愚かなり我が心 ~My Foolish Heart
#7
J・ロバーノと書かれたプライヴェートルームの前で、一樹と洋輔は大きく息を吸った。一樹の手には一枚のプリントアウトされた紙。当然すべて英文のそれは、彼の成績が載せられていた。ようやく受けられたつい先日のテストで振り分けられたクラス。尚子に見せたら爆笑されたもの。
「ねえ、ナオコちゃん。これってもしかして…」
「ひゃあああ、やめてえ。く、くるしー」
尚子ちゃん、笑いすぎだってば。いつも必死に洋輔がフォローに回るが、彼女は容赦ない。
「だってさ、日本であれだけプロですって威張ってたカズがだよ?オールレヴェル1、つまり初心者クラスだって。笑えるー!」
一樹はむすっとして黙り込んだ。負けず嫌いの彼にしたらこれ以上ないほどの屈辱だった。そりゃ、基礎からきっちりと習いたいと願ったのは自分だった。クラシックだとて中途半端に終わっている。ジャズに至っては全くの独学だ。しかしあれだけのハイノートと譜読みの力と、どんなスタイルにも合わせられる小器用さと。スタジオで困ったこともないし、ステージだって日本にいれば次々と声がかかる。現に、ここバークリーでさえ、ハウスバンド相手にあれだけの演奏をして見せたのだ。
…おまえに才能はない…
父の言葉が反芻される。これが実態、これが現実。おれの実力は結局こんなものだったのか。きちんとしたジャズの専門家から見たら、冷静に判断されたら。
ならば荷物をまとめて日本へ帰るか。尻尾を巻き、身を隠すようにスタジオと小さなステージに立ち、目立たぬように吹き続けるのか。そしていつか、もうおまえは明日から来なくともよいという宣告を受けるまで悪あがきを続け。
一樹は一人唇をかんだ。
そんな彼の腕を引っ張り上げたのは、洋輔だった。とまどう一樹に珍しく強い口調で言い立てる。
「こんなのおかしいです!ナオコちゃんはそう言うけれど、あの演奏を同じステージで聴いた者としてはこんな結果はとうてい納得できません!」
「洋輔…」
どうするつもりだ?という一樹のつぶやきは無視するようにどんどん歩いてゆく。
「待てよ、どこ連れて行くんだよ?」
「担当教官の先生はわかっているんでしょう?今から行きましょう。誰かの成績と間違えているかも知れません。先生の勘違いかも知れないでしょう?抗議に行くんです!」
普段おっとりしている洋輔が、大声でまくし立てる。逆にあわてたのは一樹の方だった。
「よしてくれよ、これが冷静な判断だろ?おれの実力はこんなもんだったんだ。それがわかっただけでもよかったよ」
「カズ!!ここはアメリカです!!」
真剣に一樹を見据えて洋輔は語調を強めた。一樹は思わず黙って見返す。
「自分の実力を信じなくて、どうしてここでやっていけるんですか?納得がいかないのなら自分の主張を通さなくてはダメです!黙っている人間に、誰も手なんか差し伸べてくれないんですよ?カズは今さら五線譜の読み方から勉強したいんですか?そんな余裕があなたにあるんですか?手っ取り早く技術を盗むように吸収して、自分なりのスタイルを確立して、ミュージシャンとして独り立ちしたいと思ったんじゃないんですか!?」
おれは…。一樹は言葉が続かなかった。穏やかで控えめにしか見えぬ洋輔にも、これだけの想いがあるのだろうか。おれはどうだ。そこまで覚悟を持ってここに来たのだろうか。
「カズがどう思おうと、僕には、あの演奏を間近で聴いた僕にはとうてい納得できません。これは正当な抗議です。さっさと先生のところに行きましょう!」
ここは、アメリカ。日本ではない。いい演奏をしさえすれば次の仕事の声がかかる、そんな甘いことは言ってられないのだろう。一樹は右手をぎゅっと握りしめた。
ドアの向こうから微かにメロディーが聞こえる。生音ではない。CDか生徒の音源か。意識が音に向いていた一樹を洋輔がつつく。
覚悟を決めて彼はノックをした。
ドアの向こうには、落ち着いた表情で譜面を見つめるジョー・ロバーノが座っていた。書類に埋もれたデスクの片隅で、音を聴きながらスコアを埋めてゆく作業。トランペッターとして今も現役で活躍する一方、こうして後進の指導に当たっている良き講師。彼の評判は上々だった。実際彼の元でテストを受けた際も、一樹にわかりやすい発音で温かい声を掛けてくれたのも事実なのだ。
「僕が言いましょうか?」
