。

「このIDカードがないと、中には入れないから」

「……あ」

 彼の指し示したその左胸を見ると、小さなプレートがつけられていた。『九条和臣』。名前とともに細かい数字とバーコードが並んでいる。九条の微笑んだ写真もともにあった。

「廊下で倒れてたから、とりあえず連れてきたんですけど。よかったですか?」

「あ……、ありがとう、ございます」

 楓は頭を下げる。九条はやはり笑みを見せる。

「あなたは、どこの部のひとなんですか?」

 彼はひょいと首をかしげ、そう尋ねてきた。そんな仕草は彼を若く見せる。すでに成人であるはずなのに、同じ年くらいに見える彼の親しみやすさに、楓の口は動いた。

「私は……」

 口ごもる。迂闊に話してはいけないと思った。何を伏せておき何を話していいものか、楓には判別はつかなかったが、ただ口の赴くままに話すことは危険だと感じた。

「……え、と」

「お名前は?」

 それくらいは言っておくべきだろう。助けてくれたひとなのだから。

「……沖津」

 そう言ったとき、九条の表情が変わった。

「沖津楓です」

「沖津……?」

 九条の表情の変化は楓を驚かせた。そしてとっさに身構えた。身構えたからといって荒い息のまだ治まらないこの体のまま、どうにかなるというわけではないのだが。そうと分かってはいても楓は、次にやって来るかも知れない窮地にそなえてせめてもと身を引き締めた。

「沖津、楓、さんって……」

 そんな楓の警戒Fを、九条は気にとめてはいないようだった。それよりも、彼自身の驚きに戸惑っているように見える。

「真川博士のところの?」

「……え」

 今度は楓が驚く番だった。大きく見開いた目に、九条の驚いた顔が映る。

「父を知ってるんですか?」

 楓の問いに、九条は大きく何度もうなずいた。顔の周りの髪が乱れるくらいに、何回も。

「知ってるもなにも……親しくしていただいています」

「そうなんですか」

 楓は九条を凝視した。真川の仕事の内容などはおろか、仕事場の同僚や友人の話とて聞いたことはない。好奇心いっぱいに九条を見ると、彼は照れたように肩をすくめた。

「こないだは、ペットロボット作るの手伝わせてもらいました」

 九条は笑う。楓は、あ、と声をあげた。

「あれ、あなたが?」

 九条は笑顔のままうなずいた。

「真川博士、ああいうの好きなんですよ。高校生の娘さんにプレゼントするっていうから、ちょっとかわいすぎないか、って言ったんですけど」

「しかも、父の声でしょ」

 楓は笑って言った。九条もにこにこしている。それにつられて、楓の体の力は抜けていく。

「せめてお嬢さんの好きなアイドルとかの声にしてあげたら、って言ったのに」

「私が寂しくないように、なんですって」

 九条は声をあげて笑った。そうすると、白衣などを着ているのがそぐわないほどに若く見えた。Tシャツやジーンズのほうがよほど似合うように感じた。

「沖津博士のことも知ってますよ。直接お目にかかったことは、さすがにないですけど」

 九条はにこにこしたまま言った。

「真川博士から、お話を聞いてますので。真川博士が、沖津博士の娘さんを引き取ってるって」

「九条さん!」

 彼の言葉に、笑っている状況ではないことを思い出した。背筋を正す。突然のすがるような声に、九条はすっと眉をひそめる。

「父の……父の居場所を、知りませんか?」

「……え」

 真川博士のことですか。九条の問いに、楓は頭を何度も縦に振った。

「帰ってこないんです。電話してもつながらないし、ここに連絡しても取り次いでもらえないし。それで私、心配で……」

「だから、ここに?」

 楓はまた頷いた。九条は、先ほどまでの笑顔を思い出せなくなるような表情をする。

「迷子になったとか? そういうことですか」

「……ええ」

 楓は言葉を濁らせた。なぜ倒れていたのか、どうしてあのような場所にいたのか。彼に話すべきだろうか。追及されればともかく、揚羽のことも軽々しく口に出すべきではないと思った。九条はうなずき、そして言う。

「僕が調べておきます」

「でも……」

「真川博士のことだったら、僕だって無関係だなんて言えないし」

「そうかも知れませんけど、……でも」

 楓は素直には頷けない。九条はそんな楓を安心させるように、先ほどまでの笑みに表情を戻す。

「真川博士と連絡を取ってみます。会えたら、娘さんが心配してるって伝えておきます」

 そして九条は、じっと楓を見た。

「沖津さんの体の調子も悪いみたいだから……。誰かに送らせます」

「いえ!」

 楓は大きく首を左右に振った。髪を振り乱す楓に九条は驚いたようだ。

「いいんです、ひとりで帰れます」

「……でも」

「本当にいいんです、大丈夫です!」

 九条は、ともすれば信頼できる相手なのかも知れない。しかし彼が送らせると言った誰かは、そうでないかも知れない。そんな危険は冒せない。楓は必死に言い募った。眉根を寄せて楓を見ていた九条は、やがて仕方ない、というようにうなずいた。

「分かりました。……気をつけてくださいね」

 九条は胸元から手帳を取り出した。その一枚を破り、何事かを書きつける。

「これ、僕のアドレスと携帯。何かあったら連絡ください。僕のほうも、この番号から連絡しますから」

「……はい」

 差し出された紙を、楓は素直に受け取った。顔を上げると、九条がやはり心配そうな顔で見ている。

「ありがとう、ございます」

「いいんです」

 九条はにこりと微笑んで、頷いた。

「……ありがとう……」

「お礼を言うのはこちらです」

 含羞むような仕草で、肩をすくめて九条は言った。

「こんなところで沖津博士と真川博士のお嬢さんにお目にかかれるなんて思わなかったです。光栄です」

 ベッドから降りるのを、九条が手を貸して助けてくれた。楓は顔を上げる。自分よりも頭ひとつ以上大きい九条の顔を見上げながら、小さな声で言った。

「よろしく、お願いします」

「もちろんです」

 楓を安心させるように、九条は何度も頷いた。その笑みは、楓の張りつめた心に温かく届く。

「気をつけて下さい、本当に」

 九条は研究所を出て、最寄りのバス停にまで送ってくれた。楓がバスに乗り込むまで、見送ってくれた。バスに乗る楓に手を振る姿は、やはり同じくらいの年ごろに見えた。

 楓が小さく手を振り返すと、九条は嬉しそうに笑った。それを合図とするかのように、バスは発車した。



 電車に乗り換えたあたりで、楓の心臓はようやっと平静を取り戻した。薬を飲む必要はあるが、とりあえずは治まった体の異変に、楓はほっと安堵した。

 そっと左胸に触れた。胸ポケットがかさりと音を立てる。九条の連絡先を書いた紙の音だ。

「……」

 大きな吐息をつく。胸元をぎゅっと押さえて、離した。また息を吐く。そして見えるはずもない研究所の方を振り返った。

 行きに要した時間よりも帰りの方が早かったのは、道を探して迷う時間がなかったからか。家のドアを開けると、電子音といつもの声が聞こえてきた。

「オカエリ、カエデ。オカエリ」

「ただいま」

 ペットロボットに微笑みかける。楓の感情などが伝わるのか。しかし真川は、足音や声の調子、ロボットに触れたときの感覚で相手の人間の機嫌を測ることが出来ると言っていた。それならば今の楓の心も、この小さなロボットには伝わっているのだろうか。

「……」

 これを作ったのは、九条だという。まとわりついてくるロボットの頭を軽く撫でて、楓はキッチンに向かう。薬を飲んで落ち着いた体をリビングのソファに預け、深い呼吸を何度か繰り返した。

 ささやかな休息を破ったのは、部屋に響く電話の音だった。

「誰……」

 どきりとした。治まった楓の鼓動は、再び激しくなる。立ち上がってディスプレイを見ても、電話の相手を教えてはくれない。出ないほうがいいのかも知れない。そうは思ったが、結局相手を知りたい衝動に駆られるままに、受話器を取った。

『楓』

 真川の声だ。ロボットに入力された声ではない。

「お父さんっ!」

 その場にへたり込みそうになる体を慌てて支え、楓は受話器を持ち直して声をあげた。

「お父さん、今どこにいるの!?」

『今は、帰れないんだ』

 誰かに聞かれるのを警戒しているような、低い声。それを聞き取ろうと、楓は邪魔になる自分の呼気を懸命に押さえた

『事情があって。でも、お父さんは大丈夫だから』

「大丈夫って、そんな……!」

『楓も、気をつけて過ごしてくれ』

 あたりを伺うように、真川はますます声を潜める。

『自宅に研究所の人間が行くことは、もうないと思うんだが』

「え?」

 やはり、あの男たちは真川の研究所の関係者だったのか。なぜ同じ研究所にいるはずの真川を追いかけるのだろうか。しかも、真川を犯罪者のように扱って。

『無理をしないで、ちゃんとに学校も病院にも行くんだよ』

「お父さん!」

『じゃ』

 楓の呼びかけには応えないままに、電話はあっさりと切れた。

「お父さん、お父さん!?」

 返事はない。何度呼びかけても、電話は無機質な電子音を聞かせるばかり。楓は肩を落とし、受話器を置いた。

 楓は振り返る。開け放たれたままの書斎に向かった。ロボットが足もとについてくる。楓は机の前に立ち、乱雑に積み上げられたままの書類を丁寧にそろえ始めた。どう種類分けしていいのかなどは分かるはずもないが、そうしていると落ち着くような気がしたから、黙々と続けた。

