首尾よくいけば ~Nice Work If You Can Get It
#9
女性講師が冷ややかな眼で一樹を見据える。思わず反発してむっとした表情を浮かべても、彼女はこれっぽっちも堪えてなんかないようだった。
「ハイ、ミスター…」
「カズで結構です。みんなからそう呼ばれるので」
一樹は立ち上がり、好奇の視線を跳ね返すように虚勢を張った。
「OK、カズ。この進行の特徴は?」
「典型的なツーファイブですね」
「そう考えた根拠は?」
講師の質問に答えるより、英語のヒヤリングにばかり気を取られた。訊かれている内容はあまりに彼にとってはなじみ深いものばかりだったから。
「キーはFですね。Gm7からC7へと動いていますから。って、ホントにこんな答えでいいんですか?」
さすがの一樹も不安になってきた。ここまで初歩の初歩を訊かれるとは思っても見なかったからだ。
「よくってよ。じゃあ、もう少し実践的なことを訊くわね。あなたならこのコード進行に何のスケールを持ってくるつもり?」
講師の表情は変わらない。一樹は素直に、じゃあGを元にと言ってみた。他には?淡々と彼女が質問する。
「トーナリティ(調性)がわかりやすいようにFを使いましょうか。でもスタジオの仕事なら…」
「スタジオワークなら?」
ここで一樹は言葉を切り、美しい講師ににやりと笑ってみせた。
「もちろん、C7の一発で楽をしようかと」
とうとう彼女が小さく笑みをこぼす。細く長い指先を口元に当てて。
他の連中がキツネにつままれたようにきょとんとする中、二人はしばらくこのシンプルでいて汎用性の高いコード進行に、いかに過激な音を乗せるか語り合った。
ふと、彼女があわてて言葉を止めた。
「あー、ごめんなさいね。こんな話をしていたらいくら講義の時間があっても足りないわ。カズ?」
はい?音楽談義の余韻を残したまま笑顔で聞き返した一樹に、一転して冷たい声色を取り戻した講師はこう言い放った。
「あなた、何のためにこの講義を取ったの?」
何でって。一樹は面食らった。だってそれはロマーノ先生がそうしろと言ったから。けれどそんな言葉を返すことすらためらわれた。確かにおれは、高い旅費と学費を払ってまで、ここでツーファイブを習いに来たんじゃない。
口ごもる彼に、彼女は追い打ちを掛ける。
「講師の後任を狙っているのなら、来るべきところは大学本部であってここじゃないわ。私はこの地位を譲るつもりもないし、挑戦するというのなら受けて立つわよ」
「そんな…、僕は本当にただの学生としてジャズを基礎から学ぼうと思っただけで!」
「だったら」
彼女は厳しい表情でドアを指さした。
「他の受講生の邪魔よ。早く出て行って頂戴」
一樹はその台詞に、ただ立ちつくすしかなかった。
どの講義に出ても、結果は同じだった。
穏やかで優しい講師に当たれば、親切に取るべきコマを教えてくれることもあった。しかし、酷いときは門前払いだ。「この間、ハウスバンドで吹いていた君だろう?ここに来たって意味はないよ」と。
初級のセッションを取ったときも、一樹が一小節吹くか吹かないうちに皆が演奏を止めてしまった。
「これだから日本人は。謙遜も度が過ぎれば厭味だと言うことがわからんのかね」
苦々しい口調で追い出されることも一度や二度ではなかった。
音のあふれる外のベンチで、一樹は力なく座り込んだ。
「何がしたかったんだよ、ロマーノ先生は。行くとこ行くとこ、おまえに教えることなどない。全部が勝手にテストアウトしてくれ!じゃねえか。ただの日本人いじめか?おれがマリコの弟だからって気にくわねえのかよ!」
さらさらの栗色に右手をつっこみ、髪をかきむしる。こんなことをしている場合でもなければ、おれには時間的な余裕すらない。いつまで吹けるかなんてわからない。ここでつまずいてるわけにはいかないんだ。
三年前に受けた化学療法で、一樹の腕は症状が抑えられ、今は寛解状態と言っていいはずだった。確かに、ボストンでの治療も受けるようにと紹介状は書いてもらってある。けれどアメリカのバカ高い医療費を考えると、たかが検査に出かけていく気にもなれなかった。
おれの手が、腕が動くうちに。おれがおれでいられるうちに…。じりじりとした焦燥感が一樹を襲う。
…おまえは真理子とは違う…
違わない!同じ高橋の家に生まれ、ずっと音楽に携わってきた。どれほど規模が小さいとしても、ステージはステージだ。おれはれっきとしたプロのミュージシャンだ。ただただ、吹いていられればそれでいい。姉ちゃんだってそれは同じはずだ!
何が違う…ん…だ?あの人とおれは、何が違うというんだろう。音を出すことに違いなんてない。技術の差か?表現力の問題か?おれだって吹けば周りを熱狂させ、スタンディング・オベーションの嵐だ。
その大舞台を、姉にはちゃんと用意してやったじゃないか。どうしておれには、何一つ分けてくれなかったんだ?
