ある晴れた日に ~On a clear day
#61
ペインセンターへの通院に加えリハビリが始まる。かなりの期間つかわれることのなかった左肘は曲げるだけで痛みが走った。
日常生活に支障がどうのだなんてどうだっていい。ステージで楽器を支えることができるんだったらそれで十分だ。ワンステ一時間。場合によっては二時間半。それだけあればあの場所に戻れる。
一樹はまた、あのまぶしい空を見上げた。
もう手放したくないという思いだけでいつも楽器ケースを持ち歩くようにしている。遠目にはただのワンショルダーバッグにしか見えないだろう。使い込まれた革のソフトケース。肩にはずしりと重みがかかるが、そのことでさえもうれしい。
緑の木々に囲まれた中庭には光が差し込み、ベンチには多くの人影。病院であることすら忘れてしまいそうだ。
ピアニシモなら吹いていいだろうか、サックスのようなサブトーンなら。
ささやくような微かな音で吹くことなどふだんの一樹には造作ないけれど、そこまで今は体調が戻っているとは言えない。でかい音よりずっと大変なんだ、音量を抑えて演奏するってのは。
あきらめて彼は頭の中で音を追いかけ始めた。曲名もない自作曲を。
コードの音を紡ぎ合わせてアドリブを取ることは何でもないけれど、それはちゃんと原曲のイメージと進行が身に染みついているからできることであって、全くの無から他人に聴かせられるほどのメロディを作り出すことはまた別の話だった。
追い払おうとしてもついてくる東京組曲の旋律がまとわりつく。あれ以上をだなんて無謀なことは言わないけれど、作曲科に移って書き連ねた音は皆、どこかで聴いたものをなぞって見せただけ。
あの曲を作ったのが父親でなかったら、頭にあるクラシックのレコード棚に放り込んで終われるのに。
CDじゃない。きっとあれは古めかしい黒い円盤がふさわしい。
ふと我に返って一樹は頭を振った。今の自分ができることはゆっくりと体調を整えること。それから一つ一つの音をていねいに調整すること。学生の身分でいられる今しかないのだ、そんな悠長なことを言っていられるのは。
近いうちに帰ろう、自分のステージに。尚子はああ言ったが、一樹にだって演奏する場が保証されているだなんて言い切ることはできない。テレビも雑誌ももう新しいおもちゃがいくらでもあるだろうし、サポートの仕事もブランクがあってさらにちょっとばかり顔が売れてしまったせいでかえって使いづらいと判断されてしまうかも知れない。
そして…いつ孝一郎の「心配」という名の束縛が自分を縛り付けるかわからないのだから。
カシャン。
軽いシャッター音に驚いて振り向くと、アンジェラが一眼レフを片手に微笑んでいた。
「ハイ、カズ。ごめんびっくりした?」
ちっとも謝る気持ちなどないような涼しい顔に一樹はわざと舌を出してみせた。
「けだるい、で合ってる?その雰囲気はなかなか出せないわよ」
「アンジェラ、あのな」
アンジーでいいから。そう言うと巻き毛を二つに無造作に結んだ若い白人女性は一樹の横へとさっと座り込んだ。
「学費稼ぎのバイトも大変だよね。こんなただの一般人を撮って雑誌に載せるクォリティに仕上げろって言われてるんだろ?」
まさか。アンジーはふっと笑ってカメラをケースにしまう。それほど大きくはない。
「仕上げはデータを送れば日本で専門の人がやってくれるし、素材だけ撮っておいてって言われてるだけ。楽なもんだって、観光客のツアコンもどきよりよっぽど」
面白がる口調に一樹の表情が曇る。ああそうだよな、こっちへ来るときの契約はまだ続いていた。毎月女性雑誌の一ページ分コラムと写真を載せること、と。コラムだってメールで何をしたかを数行送れば、見事に粉飾された文章がカラーページを彩る。
音を出す仕事は文字通り身を削るものなのに、高橋の名前を使えばおれはいくらでも食っていけるんだ。
この仕事を思い出すたびにそれを思い知らされ、気の毒なアンジーはだから常に一樹の八つ当たりを浴びることになる。
「あのさアンジーは腹立たないの?おれみたいな何もしてない人間がただ座って写真撮られて金がもらえる。君はこれでもかってバイトのはしごをして学費をかき集めてる。理不尽だとか不公平だとか」
別に。イヤミ一つない瞳で見返され、逆に一樹は怯えた。見下すでもなく怒るでもなくフラットなその表情に黙らされる。
「たまには真面目に言い返してみましょうか?カズのフォトには価値がある。だから仕事として成り立つ。一般人じゃないからこそ、でしょ?」