「……あ」

 あるものが目に留まった。以前弾いた、『CAEDE』と題された楽譜だ。そして書類の束の中にはもうひとつ、手書きの譜面があった。楓はそれを取り上げる。

 『CAEDE』とは違う旋律を作る音譜が並ぶそれには、冒頭にやはり手書きの文字があった。

 『AGEHA』。

「……あげは?」

 揚羽。楓は大きく目を見開いた。これは。しかし問う相手もここにはなく、楓はただただ戸惑うばかりだ。

 リビングに視線をやり、呼ばれるようにピアノに向かう。楽譜立てに、『AGEHA』を置いた。鍵盤に指を滑らせる。

 流れる音。それは『CAEDE』とは違った音律を生み出した。どこか悲しいような。切なくなるような。

「これ、は……?」

 流れる音とともに、首をかしげる。足もとにロボットが寄ってきた。手を伸ばして頭を撫でる。

「カエデ、カエデ」

 戯けた真川の声に笑う。そして楓は、ふたつの譜面にじっと目を注いだ。



 毎日履いているせいでくたくたになった革靴で、地面を踏む。

 雪が降るような地域ではないが、寒い日にはこのように霜が降り、踏むとぱりぱりと音がする。

 いつもの通学路。その日常に安堵する。自分のよく知っている時間がここにはあると、楓は心底安心を覚えた。

「あ、おはよ」

 前を行くのは深雪だ。一緒に歩いている少女たちも楓と仲のいいメンバーだ。楓は彼女たちに駆け寄って挨拶をし、そしていつもとは違うみんなの視線に気がついた。

「おはよ……」

 深雪の挨拶は、どこか戸惑っているように聞こえた。いつもの明るい笑顔なのに、どこか無理に作ったものであるようにも見えた。

「……どうしたの?」

「別に、なんでも」

 いつもの通学路、いつもの学校。それがいつの間にか、楓の知らないものになっている。楓はいやな感覚に身を震わせた。

 楓の予感は、教室に入ったのち本物になった。担任の教師が楓を呼んでいるというのだ。職員室ではなく生徒指導室に呼び出されたことが、楓をますます不安にさせた。

「沖津さん」

 楓の担任は、父と同じ年ごろの女性だった。指導室に入ってきた楓を一瞥する。普段からあまり親しみを感じるタイプではないとはいえ、今日の口調には明らかな侮蔑を感じ楓は眉根を寄せた。あの研究員たちの視線を思い出す。九条だけは違ったことも、また思い出した。

「そこ、座りなさい」

 並べてふたつ置いてある机を指さされた。楓は頷き、言われるがままに腰を下ろす。担任教師はじっと楓を見て、そしてため息をついた。

「沖津さんが、あんなことするようなひとだとは思っていなかったけれど」

「……は?」

 間の抜けた楓の返事は、担任教師の気に入らなかったようだった。彼女はむっと眉をひそめ、そして突きつけるように言った。

「あなたが男のひとと夜の街をうろつくようなひとだとはね」

「……はぁ?」

 ますます頓狂な声をあげる楓は、担任教師の厳しい視線を浴びた。

「ちゃんと、報告があったのよ」

「なんのですか?」

「だから!」

 担任は手をテーブルに叩きつけた。大きな音にひるんだ楓を攻め立てるように彼女は言った。

「とぼけないで。今朝、生徒の保護者の方から連絡がありました。昨日の夜遅く、沖津楓さんが繁華街に中年の男のひとと歩いていたって」

「……はぁ」

 そうは言われても、心当たりのないものはない。楓はただ首をひねる。

「あなたの同級生の親御さんがご覧になったらしいんですけどね。若い女の子がいるな、と思って見たら、あなただったって」

 楓はまばたきを繰り返した。唐突な話に頭がついていかない。ただただ戸惑う楓を担任教師は睨む。

「あなたのところはご両親がいなくて、お父さんのお知り合いの方が保護者になっているんでしょう?」

 そう言うと、わざとらしいまでの大きなため息をついた。

「やっぱり、親がいないとこうなるのかしらね。こんなことをする子には見えなかったんだけど」

 自分の境遇を、そして真川を侮蔑されたこと。その怒りが楓の中に広がる前に、彼女の中に浮かんだ、ひとつの名前。

 揚羽。

「保護者の方にも来ていただいて、一度話をしなくてはいけませんね」

 揚羽だ。そう思った。立ち上がる。椅子ががたんと音を立てて、担任教師が驚いた顔をする。

「それ、どこですか!?」

「え?」

「教えて下さい、その、私がいたっていうのは、どこ?」

「え、と……」

 担任教師は戸惑いながら、電車で三駅の繁華街の名を上げた。

「ありがとうございます!」

 楓はそのまま床を蹴る。

「沖津さん?」

 揚羽だ。なぜそのようなことをしているのかは知らないが、自分と間違えられるほどにそっくりな存在といえば揚羽しか考えられない。なぜ彼女がそのようなところにいるのか。なぜそのようなことを。なんのために。

「沖津さんっ!」

 追いかける声を聞いてはいなかった。勢いよく駆け出してしまい、担任教師の追いかける声はすぐに遠くなった。玄関ホールまで来たところで、息が切れて立ち止まる。もうすぐ授業が始まる校舎、玄関は静まり返って人影もない。

「……っ!」

 呼吸を落ち着かせてから、靴箱に走る。靴を取り出す。履く手間さえももどかしいまま、楓は校庭へと飛び出した。



 駆け出したまではよかったが、楓は途方に暮れていた。ぼんやりと歩いてはすれ違うひととぶつかって、訝しげな顔をされた。

 場所を聞いたはいいものの、詳しいことが分かったわけではない。歩けば揚羽に会えるというわけでもない。おまけに楓のような高校生がこんな時間にうろついているせいか、しきりに奇異の目を向けられ身の置き場に困った。

 楓自身、揚羽を探してどうしようという心積もりがあったわけではない。揚羽に会ってどうしたいのか。はっきりとさえしていない。ただ彼女の目的が、彼女の存在の意味が知りたいだけだというのに。

「学校……」

 頭が冷えると、勢いに任せたまま飛び出して来た学校のことを思い出した。鞄も何もかも置いて来てしまった。定期券と財布だけはポケットに入っていたからいいものの、そうでなければ勢いよく飛び出したこの足で、のこのこ授業中の学校に戻る羽目になるところだった。

「……あ!」

 学校のことを思い出すと同時に、担任教師の言葉が蘇った。今さらながらにそれを反芻し、腹を立てた。

「……帰ろ」

 あたりを見回す。自分とそっくりの少女の姿どころか、同じ年ごろの者の姿さえまばらだ。踵を返す楓の、胸を押さえた手に触れたものがあった。小さな紙片。

「……あ」

 九条和臣。そう書かれた紙が目に入って、楓ははっと息を飲んだ。そして何度もまばたきした。

「……」

 紙片を握りしめたまま家に戻る楓の頭には、あるひとつのことしかなかった。慌ててドアを開け、靴を脱ぐ。電話を取り上げ、番号を押す。

 呼び出し音を聞きながら時計を見れば、時間はまだ昼過ぎだ。勤め人なのであろう九条が果たして個人的な電話に出てくれるだろうか。

『九条です』

「……あ、私……」

『はい?』

 訝しげな声に緊張した。忘れられていたらどうしよう。恐る恐る、楓は口を開いた。忘れられていたときは、出会ったときの状況を詳しく説明して思い出させるまでだ。

「沖津です。沖津、楓」

『ああ!』

 九条の弾んだ声が聞こえてきた。その声の明るさに、楓はほっとする。

『こんにちは、電話してきてくれたんですね』

「はい」

 その声には、安心させられる。楓はほっと息をついた。

「あの、ですね……」

 そう言って、そして口ごもってしまった。

「えと……」

 思いつくままに勢いで電話をかけたはいいが、何と言えばいいのか。楓は困惑した。九条がどこまで知っているのかなど分からない。揚羽の行方を知りませんか。そのようなことを口にしてもいいものか。揚羽の名前すらも出していいものなのか、楓は迷った。