「おまえの演奏には華がない。小器用なだけだ」冷たく響く父の宣告。
「才能なんて曖昧な言葉、私は嫌いよ」言い切る姉の揺るぎない自信。
越えられない。
そうじゃない!越えたいからこそ、ここに来たんじゃないか!吹きたい。何でもいいから音を出したい。おれを受け入れてくれる場所を見つけたい。
一樹がトランペットのソフトケースに手を掛けたとき、はなやいだ声が耳に飛び込んできた。
「ハイ、…ええと、カズ?お久しぶりね」
同じように肩からケースを掛けているのは、ハウスバンドの二番トランペッター、シェリルだった。伸びやかな高音と、多彩なフレーズのアドリブソロ。あのときの音が脳裏に思い出される。
「ああ、こいつが例のマリコの弟ってヤツだろ?ファーザーズ・コートテイル(親の七光りの意)じゃなくて、シスターズ・ヘムラインか?」
隣にいた長身の男が、あからさまに嫌みったらしく嘲りの声を出す。何だこいつ!?ケンカ売ってるつもりか?
シェリルにこっそり、彼氏?と訊く。冗談じゃないわよ!いくらあたしでもこんなに趣味悪くないから!小声で彼女が言い返す。
チェックのコットンパンツに真っ赤な靴、シャツの上からは革製のベストを合わせ、帽子はカラフルなパッチワーク。シェリルよりは濃い金髪を束ね、やせぎすの身体に…やはりラッパのソフトケース。
ちぐはぐな男。それがブライアンを見た第一印象だった。これが首席を勝手に名乗ってるリードトランペットか。
「挨拶が遅れてごめん。ぼかあ、伝統あるここバークリー音楽院のハウスバンドでリードを取っている…」
「ブライアン・コールマン。知ってますよ。有・名・だ・か・ら」
思い切り日本風の発音で強調してやったら、隣でシェリルが肩を震わせていた。自信過剰のナルシスト。それに加えてこの奇抜なセンスだ。構内を歩いていればイヤでも噂は耳に入る。それでも、確かにリードを任されるほどなのだからうまいんだろうな。
「君は入学したてなんだって?で、レベルはどの辺なのさ」
一度くらいは、この男のトランペットを聴いてみたいとは思った。自信とはどうやって身につくものなのかということを、一樹自身も知りたかった。敢えてレベル1だと正直に言ってみた。二人が目を丸くする。シェリルは息を飲み、口元を押さえた。
ブライアンは…これ以上ないと言うほどの大声で笑い出した。
「あはあはあははは。こりゃあいい!あの才媛タカハシマリコの弟君は初心者コースからスタートですか!?トランペットはいつから始めたんだい?先週?」
そう言って、辺りをよろよろ歩き回りながらずっと笑い続けている。シェリルが、ほっときなさいよあんな男、と冷たい視線を送ってから、一樹に詰め寄った。
「ねえ、それ何かの間違いでしょう?」
「おれもそう思うよ。実際、どの講義に出てもすぐに追い出される。ここはおまえなんかの来るところじゃないってね」
「当たり前よ!あれだけの初見能力とハイノート。耳も良ければノリもいい。あなたがレベル1であるはずないでしょう!?いったい誰がテストしたって言うの?」
憤懣やるかたないといったシェリルに、一樹はロバーノ先生がと告げた。途端に彼女は黙り込んだ。そう…ジョーが…。その先が続かない。
「もちろん、片っ端からテストアウトは受けてるよ。でもとても追いつかない。ねえシェリル?どうして先生はそんなまどろっこしいことをさせたんだろう」
しばらく考え込んでいた彼女は、突然にっこりと笑顔を向けた。
「必要なのよ、きっと。うんと自分で探してみたら?どうしたらいいかなんて」
そんな、シェリルまでおれを見捨てるなよ。一樹の声があまりに情けなかったのかも知れない。彼女は口元をきゅっと引っ張り上げると、いたずらめいてさらに笑った。
「あ・の・ね。親切だから教えてあ・げ・る」
うんうん、一樹は必死に頷く。
「ジョーはきっと、それをあなたが自分で考えられるように、という願いを込めてレベル1にしたんだわ。まあ、一人でがんばってみて」
そう言うと彼女はまだ笑い続けていたブライアンを引っ張って、去っていこうとした。待って、と声を掛けるも手を振るばかり。
ふと、引きずられていたブライアンがくるりと一樹の方を向くと、まっすぐに指を一樹に突きつけた。
「な、何だよ!?」
「おまえにリード・トランペットの座は渡さない!!」
勝ち誇ったように高らかに言い放つ。やっぱバカだ、こいつ。
「あのねえ、おれは別にビッグ・バンドになんか興味ないし。だいたい、日本じゃそんな仕事はもう需要もないし」
「このオレ様より評判が良かったってだけで、おまえは許さない。覚悟しておくんだな!」
覚悟って何だよ…。これ以上のやっかいを抱え込みたくはなかった。バカは放って置くに限る。ため息をつく一樹に、ブライアンは声をひそめた。
「ビッグ・バンドに興味がないのなら、コンボには自信があるって言うんだな?」
「はいっ!?おれ、あんたとからむ気はさらさらないんですけど」
「ウォーリーズのセッションナイトで待っている。闘う前に逃げ出すなよ!?」
はあ!?ウォーリーズって言ったら、ボストンで一番有名なライブハウスじゃねえか。
呆れて二の句が継げなくなった一樹と、気恥ずかしさに顔を赤らめたシェリルを尻目に、ブライアンは高笑いを続けた。
セッションナイトで実力を試せ、か。確かにそれも悪くはない。ただし、相手がこいつじゃなければな。
一樹は、ここボストンに来てから何度目かわからないほどのため息をつき、自由な右手で頭を抱え込んだ。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved