ブルーになるために生まれてきたのだから ~Born to be blue
#60
「不倫、かあ」
いつもながらのマンゴージュースをすすりながら、尚子は頬杖をつきながら呟いた。ひさびさに左手へとプロテクターを付け、ピアニッシモの音量でロングトーンをし続けていた一樹がそっと楽器を唇から離す。
「何?怒ってんの」
「何であんたにあたしが怒らなきゃならないのよ。意味わかんないし。まあ何となく日本の彼女とは終わってんのかなあとは思ってたけど、まさか金髪女医が子持ちだとはね」
どうすんのこれから。投げやりでいてどこか心配げな声に、一樹は視線を落とした。
「これから…って、何もないよ。もう終わったんだから」
「別れたの?」
「はん、ふられたの!」
もう一度楽器を構える。頼りない支えであってもないよりはずっとましだ。トランペットは安定した音でゆるやかに高さを上げていった。
「だんなって、あの冴えないおじさんでしょ?アレに負けたって、天下のカズが?」
うるせえよ。チューニングB♭の一オクターブ上でふっと息を抜く。別に負けたわけじゃないし、とうそぶく。
「あーあ、言い訳がましくてみっともなー」
そう付け加える尚子もまた、寂しげな声色だった。
「逆だよ、逆」
逆?不思議そうな表情の彼女にとうとう一樹は楽器を膝に置く。誰かに話したかったのかも知れない。自分の愚かな行動を、他人を傷つけた行為を、そして…少なからず負った自分自身の傷のことを。
「新堂さんね、ええとあのおじさんの名字なんだけど。おれにこう言うんだ」
梨香ちゃんをお願いしますって。ああ見えても寂しがり屋でそれだけが心配だったんですけど、ここへ来て高橋さんがいれば安心だとホッとしたんです…と。
「それってさ、だんなの方が愛想を尽かして別れる気満々でこっちに乗り込んできたら不倫相手の若い男がもういたからラッキー、って話?」
すごい要約のしかただよなそれ。一樹は思わず苦く笑う。でも全然違うよ、とも。
空港へ見送りに行かされて、その場で穏やかに新堂はそう切り出した。おれと梨香はもうそんな関係じゃないのに。そもそも、そんな関係すら築くこともできなかったってのに。
「あの、どうか誤解なさらないでください。高橋さんを責めるとかそんな資格はボクにはありませんし。信じていただけないかも知れませんが、そんなつもり全くないんです。そうじゃなくて、彼女はこんなボクと六年間も夫婦で居てくれたんです。いつかは解放してあげたかった。ボクには宏隆が居ます。それだけでも十分うれしいです。この六年の思い出があればそれでいいです。そもそも彼女は、こういった華やかな生活の方が似合っている人だから。くすんだ日本でしがらみだらけの地方都市で、ボクの親と同居しながら窮屈な思いで共働き。彼女から見れば人手も資金も環境も何もかも足りなすぎる病院で経済的な理由だけの医者を続けるよりも、刺激の多い勉強しがいのある華やかな外国で暮らした方がずっといい。現実に、ここで見る梨香ちゃんは輝いていました。あなたがそばにいてくれたからですね」
責められている気配は伝わっては来なかった。むしろ本気で感謝しているかのように微笑まれた。どこまでも善良な普通の人。
「高橋さんのことを知っていた訳じゃないです。ボクはそんなに気の回る方ではないし、かえってごめんなさい。最後にどうしても宏隆に逢わせてあげたくて、無理やりアメリカに来てしまった。大勢の方々に迷惑をかけて、どう謝ったらいいかわからないです。でも」
最初から壊すことをめざしての旅。その引き金をおれが引いた。ただそれだけ。けれど新堂の言葉が一樹に突き刺さってゆく。
「おれと梨香…いえ、僕と新堂先生はそんな関係じゃないです。たまたま英語もろくに話せないのに骨を折って病院に運ばれて、そのときに助けてくれたのが新堂先生です。あの人は、相手が誰でも助けるでしょう?僕はそこに甘えた。いいえつけ込んだんです」
責任を押しつけているんじゃないんです。新堂の言葉はどこまでも穏やかだ。ただそばで見守ってやってあげてください。そう告げる。
彼女の本心はどこにあるんだろう。おれにも目の前の新堂にもそれはわからない。けれど部屋に飾られた裏返しの家族写真が頭をよぎる。
…逃げてきたのよ…
彼女は彼女なりの罪を背負っている。この家族は家族のままでいられるんだろうか。
「じゃあ、ふられてないじゃん。あ、もしかして別にもっといい男がいたとか?」
容赦のない尚子のつっこみに、恨めしそうな表情を向ける。
「うるせーよ。怒鳴られたんだよ、空港のロビーで!人がたくさんいたってのに。みっともねえっつうか、おれ成長してねえわってしみじみ感じたね」
「確かにね」
小さな声でもう一度、うっせーよ、と言い返すのがせいいっぱいの反撃だった。そう、怒鳴られたんだ梨香に。
「なに勝手に男同士で盛り上がっちゃって!あたしにダーリンと別れるつもりなんてあるわけないでしょうが!!ってさ」
じゃあホントに負けたんだ、冴えない中年おじさんに。ジュースなんかとっくになくなっていて、それでも尚子はストローを離さずにいる。はん、と笑う。
「宏隆とずっと一緒に居続ければ、息子を追い詰める母親になってしまう。写真を裏返しにしたのは陽に褪せていくのを見たくなかったからだって。離れている時間の長さを実感したくないから。かといってアルバムに綴じ込んでしまうには辛すぎる。梨香は梨香で、もっとゆったりと息子に向き合えるようになるまで、すぐに逢おうと思っても逢えるはずのないくらい遠くで冷静になりたかったんだ、って。あの気の強い梨香が涙を流してた。あたしから家族を取り上げないでと」
裏返された写真は、家族の問題から目を背けたかったからじゃない。そんなことさえみんな思い違いをしていた。話さなければ聞かなければ伝わらないんだよ、思いなんてさ。
すこしばかりの沈黙。
尚子も混ぜっ返すことはしなかった。
大学の構内に音は途切れることはなく、ジャージーな旋律と素早いパッセージとが至る所にあふれている。日常に戻ってきたのだという安堵感がどこか一樹を包んでいた。
「華やかな生活って新堂さんは言ったけど、ここだってただの日常だよね。一日を過ごすって毎日同じことの繰り返しだし、場所が変わっても環境が日本と違いすぎても生活は変わらないよ」
ライブは終演時間があるからこそライブだ。夜通しのカーニバルはいつか終わる。来年のその日までまた平凡な日常をこなすしかないんだから。
「…どうかなあ」
ぽつりと尚子が言う。アンブッシュアを作ってマウスピースに口元を近づけようとした一樹はその手をふと止めた。
「目を背けたかったのも嘘じゃないかもよ。それに…新堂さんっておじさんの気持ちもわかる気がする」
どういうこと?いぶかしく思って首をかしげる。
「まあね、ぶっちゃけた話。イヤミに聞こえたらゴメンよ。曲がりなりにも天下の高橋一樹様はさ、日本に帰っても演奏する場所は確保されている。それがどんだけあんたの努力で保たれてるか、少しは知った気になってるあたしにだって、本気で羨ましいよ。あたしも洋輔も、日本に帰ればただの人。つぶしが利かないだけもっとたちが悪い。音楽関係の仕事にありつけたらもんのすごくラッキーってくらい」
でもここにいれば、世界的に活躍するプレーヤーたちと同じキャンパスで同じ空間で同じように対等に話ができる。演奏もできる。
「ここはあり得ないほどの非日常の場なんだよね。だから、ここにいる間に居場所を作って日本に帰らなくてもすむようにしたいって焦ってる」
いつになく真剣な尚子に、一樹は言葉を失う。
「現実、日本にいたらカズとため口利くなんて考えられないじゃん。別にあんたの家族が有名だからじゃなくて、あんた自身がプレーヤーとして有名だからだよ、それって」
モスト・フェイマス・トランペット・プレーヤー・イン・ジャパン。何の効力もないまじない言葉がおれを大学のハウスバンドのステージに引っ張り上げてくれた。音を出す機会を与えてくれた。
みなそれぞれの立ち位置が違う。大学へ求めるものも違う。箔を付けたいだけの気楽な学生なんてもういない。
おれは…おれは何を求めてバークリーまで来たんだろう。
「ねえ、話違うけど」
無理に断ち切るように身体をぐいと乗り出して、尚子は顔を寄せた。頭のてっぺんに結わえた長い髪が揺れる。
「せっかく腕が治ったのに、ラッパ科に戻んないってホント?」
それには応えずに一樹はピアニッシシモでスタンダードを吹き出した。
『Born to be blue』こうなるのが運命だったのだから。僕はグリーンでもイエローでもなく、ブルーになるためだけに生まれてきたんだから。
ヘレン・メリルと残した名盤でのクリフォード・ブラウンの演奏。彼もまたこの曲に何かを感じていたんだろうか。
甘く切なくなんて手垢のついた言葉でしかないけれど、ミュートさえ差していない一樹のトランペットはわずかな音量だというのに甘く甘くその場に響き渡った。構内のカフェのテラス。人々が足を止める。
戻る必要なんてない。本当のことを言えば、ここにおれは音楽理論を学びに来たわけじゃないんだろう。多くの人との出逢いと音との出逢いが自分を変えてゆく。気づかないうちにその場所へと向かっていたんだろう。
作曲科の講義の中で何度も出くわす『スィーツ・オブ・トキオ』の題名が自分を縛り付けようとする。逆らおうとすること自体が間違いだ。あの曲は確かに後世に残るものでどんなにあがいても自分が太刀打ちできるもんじゃない。
曲と人の思いは別だ。人はただ純粋に音から感情を揺さぶられればいい。それは多分に個人的な体験であって、解釈とかまして作曲者の人となりなんて関係ない。
おれはおれで、あの曲と対峙すればいい。
そしてきっと、そのことと孝一郎との対峙は別のことだ。
まぶしすぎて何も見えやしない。何せ僕はブルーになるために生まれてきたのだから。
クリフォード・ブラウン。生き急いだあなたにはこの世界は何色に見えたんだろう。
そして、生き急ごうとしている自分自身に塗られていく色はどんなものなんだろうか。
やわらかくカデンツァを決めた一樹の演奏に、静かな拍手がいつまでも送られ続けていた。
(つづく)
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