『沖津さん、僕、話したいことがあったんですよ』

「え?」

 そんな楓の困惑を知ってか知らずか、先に口火を切ったのは九条の方だった。

『あれから、僕なりにいろいろ調べましてね。……えと、それが……』

 周りを気にしているような様子だ。話の内容は真川のことなのだろう。話次第では、揚羽のことも分かるかも知れない。楓はごくりと息を飲んだ。

「聞かせて下さい」

『お伝えするには、お目にかかったほうがいいと思うんですが……』

「構いません。よかったら、今からでも」

 勢い込む楓の言葉に、九条は驚いたようだった。その驚きは自分が急の面会を即座に了承したからだと思った楓だが、それは違う、と九条の口から聞かされた。

「楓さんは、高校生じゃなかったですか?」

「はい?」

 そうですけど。首をかしげる楓は、九条の次の言葉にぐっと詰まってしまった。

『どうして、こんな時間に電話かけてこられるんですか? 学校は?』

「それは……」

 楓は曖昧に口を濁す。その理由を追及されれば、揚羽のことを話すしかない。

「まぁ、いいですよ」

 楓の口の重さを、後ろめたさと取ったらしい。九条は軽やかに笑い、楓に都合のいい場所を聞いてきた。落ち合う場所は、楓の家の近くのファミリーレストランと決められた。



 「お久しぶりです」

 初めて見たときとは違うラフな服装の九条に驚いた。あのときとはまったく違う印象に、楓は彼を凝視した。

「……なんですか?」

 訝しげに言われてはっとした。慌てて九条を見る視線を振りほどくと、九条は笑って楓の正面に腰を下ろした。

「なんか、変ですか?」

「……いえ、ただ」

「ただ?」

 ん? というように、九条は楓を覗き込む。そんな仕草は彼をますます若く見せた。楓はどう反応していいか分からないままに戸惑ってしまう。

「あのときと、全然印象が違うから」

 楓は肩をすくめた。

「あのとき?」

「助けていただいたときです」

「ああ」

 九条は笑う。久しぶりに聞いた笑い声に、楓はほっと和むものを感じる。

「いくら何でも、外に出るときまで白衣じゃないですよ」

「いいんですか、九条さん」

 安心した心は、しかし九条への心配へと向けられる。

「こんな時間なのに。お仕事の途中じゃなかったんですか」

「別に、学生みたいに拘束されているわけじゃないですからね。仕事の支障にならないかぎり、少々外出したって大丈夫」

 彼の目が悪戯っぽく光った。笑みを浮かべたまま、楓を見る。

「楓さんこそ、いいんですか?」

「え?」

「どうするんですか、お巡りさんにでも見つかったら」

 楓は戯けて、小さく笑う。

「私には、秘密兵器がありますから」

 ウェイトレスがやって来る。楓は目の前に並べられた水をひとつ、九条の方へと押しやった。

「なんですか、それは」

「病院の帰りです、って言ったらいいんです」

 楓が首をすくめると、九条は呆れたような笑い声を上げた。

「悪いひとですねぇ」

 会うのは二回目、しかも最初はあのような状況であったのに、九条とはともにいて楽しい、という思いを抱かせる人物だ。それは彼の優しい語り口ゆえなのか、それともこちらに向けてくる、優しい視線のゆえなのか。

「それでですね」

 本題に入った途端、九条は研究者の顔になる。楓は居住まいを正した。

「あれからね、僕なりにいろいろ調べてみたんです」

 にわか真剣な表情になって、九条は言った。

「僕は部が違うから。あの研究所にはいくつもの分野があって、普通だったらそれぞれの部の研究者、かかわり合いになることなんてないんですよ。僕が真川博士と知りあったのも、喫煙室でよく一緒になるから、ってだけだったし」

「九条さん、タバコ吸うんですか?」

 学生と言っても通る見かけの九条の、思いもしない一面に楓は声をあげた。

「……やめろって、言われるんですけど」

 九条は、指先で頭を掻いた。

「ダメですかね、やっぱり」

「いえ、そういうことじゃなくて」

 楓はふるふると首を振った。九条とタバコ、というイメージが、どうしても重ならなかっただけだ。

「まぁ、それでですね」

 話題を誤魔化すように、九条は言った。

「だから、生体研究部の方が何をやっているのかなんて新聞や雑誌に載る程度のことしか分からないわけですよ。おまけに真川博士の研究は、ほとんど生体研究部の外に漏れていなかった」

 九条は言葉を切った。ウェイトレスがふたりの注文を運んできたからだ。楓の前にはハーブティーのカップを、そして九条の前にチョコレートパフェのグラスを置いた。

「真川博士の研究は、人間のクローン製作なんです」

「クローン……」

 ひそめられた声。楓は息を飲んだ。九条はその理由を聞かなかった。ちらり、と楓の表情を窺っただけで話を続けた。

「真川博士は沖津博士の弟子なんですね。しかも唯一の。沖津博士が研究途中で亡くなられてしまったものだから、それを継いだというわけです。しかし動物のクローンは盛んに作られていて今や珍しいものでもなくなっていますが、人間の、となるとまた別です」

「……」

 楓はかろうじて頷いた。

「話、続けてもいいですか?」

「もちろんです。続けて下さい」

 九条は水を取り、少し口を湿してから続けた。

「技術的にも倫理的にも、大変に障害のある研究です。すぐお金になる研究が優先されがちなんですが、だからといって無視されていたわけではない。それどころか、かなり慎重に機密を隠し通していたらしい」

 ひと息にそう言って、そして九条は今までの歯切れよさとは裏腹に、声を沈ませた。

「けれど、その研究は成功したとかしないとか。噂はなんとなく伝わってくるんですけど、本当のところは……」

 一体、どうなっているのか。そう言う九条は、申し訳ない、という顔をした。そして楓が沈んだ顔をしているのを気づかったのか、話を切って口調を変えた。

「沖津さんは、ご両親が亡くなったから真川博士に育てられることになったんですよね」

 九条の言葉に、楓はこくりと首を縦に振った。

「お父さんは……。私、真川のことお父さんって呼んでるんですけど」

「そうみたいですね」

 九条はにこにこと言った。その笑顔につられて、楓の口は動く。真川のことを話せるのが、嬉しかった。

「私が幼稚園くらいのとき、教えてもらいました。私は、お父さんの本当の娘じゃないって」

 九条は反応に迷うようにまばたきをした。

「でも、あんまりショックじゃなかった。……小さかったからだと思うんですけど」

「それまでは、言いたくても言えなかったでしょうしね」

 楓は頷く。

「私、心臓が悪くて。今では激しいスポーツが出来ないくらいで、ほとんど大丈夫なんですけど。小さいころはずっと病院にいました。こんな体に生んだお父さんとお母さんなんて嫌い、って。そう言ったら、そんなこと言ったらダメだって。そして教えてくれたんです」

 左胸に手を置いて、楓は言った。九条はじっと聞き入っている。

「移植しか手がないとかいわれてたけど、でもお父さんがいろんな病院回ってくれて、一生懸命いろんな治療探してくれて。今は病院には行かなくちゃいけないけど、こうやって普通に生活できて、学校にも行けて……。体育の授業だって出られるんですよ。私」

 楓が誇らしげに言うと、九条は同調するように優しく微笑んでくれた。

「こんな生活を送れるのは、全部お父さんのおかげなんです」

 九条はにこにこしながら楓の話を聞いている。その表情に、楓もまた嬉しくなる。

「沖津さんは、本当にお父さんのこと、好きなんですね」

「はい」

 はっきりと、楓は言った。

「カフェオレにお砂糖三杯も入れて飲むのをやめてくれたら、もっといいんですけど。あれじゃ私だけじゃなくて、お父さんまで病院通いになっちゃう」

 九条は笑った。その朗らかな様子に、楓もつられて笑う。

「そんなふうに……お父さん、私のこと大切にしてくれてるの、分かってるから。だから私、今まで私がどうしてお父さんに育てられたのか、どうして本当のお父さんとお母さんが死んだのか。知らなかったし、知ろうと思ったこともなかったです」

 ふと、口調が沈んだ。そう、知ろうなんて思わなかった。自分は、幸せだったから。

「知りたいって思うのが普通なのかも知れないですけど。でも、私は考えたことなかった。別に、知りたいって……全然」

 楓は九条を見た。そのときの楓はどのような目をしていたのだろうか。九条は何かを考える表情を見せている。

「父は、どこに?」

「……分かりません」

 九条は表情を沈ませた。その顔色に、楓はざわりと胸を騒がせる。

「調べてみました。けれど手がかりはなくて。というか、あえて消されているように感じました」

「私、お父さんに会わなくちゃ……」

 楓は立ち上がった。何かに引きずられるようなこの衝動は、九条に電話をしたときに似ている。

「私、家に戻ります。お父さんから連絡が来てるかも知れないし、それに……」

「沖津さん!?」

 九条の制止を振り切った。テーブルの前を去ったときには、もう頭は家に帰ることだけでいっぱいになっていた。

「あ、っ!」

 楓は席に、精いっぱいの早さで戻った。財布から小銭をいくつか取り出して、テーブルの上に置く。九条は、驚いた顔をして楓を見上げていた。

「すみません、私の分はこれで」

「あの、沖津さん……」

「じゃあ、私急ぐんで!」

 楓は、今度こそ、と出口に向かって速足に歩いた。



 玄関のドアを開けるとき、ペットロボットの声を期待するのはもう習慣になっていた。

 真川の声で迎えられる。九条も手がけたものだと知って、ロボットへの愛着はますます増したように感じられた。

 今日もドアを開けると、ロボットが出迎えてくれた。

「カエデ、オカエリ」

 楓は視線を落とし、微笑む。上衣を玄関のコートハンガーにかけ、家の奥に入ろうとした楓を声が追った。

「楓」

「はいはい」

 楓は軽い口調で言った。ペットロボットが呼びかけてきたのだと思ったからだ。

「楓……」

「はいはいってば」

「……静かにしててくれよ」

「は?」

 振り返った。目の前にいたのは真川だった。楓は目を大きく見開き、大きく口を開く。

「おとう……」

「しっ!」

 真川は楓の口を塞いだ。大きな手に声を封じられて、楓は慌てた。真川は、恐ろしいほどに真剣な目をしている。そんな真川など、見たことがない。楓はごくりと息を飲む。

「静かに。どこで聞かれているか分からないから」

「……な、に……」

「楓。あれはどこだ」

 真川は厳しい声で言った。そのような彼を、楓は知らない。いつも朗らかに、楽しそうな声で笑う父なのに。彼がこんな厳しい口調で話すことなど、今までにあっただろうか。楓が叱られるようなことをしたときでさえ、ここまでの恐ろしい口調にはならなかったように思う。