おれは何も…。姉ちゃんがすごいってだけでさ。口ごもる自分がなぜか悔しい。
「それってさ、あたしも日本の出版社に伝えたのよ。こっちの雑誌にも転載すればずっと宣伝効果が上がるのにって。ボストンでマリコを知らない市民はいないってくらい愛されてるんだから、その弟のアンニュイな横顔なんて載せたらすごいんじゃないかな。でも、なんて言われたと思う?」
本気でわからずに口元を曲げる。知るもんか、どうせおれは無名だよ。
「申し訳ないけれど日本で高橋真理子ってフルネームを知ってる人はそんなにいませんよ、だって。美人ヴァイオリニストがいることくらいはわかっても、それよりカズの方が顔は売れてるって。言い返されちゃった。あたし漢字読めないから掲載雑誌も見てないんだけど、表紙めくったらすぐに載ってるらしいし。それだけ人気ページだって言いまくられて」
その言葉に、一樹は喜ぶどころかもっと表情をこわばらせる。ああそうだよね、カメラマンなんておだてるのが仕事だもんな。たとえそれが単なる女子学生のバイトだとしてもさ。
アンジーは頭の後ろで手を組むと同じように空を仰いだ。
「信じてないんだ、いつも言ってるのに。そんなに自信ないの?」
「自信もなにも、誰もおれの音なんて聴いたことないのに」
ああ、プレイヤーのプライドってヤツ?鼻で嗤われた気がして一樹の頬が思わずほてる。
「顔を先にばんばん売っちゃえばいいのよ、そんなの。そしたら音だって聴いてもらえるじゃん」
「そんな!」
「ずるいって?あたしがもしこんな恵まれたコネクション持ってたらがんがん使うのに。撮りためた作品を有名な人たちに見てもらってツーショットを撮る。今度はその証拠写真を元手にあちこちに売り込みに行ける。どうして隠そうとするの?」
それは君が…マリコの弟じゃないからだよ。そう言いたかったのに喉がつかえてうまく言えない。おれはただ、真っ正直に音を聴いてもらいたいだけなのに。
「マリコだっておんなじじゃん。それとも日本人の男ってストイックなの?」
はい?何がどうおんなじなんだよ!?ようやく出せた声はたぶんとがりにとがっていただろう。
「あのね、いくらボストン市民だと言ったって全員がクラシックの素養がある訳じゃない。わかるよねそのくらい。マリコが愛されるのはあの可愛らしい笑顔だったりとか幼く見える東洋人の神秘さだったり。それもあるけれど何よりも彼女が天才少女ともてはやされて、なのに折れることなく続けてきたからじゃない?小さい子が大人顔負けの演奏をすれば物珍しくて誰でも見てしまうでしょ。彼女だって気づいているかどうかなんて知らないけど、そういったすべてをうまく利用してる。決して謙遜も卑下もしないし、どんなマエストロに褒められてもにっこり笑ってありがとうって言えてしまう。悪い意味じゃなくてしたたか。じゃないの?」
年端もいかない子どもが曲芸のように演奏をする。確かに人目を惹くんだろう。頭の隅をブライアンの呟きが通り過ぎる。
それを生かすのも才能のうち、か。
アンジーの声は続いている。おしゃべりな女。こっちの戸惑いも複雑な感情も全く見えないふりをしながら。それくらい神経が太くなきゃ自力で美大に通うだなんてできないんだろう。
「オーディションがあるとすれば、あたしたちは応募するための書類を手に入れるまでに多くの労力を費やすの。どこに行けば買えるのか、それとも強力なコネクションがなきゃそもそももらえないのか。誰に頼み込めばどこでもらえるかを教えてもらえるのか。つかえるものは使う、だからこの仕事を引き受けた。ごめんね、あたしもかなりいろんな人を蹴落としてやっともらえた仕事なんだ、これ。チャンスは使わせてもらうから」
何のチャンス?真顔で訊くと「マリコの弟を撮ったのは私ですって触れ回らせてもらうから」と屈託のない顔で笑った。
複雑な思い。そう割り切れればいい。他人ならきっと。他人よりももっと距離が遠い人たちだというのに。思わずついた深い深いため息。今度は至近距離でシャッターを切られた。スマホの音は思いのほか大きい。
「ここで撮って大丈夫なの?病院の敷地内だよ」
なるべく意地悪そうに聞こえるよう呟いてみせる。不機嫌の理由はこのカメラマンにあるとでも言いたげに。
しかしアンジーはカメラケースの横から英文のびっしり書かれた書類をのぞかせた。
「撮影許可も商用使用も全部クリアーしてるからご安心を。ぬかりがあるわけないじゃん」
かわいくねえ。そばかすにメガネ。ファニーフェイスと言えばいいのか。愛嬌たっぷりのアンジーはでも態度も言葉もちっともかわいくない。
このくらいしっかり抜け目のないヤツじゃなきゃ生き残れない。そうなんだろうな、きっとこの国は。
じゃあ日本は?おれには息苦しいだけだったはずなのに。
居場所を探して世界をさまようほど、残された時間が多いとは思えない。とにかく吹ける場所さえくれればいい。名前も顔も売れなくていいから。そんな甘いことばかり言っているから尚子にもアンジーにも呆れられるのだろう。
「おれさ、練習したいんだよね。帰っていい?」
だいたいつけ回すなよってんだよ。アポもなにも無しに。
ぶつくさ言い続ける一樹に「じゃあまた来月ね」と手を振って立ち上がると、アンジーは肩のケースを背負い直した。ああ、そうだね。アンジーにはそれが武器であり自分を守るものに違いない。勝手に覚えるシンパシー。
次のバイトに間に合わないのか、走り出した彼女はすぐさま大柄な女性と派手にぶつかって転んだ。
思わず息を飲んで駆け寄ると、アンジーはカメラケースをまず抱きかかえていた。服は葉と泥だらけなのに。
「ごめんなさいね!とっても急いでいたものだから!大丈夫かしらそれ、とても大事なものなんじゃ。あなたはケガしていない?」
大柄というかかなりふくよかなおばさんはおろおろとアンジーの周りを見回すばかりで焦りまくっている。
「大丈夫です、大丈夫。こっちも前をよく見てなかったからごめんなさい」
いやいや差し出した一樹の右手をそれでも掴みながら、アンジーは立ち上がって膝のあたりをはたいている。
「いえね、わたしもさっきからずっと若い日本人の男の子を捜していて、ようやく見かけたもんだから焦っちゃってもう」
若い…日本人の男?捜してた?あのそれって…もしかしておれ?
急に話の矛先が自分に向いたような気配に、一樹の方も焦りだした。保険関係はミスがないはずだ。治療費も悔しいけれど全額親に連絡が行くんだし、検査結果をこんなおばさんが伝えに来るはずもないし。
頭の中をいろんなものがぐるぐるする。おれはこんなおばちゃん知らねえし!
しかしそのおばさんは容赦なく一樹の方を見やると汗を拭き拭き笑顔を見せた。
「あなたよね、カズって。トランペットを演奏するんでしょう?」
「あ、あのそのどうしてだって」
言葉にならない。意味がわからない。ここは病院でこのおばさんだって何かしらの職員で、何でおれとトランペットが結びつくんだ?
「このあとすぐ一緒に来てちょうだい!ずっと捜し回っていたんだからもう!」
「あのだからおれは何も聞いてないし」
何でこういつも、人との出逢いは事情もわからず突然なんだろう。皆同じなのかおれだけなのか。
おばさんは一樹の左手をぐいと引っ張った。知らないとは言え、あまりのことに右手でそれを振り払い思わずうずくまる。
「ってえ、何すんだよ!?」
「そんなに強くつかんだかしら、ごめんなさいねえ。わたしそそっかしいっていつも言われるのよ」
呑気な声にいらだちが募る。視界の端にアンジーのすまなそうな顔が見える。バイト遅れるからじゃあ。唇がそう動く。見捨てる気か!!
ああそうだよな、利用できるものは何でも利用してやる。今のおれは説明のできない不快感でいっぱいなんだ。それはもしかしたら不安感なのかも知れないけれど。八つ当たりの相手は逃げてしまったし、このおばさんにさんざん罪悪感を味合わせてやる。
「悪性腫瘍の…治療で…左腕は…。ペインセンターでいただいた強い痛み止めだけが頼りなんで…す」
息も絶え絶えのように呟いてみせる。驚けよ、気の毒そうにおれを見ろよ。そして心底申し訳ないという顔で何度でも謝れよ!
自分の子どもっぽさを持てあましながら、一樹はわざと下からおばさんを弱々しく見上げる。さあ、どうやってこの場を納める気だ?
けれどおばさんは一樹の言葉ににっこりと笑った。戸惑うのは一樹の方だ。
「リカから聞いてるわ。あなたならきっと子どもたちの気持ちをわかってあげられるからって。だから一緒に来て欲しいのよ」
「だからって!だからどこに!?」
さっき自分が作ったにわか仕込みの設定なんか吹っ飛ぶような大声で、思わず一樹は言い返した。リカ?梨香がまた何かたくらんでるってのか。あれから一度も会わないし連絡も取ってないのに。
「ボランティアの事務局をやってるの私。今はとにかく大急ぎで楽器を演奏できる人を捜していてね」
「ボランティア!?」
想像もしていなかった言葉に、一樹は目を丸くした。
(つづく)
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