小声で囁く洋輔を手で制して、一樹は一歩前に踏み出した。父の前で何か言うときとは違うはずだ。それでも実力がないと宣告を下した張本人の前で、彼は胸の鼓動が抑えきれなかった。
「ハイ、君は確か…」
「カズ・高橋一樹です。先日レヴェル分けのテストを受けさせていただきました」
にっこり笑ってロバーノは手を差し出した。ためらう一樹の右手を取り、握手をする。そして、マリコは元気かい?と彼に問うた。
一樹の表情が苦しげに歪む。ああ、やはりここへは来るのではなかった。ロバーノのところではなく、ボストンなどには。
じゃあどこだったらいいんだ?世界のどこへ行ったって、姉の、父の名前はついて回る。弟がいるなど知らなかった。ミュージシャンだったのか。へえ、この程度か。幻聴までが聞こえるようで吐き気がする。この場から走って逃げ出してしまいたい。
「姉には…最近会っていませんから」
社交辞令で返せばいいものを。自分の意固地さが厭になる。それでもロバーノは微笑んだ。
彼女とは何度かステージでね。ここの音楽祭のときに、私のアレンジで書き譜のソロを弾いてもらったんだが、いいセンスをしている。ボストン市民としては当然、私もマリコの大ファンでね。
世辞を言っているわけでないことは伝わってくる。ここに住んでまだわずかだというのに、彼らがどれだけ姉をアーティストとして愛しているか、様々な場面で思い知らされるからだ。
「…ありがとうございます。姉に会ったら伝えます。今日伺ったのは、どうしてもお訊きしたいことが」
ロバーノは黙って一樹の次の言葉を待ち続けている。洋輔もハラハラと部屋の隅で見守るばかり。一樹は思いきって口を開いた。
「なぜ僕が、レヴェル1クラスなのか。納得がいきません」
もっとたくさんの言葉を用意していった。辞書を引き、あらかじめ単語も覚えた。しかし彼にはそれだけ言うのが精一杯だったのだ。
ロバーノは優しげな瞳を向けると、私はそのクラスこそが君にふさわしいと思ったのだがね、とゆっくり言った。
一樹の頬がかあっと熱くなる。どれだけ高い音が出せようと、指が回ろうと、音楽の才能はないとここでも言い切られるのだろうか。
「でも僕は!」
カズ。あくまでも穏やかなロバーノの声。何と続くのか聞くのが怖かった。あきらめろと言われてしまう気がしてならなかったから。目を堅くつぶる。
「君はどんな音楽がやりたいんだい?」
ハッとして一樹は顔を上げた。どんな、どんな音楽?おれはただ、この先もずっと吹いていられたらとしか思っていないというのに。譜面を渡されたら、曲調を指定されたら、どんな注文にも応えてみせる。いくらでも吹ける。それだけではダメだというのか。頭の中に渦巻く小さな嵐。
今まで考えたこともなかった。新しいおもちゃで夢中になって遊ぶ子ども。一樹にとっての音楽は、いつだって一人遊びのための道具。高い音を出して褒められる。細かいパッセージを軽々と吹いては重宝がられる。彼がこの世の中で認められるには、それしかないと思っていたから。
ぞくりとした。自分の中が空っぽのような気がした。才能がないというのなら早いとことどめを刺してくれ!
黙ってしまった一樹に、ロバーノがそっと告げる。
「急ぐことはないよ、カズ。それを見つけるためのレヴェル1だ。納得がいかないのならテストアウトを受けなさい。いつでもレヴェルアップする権利は君にあるのだから」
それだけ言うと、もう話は終わったとばかりにベテランの講師は自分の楽譜に目を落とした。
そっと頭を下げて部屋を出る。こみ上げてくる何かがこぼれ落ちないように。
「カズ!待ってくださいったら、ねえカズ!!」
あれでいいんですか!?それでも食い下がる洋輔に何も言い返さず、一樹は音のあふれる構内を歩き続けた。
どんな…音楽。新しい音を創造できうる者だけが真のアーティスト。姉にはあるだろう、もちろん父には当然。おれにないものは、それだというのか。
地面が揺れるように目が回る。その場にうずくまりたいほど気持ちが悪い。技術を身につけて少しでも長くプレイヤーとしてやっていくことしか考えないようにしていたのに。
痛覚さえないはずの左指から未だ動く腕にかけて、ツキンとした痛みが走る。思わず右の手のひらで肘を押さえる。
痛い、いた…い。どこが痛いんだろう。膝から崩れるようにその場にうずくまり、彼は歯を食いしばって痛みをこらえ続けた。
(つづく)
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