「あ、れ……?」

「楽譜だ。お前の名前と、そして……」

 真川は口ごもった。楓の口から手を離し、楓を見る。そして少し視線を逸らしたまま、言った。

「『AGEHA』というタイトルの楽譜も、あっただろう?」

「どうして……」

「いいから」

 楓の質問には答えようとしない。真川は、せっぱ詰まった声で荒々しく言った。

「あっただろう? 書斎にあったはずだ。荒らしておいたのに、なくなってる」

「じゃ、あれは?」

 書斎を荒らした犯人を知って安堵したものの、しかし真川はなおも強く、楓に迫る。

「両方ともだ。どこにしまった?」

 ふたつの楽譜はまとめて、自室の引き出しにしまってある。そのことを告げると真川は頷いた。

「取ってきてくれ。早く」

「うん……!」

 楓は自分の部屋に駆け込んだ。大きな声を上げるな、と言われたことを思い出し、足音をひそめる。

「ねぇ、一体何が起こってるの? 私、どういうことだか……」

 床に膝をつき、引き出しを開けながら楓は言った。楽譜を取り出し、真川に渡す。

「それは、いずれ説明する」

 真川は慌てているようだった。受け取った楽譜ににちらりと目を通し、リビングへ戻る。ソファの上の平たくて黒いケースを取り上げる。その中に楽譜を滑り込ませた。

「楓」

 振り返った真川は、低く言った。楓はごくりと息を飲む。今まで見たこともない真川の表情に、不安がだけがよぎる。

「すまん。いろいろ迷惑かけて」

「そんな、こと……」

 楓は首を振った。真川は無事だった。安堵する。そして楓は彼にしか聞けない、知りたくてたまらない真実への扉を乱暴に開こうとした。

「ねぇ、お父さん! 揚羽って……」

 真川の顔が、引きつった。

「知ってるんでしょ? 沖津揚羽って、私にそっくりな子」

「楓……」

「前、家に来た子よ。お父さんに言ったら、私の本当のお父さんの親戚かも知れないって、だから調べてみるって言ってた子……」

 困惑の表情で、真川は楓を見ている。それは揚羽のことを尋ねられて困惑しているのか、それともここに長居は出来ないからなのか。楓は、彼のシャツのたもとを引っ張った。

「本当なの? あの子が、私のクローンだって」

「本当よ」

 声が重なった。女の声に驚いて前を見る。ペットロボットはくるくると回った。

「カエデ、カエデ」

 そこにいたのは揚羽だった。息を切らしている。視線が鋭く尖っている。玄関の鍵をかけるのを忘れた。彼女が入ってくる姿を見ながら、楓がとっさに考えたのはそんなことだった。

「オカエリ、カエデ」

「本当よ。ねぇ、真川博士?」

「カエデ、オカエリ」

 ペットロボットは、カエデ、カエデ、と繰り返しながら揚羽の足もとを回り、足であるローラーを回しながら楓のもとにもやって来た。名前を繰り返す。そしてきゅるきゅると困惑したような音をあげた。

「揚羽……」

 真川の声。その名はなめらかに真川の口から漏れた。彼が揚羽の名を呼ぶのが初めてではないということを楓に知らしめた。真川にとってそれは、ともすれば楓の名前以上に呼び慣れた名なのだろう。

「なんで教えてあげてなかったの? ものすごくびっくりされたじゃない。この子、あんまりなんにも知らないから、私の方が驚いたくらい」

 揚羽は楓を見た。つかつかと目の前に歩み寄り、自分の右手を楓に向ける。

「クローンがね、一卵性双生児と違うのは、これ」

 差し出した手を、楓に見せつけるようにぐい、と突き出す。

「クローンはね、指紋も声帯も網膜も、何もかも本体と一緒なのよ」

「だから……」

 例え玄関の鍵が開いていたとしても、マンションの入り口のロックはここの住人にしか解けないはずだ。しかし指紋までもが一緒なのだとしたら、それは揚羽にはなんでもないことだろう。

 揚羽は真川の前に立った。楓に指し示していた手を、彼の目の前で開いた。

「あれ、ちょうだい」

「なんのことだ」

「惚けないで」

 揚羽はぴしゃりとそう言った。真川はじっと、厳しい表情を揚羽に注いでいる。

「クローン製造のデータよ。研究所のやつらが必死に探していることは、博士だって知ってるんでしょうが」

「お前には渡せない」

「どうして!?」

 揚羽は歯を剥いて、怒りの形相を見せた。楓には決して出来ない表情で。今までどのような人生を送ってくれば、そのような表情が出来るようになるのか。そしてそれをほんの一片だけかいま見た、研究所でのことを思い出して楓は身を震わせた。

「なんで渡せないの? どうして隠すの? あんたたちが今まで私にしてきたことを思えば、そのくらいしてもいいと思わない?」

 楓はただ、戸惑う。ふたりをおろおろと見るだけの楓を、揚羽はちらりと、バカにしたように見た。そしてまた真川に詰め寄る。

「ちょうだい」

「ダメだ」

 真川はきっぱりと言った。揚羽がひるむほどにはっきりと。

「この研究は、研究所には渡せない。お前にも渡してやれない」

「どうしてよ!?」

 楓は、今にも殴りかからんばかりに真川に迫った。しかし、そんな彼女よりもさらに強い意志を持って、真川は首を左右に振った。楓はかっと目を見開く。

「これ以上、私を閉じ込めておく気? 私は充分、ひどい目にあったわ。助けてくれるって言ったくせに!」

「揚羽!」

「嘘つき!」

 揚羽は駄々をこねる子どものようにわめいた。それをなだめようとでもいうように、真川は揚羽の肩に手を置く。

「もう少し、待ってくれ」

 真川の言葉に、揚羽はこれ以上はないほどに顔を歪めた。真川を見上げる。

「もう、少し……、方法が、見つかるまで」

「何言ってるの!?」

 揚羽は、聞いている楓が震えるほどに大きな声で叫んだ。真川はそんな彼女の口を塞ごうとしたが、楓は身を翻してしまう。

「もう少しってなによ? 方法って? 私にまだこれ以上、我慢させようって……」

 揚羽が激しく咳き込んだ。その尋常ではない咳に、楓は思わず声をあげた。

「揚羽っ!」

 駆け寄った楓を、しかし揚羽は跳ね除ける。慌てたように差し出された真川の手も振りほどいてしまう。

「触らないで!」

 揚羽の激しい声に、楓はびくりと硬直した。聞いているだけで咽喉が痛むような咳をしながら、揚羽は楓を振り返った。

「触らないで! あんたには触られたくない!」

「楓に当たってどうする!」

 真川の声に、揚羽はなおも咳き込みながら、きっと彼を睨みつけた。

「研究が成功すれば、自由になれる日が来るのよ。もうあんな扱い、受けなくていい……」

 揚羽の声が弱くなった。真川を見上げる。その声の調子は、決して咳のゆえではないようだった。

「博士だけは、違ったけど……」

 すぐに揚羽は、もとの調子を取り戻す。

「でも、一緒。あいつらは、博士が仕切ってたんだから。あいつらがしてたことは、博士がしてたことも一緒」

「揚羽……」

「研究所は博士を探してる。研究の最後を知りたがってる。それを私が研究所に渡せば、私は自由になれる。研究が成功すれば、私はもう、あんな日々を過ごす必要は、ない」

 揚羽は誇らしげに真川を見た。素晴らしい考えを自慢するように。しかし真川は、揚羽以上に険しい表情で言った。

「お前に辛いことを強いてきたことは知っている。でも……」

 真川は、悲しげな顔をした。激高していた揚羽が思わず怒りの表情を溶かしてしまうような、その心痛をいっぱいに現わした表情だった。

 それを楓は、いささかの嫉妬を持って見た。そんな自分が醜く感じられる。揚羽を見る、真川の目。その、優しい手。言葉。それは楓だけのものであったはずなのに。そうではなかった。それらは揚羽に向けられていた。

「研究者としての欲でしょうが。幻の研究を、自分の手で完成させたいって……そして、楓のため」

 揚羽は尖った声で言った。名を出されて驚く楓の前で、真川は視線を伏せる。

「……そうだ。お前の、言う通りだ」

 真川は、苦しそうな声で言った。揚羽は笑顔のまま、表情を凍りつかせた。

「……そして、急に倫理感に目覚めたってわけ? 急にこんな研究いけないとか思い始めたわけ? だから逃げたっていうの?」

 揚羽は視線も声も、その体そのものが刺のようだ。真川は揚羽に向き直った。

「クローン製作が成功すれば、お前を自由にしてやれる。私も最初はそう思っていたんだ。だから、早く進めたいと思っていた。……しかし」

 真川は悔しそうな口調で言った。

「お前は、研究が完成してもあそこからは出られない」

「……っ!?」

 揚羽の刺は、真川の言葉によって鋭さをなくした。

「お前は、学会の承認を得ないまま作られたクローンだ。だから、研究が完成して人間のクローン製作が合法になれば、沖津博士の研究の生き証人であるお前は、研究以前の違法な存在ということになってしまう。お前の存在は研究所にとって致命的だ。だから研究所は、研究が完成次第、お前を……」

 真川は言葉を濁した。彼が続きをはっきりと言わないことに、揚羽はその言葉の先に気づいたようだった。それは楓も同じだった。

「それが、分かった。だから、研究所には渡さない。渡せない。研究は完成させない」

「バカなこと言わないで!」

 真川の声を、揚羽は大きな声で遮った。

「いつまで待たせる気? そうやって、いつまで私を利用しようって言うの?」

 揚羽は叫んだ。自分の胸に手を当てて、その体を真川に指し示すように。楓は眉を寄せた。

「あんたの言うことなんて、信じない。そんなことになるわけない。どうせあんたは、研究を完成させることしか頭にないんだから」

 真川を蔑むように揚羽は言った。

「あっちは研究の成功を待ってるんだから。私が、それを完成させるの。そうすれば、研究所だって私をないがしろにはしない。私は私として、認められるんだから!」

 真川は揚羽の肩に手を置いた。それは激しく振り払われる。そんな揚羽を、真川は悲しそうに見た。

「もう、少しだけだ。もう少し……」

 見せたいものがあるんだ。真川は、最後まで言葉を綴らなかった。彼の手の中にある、携帯電話よりも一回り小さい機械が音を立てた。真川はディスプレイを見て、小さく舌打ちする。

「楓」

 真川は、楓を振り向いた。

「すまない、揚羽を……」

「お父さん!」

 せっつかれるように先を急ぐ。楓の足は真川を追った。しかし楓の前に出たのは、揚羽だった。

「待って……!」

 揚羽は、真川を追った。

「どうして?」

 楓は、真川にすがる。そして、自分でも驚くほどに悲しげな声をあげた。

「どうして何も言ってくれないの? どうして何も言ってくれなかったの? こんな、私……!」

「すまない」

 真川は、ただそう言うだけだ。

「お前を巻き込みたくないと思っていたんだが……、そういうわけには、いかなかった」

「当たり前よ!」

 楓は声をあげる。拳を握って真川の胸を殴った。真川は驚いて、楓の体を抱き留めた。

「当たり前よ、私だって、私こそが当事者なのに……!」

 真川は、楓の頭を撫でる。そして、もう一度すまない、と言った。

「だからこそ。……もう少しだ。もう少しで、分かるから」

「え?」

 真川は驚くほどに素早く消えた。開け放たれたままのドアを、楓は呆然と見つめる。そして続けて、声をあげた。

「揚羽……!」

 目の前に倒れた姿があった。駆け寄る。揚羽だ。揚羽はまるで、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

「揚羽、揚羽!?」

 ドアに駆け寄る。真川を呼ぼうとして、思わず声を潜めた。騒ぐなと制されたことを思い出した。真川があれほどに慌ててこの場を去った理由を考える。

 揚羽が小さく呻いた。楓ははっと彼女を覗き込む。顔色が悪い。呼気も浅く荒く、そのまま放っておけば死んでしまうのではないだろうかと心配になるくらいの状態だ。

「……」

 先ほどの真川と揚羽の会話は、楓は知らないことばかりだった。あの真川は、楓の知っている真川ではなかった。

 楓は何も知らなかった。そしてまだまだ知らないことがたくさんあるはずだ。楓が深く関わっていながら何も知らない世界のただ中に、揚羽がいる。

 真川に、そして揚羽に。怒りをぶつけるべき場所はそこではないのに。それは分かっているが、しかし楓の中にはどこかやり切れない、もやもやとした気持ちが広がっていく。

 大きく首を左右に振った。揚羽を放置はしておけない。手を伸ばしたが、自分と同じ体格の彼女を抱き上げるようなことが出来るわけがなかった。せいぜい玄関から廊下に引きずることが出来るだけだ。

 とりあえずは廊下の絨毯の上に横たわらせるが、真っ青な顔をした彼女を、そのような場所に寝かしたままにしておいていいものか。

「……あ」

 楓は顔を上げた。立ち上がり、電話の置いてあるチェストへと向かう。



 「すみません」

 楓は首をすくめる。そんな楓に微笑みかけたのは、玄関に立っている九条だった。

「また呼び出しちゃって。……あの」

「嬉しいです」

 楓は九条を招き入れる。そこには絨毯の上に横たわった揚羽がいる。かぶせてある布団は楓のものだ。

「……これは」

 楓は、九条をちらりと見た。彼の驚きのほどを見届けようと思った。それで、彼が信頼に足る人間かどうか分かると思った。

「揚羽……?」

 小さく声をあげた九条は、しかし楓が思ったほどには驚いた様子を見せなかった。

「このひとは……揚羽、ですね?」

「ご存知なんですか?」

 驚いたのは楓の方だった。九条は頷く。そして揚羽の体を起き上がらせながら、楓を振り返った。

「隠してはいるみたいですけどね。生体研究部の方は大騒ぎです。揚羽がいなくなったって」

「九条さんは、揚羽のこと知ってたんですか」

 寝室の場所を尋ねられ、慌てて家の奥を指す。九条は揚羽をひょいと抱き上げた。楓は引きずるのがせいぜいだった揚羽の体を、まるで子猫でも抱き上げるように軽々と腕に収め、ベッドに連れていく。

 寝かせられた揚羽は、まだ顔色が悪い。頬に貼りついている髪の毛のせいだろうか、痛ましいほどにやつれて見える。

「知ってます。……というか、気づきました」

 揚羽の体に掛布をかけながら、九条は言った。

「研究所の、しかもあんなところに部外者がいるわけないんです。それなのに、あなたはいた」

 顔色を確かめるように揚羽の顔を覗き込み、九条は楓を振り返った。じっと見つめてくる。楓はまばたきをして、九条の言葉を待った。

「その揚羽の顔が、楓さんそっくりだったんで。それで、ね。心臓のことも聞いたんで、揚羽が作られた理由も推測できました」

「……そう、ですか」

 楓は横たわる揚羽を見て、そして九条に目を向けた。

「私のクローンってことは、やっぱり。揚羽も……心臓が、悪いんでしょうか?」

「さぁ」

 九条は首をひねった。

「専門外だから、断言は出来ませんが。でも、病気の種類にもよるんじゃないですか? 遺伝病だと同じ遺伝子を持っているひとはかかりやすいっていうけど、そうじゃない病気だったら」

「そう、ですね……」

「それに、移植のために作ったクローンなんだったら、そのクローンも同じところが悪かったりしたら意味ないですしね」

 楓はそっと、手を胸に置いた。ベッドの中の揚羽を見つめる。早くて浅い息。体温があることを確かめたくなるような顔色。

「……ん」

 小さく揚羽が呻く。ゆっくりと彼女の目が開いた。

「目、覚めた?」

 楓はほっとして言った。揚羽はうつろな目をしている。それを心配して覗き込む。揚羽がぱっと、大きく目を見開いた。

「博士は!?」

 揚羽は大きな声を上げる。起き上がろうとしてうめきをあげて、再びベッドに沈むと大きく息をつき、額を押さえる。

「気をつけて」

 九条が優しくそう言った。揚羽は顔を上げ、九条を見る。誰、とでもいぶかしむように眉根を寄せたが、すぐにそれどころではないというように声をあげた。

「真川博士は、どこ!?  あの男、どこに行ったの!?」

「お父さんは、出ていったわ」

「どこに!」

「それは、分からないけど……」

 九条をちらりと見ながら、楓は言った。九条も肩をすくめている。

「ここにいたらそのうち戻ってくると思う。ここにいたら? お父さんも待ってろって言ってたし」

「あんた、なに言ってんの?」

 揚羽はかすれた声で突き放したように言い、精いっぱいの侮蔑を込めた目で楓を見る。

「なんで、あんたと一緒にいなきゃなんないの? 世話焼いて、恩でも着せたいわけ?」

「……そんなんじゃない」

 むっとした楓は、低い声でそう言った。揚羽の鋭い視線を受けて、思わず彼女を睨み返す。

「そんなんじゃない。でも、あなたが私のクローンだっていうんなら、私にも関係ないことじゃないし、それに……」

「それに、なによ」

「私も、知りたい。本当のこと」

「……本当のこと?」

 揚羽の目が光った。にやり、と微笑んだ。歯を剥いて、思わず後ずさりをしてしまうような表情で楓を見た。

「教えてあげるわよ。本当のこと。あんたは何も知らないみたいだから」

 揚羽は笑う。笑うと、左の頬だけに小さな笑窪が出来る。そんなところまでが楓と同じだった。

 揚羽の指が、楓の顎にかかる。爪の形もがそっくりな、彼女の手。そして近づいてきた、同じ顔。

「幸せよね、何も知らないっていうのは」

「……」

 楓は言葉を失う。そんな楓に、揚羽は笑った。声には出さない含み笑い。それは明らかに、動揺している楓を嘲笑ってのものだった。そこにある憎しみをまざまざと感じさせる笑みだった。

「何も知らない、おめでたいあんたに教えてあげる。あんたの父親の、沖津のこと」

 揚羽は、笑っている。顔の筋肉だけで笑っている。その目は恐ろしいような光を放っている。自分とそっくりの顔が、自分には決して出来ない顔をしてこちらを見ている。

「揚羽さん」

 声がかかって振り返った。揚羽は不愉快だという表情を、隠しもしないで九条を見る。

「楓さんは、倒れたあなたを助けようとしてくれたんですよ。自分ひとりじゃどうにもならないから、僕まで呼んで」

「……ふん」

 揚羽はバカにしたように鼻を鳴らした。九条は困ったように眉根を寄せた。

「そんなひとに、そんなものの言い方はあんまり感心しませんが」

 楓は思わずうつむいてしまう。九条が言ってくれたような、きれいな感情ばかりであったのならよかったのだけれど。自分のわだかまる心を見られたくないのは、九条に対してか揚羽に対してか。分からないまま、楓はそっとふたりを見た。

「あんた、誰よ?」

 疑わしい視線のまま、揚羽は言った。九条はすみません、といつもの朗らかな調子で言う。

「僕は、工学研究部の九条といいます」

 その場の空気を溶かすようなにこやかな口調に、揚羽の顔は訝しげに歪んだ。

「工学部の人間が、なんで生体部のことに首を突っ込んでくるわけ?」

「突っ込みたくて突っ込んだわけではないのですが……」

 九条は困ったように、指先で頭を掻いた。

「成り行きというか、これも運命、というか」

「ふざけないでよ」

「知ってしまった以上、黙ってもいられませんので」

「あんた……」

 巣に入ろうとする敵を睨みつける親鳥のような顔で、揚羽は吐き捨てるように言った。

「いろいろ知ってるみたいだから。あんたが楓に教えてやれば?」

「僕は知りませんよ。あなたが楓さんのクローンで、真川博士と、そしてなぜかお父さんの沖津博士を憎んでいるということ以外は」

「なぜ、か……?」

 九条の言葉を、揚羽はゆっくりと繰り返した。そして、ぎり、と歯を鳴らした。

「なぜか? なぜ憎んでるか? 分からない? あんたが私だったら、どう思うのよ?」

 揚羽は突然、ベッドから体を起こす。その拍子に眩暈でも起こしたのか、うめき声をあげる。しかし手を差し伸べた九条にはきっと厳しい顔を向けた。

「自分が誰かのクローンで、誰かのスペアとして作られたんだとしたら!?」

「……っ!」

 勢いよく楓を振り向き、揚羽は尖った口調を向けてきた。また、唇の端を持ち上げる。

「沖津は私を作ったはいいけれど、サイズの問題なんかもあってね。私がそれなりに成長するまで、即移植というわけにはいかなかったのよ」

 試すように楓を見、揚羽は笑った。楓の表情は彼女の優越感をくすぐるらしい。

「研究所は私を渡すように言った。生きてる唯一のクローンを、移植に使って殺したりしないようにって。でも、そんなことしたらあんたを助けられないからね」

 揚羽は、あんた、という言葉に力を込めた。

「だから、私を隠そうとしたの。けど、それが見つかって。逃走中に、事故死」

 揚羽は嘲笑うように、唇の端を持ち上げた。

「残された私は、研究所に閉じ込められた。沖津の残さなかった研究の内容を完成させるためのサンプルとしてね」

 忌々しげに揚羽は言った。

「真川のもとで研究の実験材料にされた。体を開いたり閉じたりしていじられて、検査に実験に、私の毎日はそんなことばっかりだった」

「……っ」

 開いたり、閉じたり。まるで日常のことであるかのように揚羽は言ったが、そのときの苦痛は楓もよく知っている。深い眠りの中にあるときのことではあっても、麻酔が覚めたあとの痛みと、苦しさ。それを思い出して、楓はぞっと自分の体を抱きしめた。

「あんたのことを知ったのは、いつだったかしらね。私の本体が、真川に育てられているって。私のように研究所に閉じ込められているわけでもなく、普通に生活して、学校なんかに行って。病気の方だって、真川博士がいろいろ手を尽くしてもう治ってるって話じゃない」

 治った、というわけではない。しかしそのようなことは、聞かされた揚羽の身の上に比べれば、どうでもいいことであるように思えた。

「沖津が、私を作ろうなんて思わなかったら……」

 揚羽は楓を睨む。自分の胸元に手を置いて、ぎゅっとシャツを握りしめる。

「私、許さない。私にこんな運命を辿らせたこと」

 ぎり、と揚羽の歯が鳴った。

「移植だけが目的なんだったら、心臓でもなんでも取ってさっさと殺してくれたらよかったのよ。生きることを望みもしない、望まれもしない、私なんかを作って、そして自分は……」

 指先に貫かれてしまうかと錯覚するような激しい勢いで、揚羽は楓を差した。

「あんたに、あんたにだけ幸せを残して死んだ沖津が許せない。あんたを守ってきた真川博士が許せない。私の犠牲の上に幸せだった、あんたが許せない」

 憎しみをまっすぐにぶつけられていながら、そこに楓は、憎しみだけでないものを感じ取った。悲哀。そうと言えば、揚羽は怒るだろう。しかし、彼女の声と表情に宿るもの。そこにあるものに、楓は気がついてしまった。

「どうして、私が……、こんな」

 小さな、揚羽の声。それは独り言でさえない、思わず漏れた言葉だったのだろう。楓は唇を噛んだ。両手をぎゅっと握りしめて、うつむいた。

「でも、あなたは」

 ふたりの間を割いたのは九条だった。彼は変わらずの、のんびりした口調で言った。

「ずいぶん聡明でいらっしゃるようですね。ちゃんと理論立てて話も出来るし、難しい言葉もご存知だし」

「なによ」

 揚羽は尖った声で言った。

「バカにしてんの?」

「いえ、そういう意味じゃありません」

 九条はいつもの彼の調子で、話を続ける。

「ただ、生まれたときから研究所にいて、ずっと実験動物のような扱いを受けていらっしゃっただけなのなら知らないようなこともご存知だなって。通常の知識だけではなく、研究の内容もよく知ってらっしゃる」

「……れ、は」

 言葉に詰まる揚羽に、九条の言葉が続く。

「教えてくれているひとがあるのでしょう? あなたが困らないように、手を尽くしてくれているひとがありますよね」

 誰だ、とは九条は言わなかった。楓も聞かなかった。揚羽はもちろん口にしなかったが、考えるまでもなかった。

「そんなの……、自分が話するときにこっちがまともに話せないんじゃ、面倒だからよ」

「教えるほうが、よっぽど面倒だと思いますけどね」

 九条は、ふぅとため息をついた。

「それに、あなたには立派な名前があるじゃないですか」

 揚羽の表情は、ますます歪んだ。楓も、九条が何を言うのかと驚いて彼を見た。

「揚羽、なんて。素敵な名前ですよ。きっと、いろいろ考えてつけた名前なんでしょうね」

「名前なんて、便宜上」

 揚羽はこともなげに言った。

「どうでしょうね。それにしたって、名を与えるのは最初のプレゼントというじゃないですか」

 眉をひそめて、揚羽は九条を見る。

「僕たちも実験用ロボットに個体識別のために、ポチだのタマだのいう名称はつけますけど、そんな凝った名前はつけませんよ」

「……何が言いたいの」

 揚羽はぎろりと九条を睨みつける。そんな視線などものともしないというように、九条は揚羽に向かって首をかしげる。

「それに、沖津夫人は?」

「……夫人?」

「あなたたちのお母さんですよ。沖津博士は愛妻家だという話でしたが」

「知らないわよ」

 あなたは? とでもいうように九条に視線を注がれて、楓も首をかしげる。

「私は……お父さんと一緒に死んだ、って聞きましたけど……」

「あんたに何が分かるのよ」

 揚羽は九条の言葉を一蹴した。楓の感じた食い違いも、ともに霧散してしまう。

「私と同じ目に会ったんじゃないと、私の気持ちなんかわからない」

 そんなひと、いるわけないけど。揚羽は笑い声を上げる。そして起き上がった。

「どいて」

 ベッドのスプリングが音を立てる。楓は慌てて揚羽を制した。

「なによ」

「だって、倒れたでしょう? 起きたら駄目よ」

「関係ない」

 揚羽は楓の片手をはたく。その手には力がない。強いのは視線だけだ。楓を一瞥し、揚羽は立ち上がった。

「どこ行くの」

「真川を探しによ。当たり前じゃない」

 何を言うのか、というような顔をして揚羽は楓を見る。ベッドから降り、乱れた髪を指先で鬱陶しそうにかき上げる。そしてふたりに背を向け、ドアに向かう。その足取りは、よろよろとおぼつかない。倒れたことが響いているに違いないのに。

