私のお気に入り ~My Favorite Things
#8
「はい。鎮痛剤と、水。これでいいのかなあ」
洋輔はかいがいしく一樹の世話を焼きつつも、物珍しそうに部屋の中を見回していた。
ボストンの閑静な住宅街にある洒落た高級アパートの一室。そこにはアール・デコ調の備え付けの家具と、淡いパステル調の小物とが混在していた。どちらも一樹の趣味とは合いそうもない。
「姉ちゃんの部屋なんだ。もろ、夢見る天然乙女系だろ?家賃タダで住んでやるからって借りたはいいけど、部屋入ったとたん目が回った」
痛みをこらえて一樹が苦笑いする。拝み倒して住居費を安くあげただなんて、悔しくて言えっこない。彼にだってプライドもあるのだ。
「仲がいいんですね、マリコとは。ボストン住民にしたら羨ましいですよ」
あくまでも人の良さげな洋輔は、何の屈託もなく笑顔を向けた。
「仲がいいってほど、一緒に暮らしたこともないよ」
一樹は思わず、正直に口をすべらせた。高橋の家のごたごたなど、下手に話がもれたら大変なことになる。
それでも、洋輔には人を安心させる何かがあった。ふんわりと他人の心を開かせる何かが。姉にはあるはずの、おれには…ないもの。
愛情を惜しみなく受けて育てば、誰でもこんな風に笑えるんだろうか。うらやむ気持ちか、やっかみか。複雑な思いで洋輔を見上げる。
「どうしてマリコがボストン市民に受け入れられているか、知ってますよね?」
もらっちゃっていいですかあ?勝手に冷蔵庫の中からミルクを取り出すと、その辺のコップに注いで隣に座る。洋輔の行動はあまりに自然で、警戒心を抱かせない。
実の弟が知らないはずもないだろう。こんなニュアンスで他のやつに言われたら殴りかかっていたかもしれない。それくらい、一樹には嬉しくない話題だった。
でも今は、素直に首を横に振った。
「さあね。お互い仕事の話は滅多にしないし、そもそも姉ちゃんはジュリアード出身だし。こんなにボストンと縁があるなんて本気で知らなかった。バークリーに来ようと思って調べたら、たまたま姉ちゃんも部屋を持ってたから何も考えずに借りただけだよ」
世界中を演奏のためだけに飛び回る。ホテル住まいは落ち着かない。それだけの理由でいくつも部屋を持っている姉。それは父親も同じだ。同じ家に生まれ、同じ血筋を持ち、高橋を名乗る二人だけの姉弟。けれど、おれはどうあがいたってあの人たちの仲間には入れない。口に広がる苦い味。きっとさっき飲んだ薬のせいだ。一樹は無理やり思いこもうとした。
そう、薬のおかげで痛みは和らいだ。もともと…痛むはずのない腕なのだから。動かないのは左手の三本の指だけ。全く神経だって切れているのに、傷口も何もあったもんじゃない。それでも時おり襲う左腕全体の痛みに、誰にも言えない不安を抱えているのは本当だった。
だから、だからこそできるだけ自分の付加価値を高めて、この業界で生き残りたい。どんな場末のステージでもいい。片隅でいい。いつまでも吹き続けられるなら。
そんな一樹に高橋の名は重すぎた。高すぎる壁が行く手を阻む。押し潰そうとしてくる。もがいてももがいても、離れやしない。この名前はこれっぽっちも、あの頃のおれを助けてなんぞくれなかったくせに!
黙ってしまった一樹に、洋輔は優しげな視線を向けた。
「ボストンシティフィルに彼女が客演で初めて参加したのは、確か十一歳の頃だと聞きました。白熱した演奏に、一番細いE線を切ってしまった彼女は…」
似たようなエピソードなら聞いたことがある。やはり幼少時から有名な天才ヴァイオリニストは、動揺することなくコンマスから楽器を借りて最後まで弾ききったという。
都市伝説だな、ここまで来ると。祭り上げなきゃ気が済まないのは、どこでも誰でも同じってわけか。
「ガキのくせして冷静に楽器を取り替えたって話だろ?それは別人じゃなかったっけ」
一樹の揶揄するような口調に、穏やかに洋輔が言葉を返す。
「いいえ。五嶋さんのエピソードではありませんよ。マリコは三本の弦のまま、すべて指遣いを瞬時に変えてオーケストラと堂々と渡り合ったんです」
本来、細く繊細な音色を奏でるはずのE線。それを別の太い弦で弾いたというのか。一樹が目を見開く。
「カズのお姉さんの自慢をボクがするのも変な話ですけどね。通常とは違うけれどもかえって豊かなその音は、彼女の熱情的な表現と相まってすばらしい演奏だったと。今でも当時を思い返して熱く語る市民は大勢います。別にアクロバティックな演奏だったからではありません。何があろうとステージが始まったらそこは別世界なのだと、幼い彼女がそれを体現してみせたからでしょう。弾き終わってから見せたあどけない笑顔が、さらに聴衆の心を掴んでしまった」
洋輔の静かな声は、普段なら心にささくれの傷しか作らないはずの姉の話を、そのまま一樹へと伝えてくれた。
そんなやつだ、姉ちゃんは。ステージに上がればたった一人で音楽と真正面から対峙する。何かに取り憑かれる。うまく弾こうとか感動させてやろうとか、作為的なものなんかない。生きて呼吸するのと同じように、あの人はヴァイオリンを弾くんだ。