「ちょ……、揚羽!」

「沖津さん!」

 止めたのは九条だった。楓の肩をつかんで、振りほどくと今度は腰をつかまれた。

「あ……!」

「あ、すみませんっ!」

 九条は慌てて腰の手をほどく。それとともに、玄関のドアが、ばたん、と大きく音を立てるのが聞こえた。

「なんで……!」

 楓は振り向いて、そして声で叫んだ。

「なんで止めるんですかっ!」

「追いかけて、どうするんですか?」

「……っ」

 そうと言われれば、確かにそうだ。追いかけてなんとする。楓が行ったからといって、揚羽が喜ぶわけはない。せいぜい彼女を不快にするのが関の山だろう。

「でも、あの子……体が」

「体がよくないのは、あなたも一緒です」

 九条は言った。いつもの朗らかな表情ではない。強く楓を睨みつける顔に、楓は言葉を失った。

「気をつけて下さい。あなたまで倒れたらどうします?」

「……あ」

 心配しなくていい。それほどに体は悪くない。そうは言いたくても、九条との初対面が初対面だ。彼が心配しても仕方がない。

「あなたが無茶するかと思うと、気が気じゃないです。どこかで倒れたら、と思うとぞっとします」

 九条は心の底からの心配を隠しもせずに、楓を見つめている。

「あなたには……」

 楓は言った。声が上ずっている。

「関係ないです。心配してもらう必要だってないんです」

「もう、関係ないことはなくなってます。僕も」

 楓はひとつ息を吐き、おとなしく九条に従った。揚羽のいなくなったベッドに腰を下ろす。

「それにね、僕は真川博士が好きなんですよ。その真川博士が困っていることがあるのなら、助けられたら、って思うだけです」

「お父さんの……」

「はい」

 九条はにっこりと微笑む。その笑みはまっすぐに楓に向けられていて、いたたまれない思いで楓はそっぽを向いた。

「それにね、あなたが」

 邪気など一片も感じられない笑顔で、九条は言う。

「あなたが、興味深いひとだから」

「興味深いって……」

 彼の言葉に楓が複雑な顔を見せると、九条は取り繕うように慌てて言った。

「いや、すみません。ついそんな言い方をしちゃうんですけど」

 研究者ゆえの表現ということだろうか。楓が笑うと、九条は安心したように息をついた。

「興味深い、じゃおかしいですか。ええと、なら……」

 九条は言葉を探し、そして困ったように肩をすくめた。

「自分だって大変なのに、揚羽さんのことを心配してあげられたりとか。介抱してあげたりとか。出来るひとなんだなって」

「……」

 楓は口ごもってしまう。九条の解釈は間違っている。楓は揚羽に嫉妬したのに。揚羽がどのような日々を送ってきたのか知っているくせに。自分の存在ゆえに重すぎる荷を負うことになった彼女を目の前に、自分が蚊帳の外であることに不快を抱いて苛だったのだ。

「沖津さん?」

「……楓で、いいです」

 楓はうつむいて、力なく言った。

「沖津、って呼ばれたら、私のことか揚羽のことか分からないし」

「そりゃそうですね」

 九条はあっさりと頷く。そして、そういえば楓さん、と言った。

「僕に初めて電話をかけて来てくれたときのことなんですけど」

 楓を覗き込むようにして、九条は言った。

「なんのご用だったんですか? 結局、僕が僕の話で遮ってしまいましたけど」

「……あ」

 楓は小さく声をあげる。

「揚羽に、会えるかと思って」

「揚羽さんに?」

「揚羽が、なんかよくないことしてるみたいって学校で聞いたから。そこまでしてお父さんに会いたい理由ってなんなのか。……九条さんに頼んだら研究所に入れてもらえて、揚羽に会えるかな、って思って……」

 研究所から逃げて、行く宛てもないままの揚羽は目撃されたとき、何をしていたのか。それを思うと、楓の胸は締めつけられる。

「それに、……」

 楓は顔を上げた。九条を見る。彼は微笑んでいた。それはいつもの笑みではあったが、楓を戸惑わせた。彼が手を差し伸べてきたからだ。

「じゃあ、行きましょうか」

 九条がそう言ったので、驚いた。

「どこに?」

「気になるんでしょう?」

 九条はなおも、にっこりと微笑んでくる。

「真川博士も、揚羽さんも。最終的に行く場所は、ひとつです」

 どこのことを差しているのか、気づかないわけではない。そこに行くには九条の助けが必要なことも分かっている。ただ、戸惑っただけだ。目の前の九条は、かかわり合いになる理由などないのだから。

「……でも、九条さんは……」

 九条は微笑む。その笑顔に力を奪われたような思いで、楓は息をついた。

「最後まで見届けさせて下さい。僕にも」

 彼の笑顔に、楓は頷く。見つめてくる九条に応えるために微笑み、そうやって初めて、自分の頬がこわばっていたことを知った。



 以前、揚羽と間違えられて研究所の中に連れていかれたときとは違う道を通った。

 『工学研究部』と書かれたプレートのついているドアをくぐる。すれ違うひとに話しかけられてはにこやかに応える九条を、楓は不思議な気持ちで見つめていた。

「お待たせしてすみません」

 白衣を着ている九条は、申し訳なさそうに肩を引いた。

「いろいろと手間取りましてね。今日、やっと連絡がついたんです」

 頭を下げる九条を、楓は慌てて制する。

「お父さんは、元気なんですか」

 楓の問いに、九条はにこやかに答える。

「真川博士も、揚羽さんも」

「……あ」

 思わず声をこわばらせた楓に、九条は微笑んだだけだった。

「こちらです」

 『生体研究部』。白い壁、白い廊下、病院のようなところだ。工学研究部の建物よりも、こちらの方がどことなく冷たくよそよそしい感じがするのは気のせいだろうか。いやな思い出があるせいかも知れない。楓はぶるりと身震いした。

 建物の奥の奥にはドアがあった。何の変哲もないそれには、なんのための部屋であるのか示すためのプレートもない。部屋のドアを九条は叩いた。

「どうぞ」

 聞こえたのは、真川の声だ。九条は、失礼します、と言ってドアを引く。

 部屋の中にいたのは真川だった。そして、揚羽も。楓は大きく目を見開いた。

「な、に……?」

 驚いたのは楓だけではない。揚羽も同じだった。ふたりは顔を見合わせる。そして、楓は九条を、揚羽は真川を見た。

「どういうこと?」

「すまないね、九条くん」

「とんでもないですよ」

 九条は相変わらずの笑みで答える。揚羽の不愉快そうな顔、楓の戸惑いの表情。真川と九条は目を見合わせ、真川はにわかに口調を引き締めた。

「お前たちに見せたいものがあるんだ」

 真川は、壁の大きなモニタを見ていた。決して狭くはない部屋の、壁の一面を占領するくらいに大きい。そこにあるのは数字と文字の羅列。楓が見て分かるようなものではない。それは揚羽も同じだったらしい。揚羽は楓を指さして、声を荒らげた。

「なんでここに楓がいるのよ」

「ふたりに見てもらいたいんだ」

 落ち着いた声で、真川は言った。彼の差し示すモニタに映ったものに、みんなが視線を向けた。

 そこにあったのは、楽譜だった。見覚えのあるそれに、楓ははっと息を飲んだ。

「これ……」

「沖津博士が残したものだ」

「なに、これ」

 揚羽はモニタを見やりながら、眉をひそめて言った。

「楽譜なんて……」

 真川はスーツの胸ポケットを探る。折り畳まれた紙はモニタに映っているものと同じ、楓が真川に渡した楽譜のプリントアウトだ。紙の方にはたくさんの色での書き込みがあった。音符を横線で消したり、丸をつけたり。

「沖津博士の研究の核になる部分のデータがこれだ。この情報の入力によって、揚羽は作られたらしい」

「……!」

 揚羽はそれを奪わんとしてか、真川に飛びかかる。止めたのは九条だった。羽交い締めにしてくる彼から逃れようと、揚羽は暴れる。

「それだけじゃ、何も分かりませんよ。今までの研究データに当てはめて、そのうえで算出していかないと完全な情報にはなりませんから」

「あんたも知ってるっていうの?」

 揚羽はきっと九条を睨み、声を荒らげた。九条は困ったように手を離す。

「渡しなさいよ、それは、私……私のなんだから!」

「揚羽。落ち着きなさい」

 真川はそう言って、そして楓の方を振り向いた。

「言ったな。これは、沖津博士が残したものだ。音楽の好きなひとだったから……こういう形にしたんだとは思うが」

 真川は手にした楽譜を指し示す。それを乱暴に引ったくったのは揚羽だった。素早く揚羽が楽譜を開く。重ねられた二枚には、それぞれにタイトルがついている。

「この楽譜には、お前たちの名前がついている。『CAEDE』と、『AGEHA』」

「……は?」

 尖った声をあげたのは、揚羽だった。開いた楽譜に目を落とし、タイトルを見たのかはっとする。真川は、楓に向かって言った。

「どうして、お前の名前なのにCで始まるのかって言ってただろう?」

「……うん」

 楓は頷く。真川も楓に向かって首を縦にひとつ、振った。

「それがキーワードなんだ。Cから始まるお前の名前は、ドイツ語読みの音階だ。ふたりの名前の文字を音階に置き換えて、この楽譜にある音符に当てはめる。そして……」

「そんなこと、この子たちに聞かせていいの!」

 楓と九条を指さした揚羽が叫ぶ。

「やめてよ、私のものなんだから!」

「いいんだよ」

 真川は言った。

「これは、もう破棄するから」

「なにを……!」

「研究所には渡さない。あのデータも一緒だ」

 真川は、楽譜が映ったままの大きなモニタを指さした。

「そのために九条くんにも来てもらったんだ。確実にデータを破棄するために」

「そんなこと、させないっ!」

 揚羽が叫んだ。

「自由になるんだから。私を作って放り出した、沖津を見返してやるんだから!」

 髪を振り乱し、声を荒らげて揚羽は叫ぶ。真川につかみかかった手に彼の手を重ねられ、それを乱暴に振りほどく。

「……あ!」

 揚羽の体は崩れ落ちた。白いリノリウムの床に倒れ伏す。三人は駆け寄ったが、しかし誰が触れることをも全身で拒否する揚羽は、伏したまま呻く。

「私は死ぬためだけに生まれたんだから。私自身は必要ない。必要なのはこの体、クローンだっていう、この体だけなんだから。だから、私は……」

 自分の場所を得るために。そう叫んで顔をあげた揚羽が見たのは、真川の顔だっただろう。揚羽は彼の顔を、すべての感情をぶつける勢いで睨みつけた。

「沖津博士は、楓も揚羽も、平等に自分の子どもとして愛してたよ」

 真川の言葉に、揚羽は大きく目を見開く。楓も真川を凝視した。真川はふたりを交互に見つめ、微笑んで言った。

「その証拠を見せたくて、ふたりにここに来てもらったんだ」

「……バカなことを」

 吐き捨てるように言ったのは揚羽だった。

「バカバカしすぎて、笑えもしない。愛してるって? クローンを?」

 最大の侮蔑を孕んで嘲笑う揚羽の頬は、引きつっていた。

「どこからそんなバカなことを思いついたのよ」

「そうでなかったら、お前たちの名前をこんな大事なことのパスワードに使ったりしないだろうが」

「……っ!」

 揚羽は口ごもった。それ以上を揚羽が告げないままに、真川はモニタを指さした。

「これを見せたかったんだ。沖津博士が、お前たちふたりを大切にしていた証を」

 楓は揚羽を見つめている。わななく手をぎゅっと握りしめ、やり場のない感情に苦しむ揚羽を楓は見つめていた。

「楓」

 呼びかけられてはっとした。楓は真川を見る。そこに見慣れない真剣さを帯びた、父の顔を見つけた。

「……お母さんのことを、話したな」

「うん……」

 楓は何度か目をしばたいた。

「お前たちのお母さん……沖津夫人は、楓が心臓の障害を持っていると知って一番悲しんだひとだ」

 揚羽は、顔を上げない。真川の話を聞いているのか否か。

「沖津博士は、娘のためと研究者としての求知心のままに、人間のクローンの製作に着手した。そして揚羽が生まれた」

 いつもの揚羽なら、ここでぴしゃりと鋭い言葉を吐くところだ。しかし今の揚羽は、じっと真川を睨みつけているだけだ。

「夫人は、揚羽の心臓を使うことに賛成できなかった。ふたりとも自分の娘だ、と言ってね。どちらかをどちらかの犠牲には出来ないと、しかし楓を見殺しにも出来ない。」

 真川は息をついた。楓と揚羽を交互に見やる。

「人間のクローンが完成したことを知った研究所は、揚羽を寄越せと言ってきた。研究所に連れていかれる前に、彼女は揚羽を連れて逃げた」

 揚羽は、眉根を寄せた。そんな揚羽を真川は見つめ、そして続ける。

「沖津博士は、夫人と揚羽を逃がすために手を尽くした」

「え……」

 思わず声が出た。話が微妙に食い違っている。

「しかし研究所の人間につかまりそうになって、逃走するさなかに、事故死したんだ」

 揚羽は驚愕の表情で真川を見ている。

「嘘よ!」

 そして叫んだ。ヒステリックな声が部屋中に響く。

「嘘じゃない。そのときふたりにかばわれて、だからお前だけは無事だったんだ」

「そんなこと聞いてない! 嘘ばっかり言わないでよ!」

 真川は、冷静な目で揚羽を見た。

「誰から聞いたのかは知らないが、これが真実だ。事故現場に行ったのは私だ。遺体を確認したのも、揚羽、お前をここに連れてきたのも。私だから」

「そんなこと、知らない」

 大きく目を見開いて、揚羽は言った。その声は、語尾がかすれて消えてしまう。揚羽の体は、いつかと同じように崩れ落ちた。

「揚羽!」

 駆け寄った。あのときと同じだ。大きな声を出したり興奮したりするとこうなるらしい。楓の症状とは違う。それでは揚羽の障害は心臓ではないのか。

「動かすな!」

 揚羽の体に手をかけようとした楓は、真川の声にびくりと震えた。

「大丈夫だ。……疲れただけだから」

「……え?」

 顔を上げた楓は、真川を見た。その、悔しそうな表情。真川はその場にひざまずき、手早く揚羽を介抱する。揚羽の脈を取り、額を撫でる。それを楓は、じっと見つめている。

「……クローンは、老化が早いんだ」

 真川は小さく、楓にしか聞こえない声でつぶやいた。楓ははっと彼を見る。

「揚羽は、ほかに例のない存在だから。この子自身でしか研究の試行ができなかった」

 そしてため息をつく。

「早すぎる老化を食い止めようと、手を尽くしてきたんだが」

 真川は揚羽を見る。悲しそうに、見ているほうが痛ましくなる表情だった。

「あ……」

 楓は胸を押さえる。揚羽の額を心配げに撫でる真川の姿に疎外感を感じない、といえば嘘にはなるけれど。しかし。

「それがあなたのご自分に課した、ご自分の使命だったわけですね」

 九条の声が低く、しかしはっきりと聞こえた。この場においても、彼の口調は変わらない。優しく明るい声だった。

「……ああ」

「そのために、今まで研究を続けてきたんでしょう? 揚羽さんのために」

 真川は振り返る。九条を眉をひそめて見やった。

「でも、揚羽さんは知らないみたいじゃないですか

「こんなこと、知らなくていい。自分の寿命のことなんて……」

 口ごもる真川に、九条はにっこりと微笑んだ。

「九条くん、君は」

「分かってますよ」

 九条は微笑む。その顔は、見るものを安堵させる。それは真川にとっても同じだったらしい。

「別に、諦めたわけじゃないんでしょう?」

「当たり前だ」

「破棄、していいんですか」

 九条の言葉に、真川は得意げに微笑んだ。自分の頭を指で指す。

「ここに入ってる」

「さすがですね」

「だから、なんの痕跡も残らないようにしてくれ。どうやっても復旧できないように」

 うなずく九条が、あ、という顔をした。彼は傍らに視線を落とす。

「揚羽さん」

 いつの間にか揚羽が目を開けていた。じっとこちらを見ている。どこから聞こえていたのか、と慌てた。揚羽は楓と目が合うと、目の動きだけで視線を逸らせた。

「揚羽」

 楓は揚羽の横に膝をついた。揚羽の手を取ると、揚羽はいやがるように手を捩る。しかし楓の手を振りきるだけの力はなかった。

「……ほっといてよ」

 揚羽は投げやりな口調で言った。

「もう、いい……」

「何言ってるの!?」

 楓は思わず声をあげた。揚羽が驚いて楓を見る。真川も、そして九条も楓に目を向けた。

「だって……、私、まだ不幸になってない」

「……は?」

 揚羽のいささか間の抜けた声が聞こえた。何を言うのか、と楓を見るその顔に、楓は勢いづいて声をあげた。

「私を不幸にするんじゃないの? 生きて、私を不幸にするって言ってたじゃない!」

 何を言おうと用意したわけではない。ただ、胸に湧く言葉を連ねてぶつけているだけだ。楓はまた、声をあげた。

「私、不幸になってない。揚羽に不幸にされてない」

 揚羽は顔を背ける。背けた先には真川がいて、それを避けようとした揚羽の体は思うように動かないのか、諦めたようにため息をついた。

「ねぇ、ピアノ。やろう」

「……は、ぁ?」

 揚羽のかすれた声。その顔は訝しげにゆがみ、楓は彼女のバカにしきったような視線に晒された。

「ピアノ、弾いたことある?」

「そんなの、あるわけないでしょうが」

「教えてあげる。私、バイエルくらいだったら教えられるし。そして、あの曲……」

 楓は揚羽の握りしめたままの楽譜を指さす。

「あの曲、弾いてみようよ」

「……バカみたい」

 揚羽は言って、そっぽを向いた。再び目を閉じてしまった揚羽の心は、その表情からはわからない。

「ねぇ、弾こう? 弾いてみよう?」

「そんなことして、どうするのよ……」

「楽しいじゃない。私が、楽しかったから。揚羽もやってみたらって思って」

 揚羽は黙ってしまった。また意識を失ったのかと心配する楓は、しかし揚羽の小さな声に安堵した。

「バカじゃないの、あんた」

 九条が立ち上がる。彼はモニタの前に立った。キーボードを打つ音が響き始める。その早さは真川の比ではなかった。

 揚羽は何も言わない。九条のキーを打つ音は聞こえているはずなのに、彼が何をしているのかは分かっているはずなのに。声もあげないのは体が辛いからなのか、それとも。

「なに、あんた。自分が元気なこと見せびらかしたいとか、そういうこと?」

「そんなんじゃない」

 揚羽は楓を見つめる。楓も、視線を返す。絡むふたりの眼差しのうち、先に緩んだのは揚羽の方だった。

「……ふん」

 そして目を逸らせてしまう。楓には見えないように、揚羽は顔を背けてしまった。

「揚羽……」

 揚羽。同じ顔をした彼女に、心の中で呼びかけた。

 私がもらってきた幸せをあなたに返したい。私がもらってきた幸せを、あなたにも知って欲しい。

 あなたも、私も。愛されるために生まれたのだから。



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