「カズも同じです。やっぱり姉弟なんだなって、ビッグバンドのライブでそう思いました」
タダの世間話。洋輔が気軽に口にしてくれるおかげで、一樹はそれを黙って受け入れ続けた。同じはずであるわけがない。かたや世界を相手だ。おれは…たかだか素人相手にジャズの真似事をしているに過ぎない。
わかっていても、彼の心遣いが嬉しかった。
「カズはわかってないんですよ。自分の凄さが」
「オール・レヴェル1のおれが?」
皮肉ではなく、苦笑いで答える。テスト・アウト(進級テスト)を受けていいと言ってたじゃないですか!なぜか洋輔の方がムキになる。
「ボクにはだから、どうしても納得できないんです。J・ロバーノはとてもいい先生ですし、あの様子では何らかの意図があってカズを1に入れたのでしょう。でも、その意図もカズが黙って受け入れてしまうことも、何もかも不思議で」
「おれは、大人しそうなおまえが突っかかってきた方が不思議だよ。ここはアメリカです!ってさ」
温和そうな彼にも、音楽への真摯な思いはあるのだろう。当然だ。わざわざ日本の音大を卒業してから、ここに入り直すくらいなのだから。昔と違って、今のご時世にバークリー出身という名前だけで仕事がもらえるほど、日本だって甘くはない。
「プロ…になりたいんだ。おまえも」
「いいえ、違いますよカズ」
洋輔はミルクの入ったコップを持ったまま、一樹に向き直った。柔和な瞳の奥でかいま見える芯の強さ。
「プロになりたいんじゃないです。なるんです。そのためにここにいるんですから」
一樹の顔から笑みが消えた。
「それは誰と比べて、ではないです。ただ、ボクなりにボクのできるスタイルで。そこだけは譲れませんね」
凍り付く一樹と対照的に、洋輔はにっこりと微笑んだ。
アナリーゼ(楽曲分析)の講義には、さまざまな国の男女がすでに集まっていた。どのクラスも少人数。一度限りのクラスもあれば半期を通してのものもある。授業の形式もよく変わるから、情報収集は怠れない。
トランペットケースを肩に掛け、おずおずとドアを開けた一樹に視線が集まる。あからさまな好奇心。負けん気を出して彼もにらみ返す。確かにアジア人の占める割合は多い。
-これがレヴェル1。
見下すつもりは全然ない。もともと基礎からしっかり勉強したいと願ったのは一樹自身だ。周りはほとんどが英語を母国語としないやつばかり。それぞれの訛りがきつくて何を言っているのか、よくわからない。それでも臆することなく彼らは音楽談義に花を咲かせていた。持っている希少価値のあるレコードから、親交のあるミュージシャン自慢。見に行ったライブの回数を競うやつらがいるかと思えば、どれが一番貴重ですばらしかったかを力説するやつ。
そんな中で気後れして黙り込んでいた一樹を、連中が放っておくわけがなかった。
「chinese?」
屈託なく早口で話しかけてくる。一樹がようやく聞き取れたのはこの単語だけ。
「no,no,from japan.japanese!」
怒鳴るように言わなければ伝わらない。話ができるんじゃないか。そんなニュアンスで質問攻めにあう。待ってくれ!頼むから五人いっぺんにしゃべるんじゃねえ!!
訳もわからぬ英語の洪水から一樹を救ってくれたのは、にこりともしない美人講師だった。講義室へとヒールの音も高く入ってきた彼女は、挨拶もせずにいきなりプリントを配り始めた。
…いきなりペーパーテストじゃねえよな…
通信高校での冷や汗だらけの記憶がよみがえる。そして付け焼き刃の英語の試験。勉強ってものにろくな思い出なんかない。一樹は渋々、配られた紙を裏返した。
ほう。ようやく一安心だ。これはおれがよく知る言語だ。そこに書かれていたのは、コード進行とメロディー・ライン。西洋音楽の楽譜だけは世界共通なんだから。ざっと見渡すとごく簡単な「Ⅱm7→Ⅴ7→Ⅰ(ツーファイブ)」進行だった。ジャズの初心者が必ず習う初歩の初歩。もっとも一樹にとってはまずは音ありきではあったけれど。
きつめのアイラインが目立つ白人の講師は、ためらうことなく次々と生徒を指名していく。なぜその音を使う必然性があるのか説明せよ。いくぶんテンポを落とした丁寧な英語。留学生が多いのに配慮してくれているのか。一樹は胸をなで下ろした。
彼とは逆に、先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、あわてふためいておろおろし出したのは他の連中だった。
一樹だって理論立ててジャズを勉強したことなんかない。だからこそ、ここに来たのだから。それでも彼らのしどろもどろさに、かえって一樹は焦り始めた。
…こいつら、もしかしてツーファイブの意味もろくに知らず、ここにいるのか?…
あまり知られていないが、バークリー音楽大学がきちんとした入学試験を実施するようになったのはつい最近のことだ。「学びたい者へ広く門戸を開く」が理念だったのだから。
彼らのとんでもない解釈を聞きながら、自分の番が来たらどう答えたらいいのか、一樹はこっそりとため息をついた。
(つづく)
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