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スウィングしなけりゃ意味ないね ~It Don’t Mean A Thing

#6



リハの暇はない。すでに時間は押している。一樹はとりあえず楽器ケースからバックを取り出すとともに、革のプロテクターを手に取った。それは汗のにじみでよれてはいたが、その分、手にはよく馴染んだ。右手でぎゅっと引っ張り、楽器を膝で押さえて口と手でピストン部分に巻き付ける。


見慣れぬ動作に、シェリルらが彼をじっと見つめているのを感じる。どう思われてもいい。おれの今の仕事は、目の前の譜面を吹ききること。楽器を固定してからマウスピースを口に当てる。冷たい金属の感触が懐かしい。そう言えばこのところ留学準備で、ろくに練習もしていない。


そっと息を吹き込み、軽くバズィング。本体にマッピを押し込んでから低音域のロングトーン。指馴らしにピストンを何度も動かす。特注のスプレー式オイルを右手のみで器用に吹き付ける。

一樹は真剣な面持ちできちんとアンブッシュアを作ると、高らかにハイノートを駆け上った。ハイFの吹き延ばし。虚勢を張っている訳じゃない。自分のコンディションを確かめるためだ。そこでヴィブラートをかける。大丈夫、まだいける。


隣りに構えるシェリルの顔色が変わる。こんなに楽々ハイFを出せるなんて。それも楽器を出したのはつい数分前のこと。


「音ちょうだい?」


つい、日本語で彼女に話しかけてしまってから、あわてて一樹は「アー、プリーズ」と言ってみた。チューニングの実音ラ。アーでいいのか、エーと言うべきか。それでもシェリルは案外素直にラの音を吹いた。

それぞれのバンドには固有の調音がある。クラシックのオーケストラほどではないにしても。シェリルの出す音にぴったりと同期させる。一つの音に聴こえるほど細かく丁寧に。


「サンクス」


ふっと小さく笑顔を見せてから、一樹はかけていたメガネの支柱を押し上げた。視力が酷く悪いわけではない。ほんの少し自分を守るためにと、クセでかけ始めた細いフレーム。




一曲目は「ドナ・リー」。長年チャーリー・パーカーの名作と言われていたが、一節にはマイルス・デイビス作曲ではともささやかれている。しかし誰が作ろうとも、この曲にまとわりつくイメージはバード(パーカーの愛称)の音色と、その超絶技巧。


一樹はスタジオで必ず行う作業、まずはざっと構成を流して見渡した。楽譜は地図。近道できるカーナビはない。そこに細かく書き込まれたくり返し記号と、ダル・セーニョなどの進行を示す記号を見失えば、あっという間に一人取り残される。始まってしまえば本番は一発勝負。あとでどんなに悔やもうと、失敗は取り返せない。ましてやこのメンプは、おそらくここの学生の手によるリアレンジ。この時代だからコンピュータ・ソフトで書かれた綺麗な楽譜なので、読めないことはないけれど。


いきなり派手なイントロと、Aメロはトランペットパートのソリ。そこからアドリブソロが延々と続く。テナーサックスにトロンボーン、ギターで落ち着けて、ここはバードに敬意を表してアルトサックス。Bメロのトゥッティをガンガンに鳴らしてから、隣のシェリルがラッパソロを取る。楽しみに聴かせてもらおうとするかな。もちろんそのあとは、全楽器による怒濤のキメが続く。


一樹の吹くリードトランペットは常にバンドの最高音域。一番高いのは、コーダのラストで押し上げるハイA…か。テンポは…指定の速さなどあてにしない方がいい。ドラムがどこまで持ちこたえられるか。すべてはそこにかかっている。管がこれだけつっこんで吹いてくるんだ。まず走るとみておかないと。全曲初見か、まあいいけどね。はん、やれるとこまでやってみましょ。赤っ恥をかくか、プロの端くれの意地を見せるか。


一樹は知らぬうちに高揚感を味わっていた。


ドラムがスティックを打ち鳴らしてカウントを長めに取る。それは初見の一樹のためでもあるし、全体を落ち着かせる意味も持つ。これだけの大所帯。気持ちを一つにしてテンポを刻む。



ワンッ、トゥッ…。



こればっかりは世界共通だな。ほんのちょっと心の中で苦笑い。さあ、行くぜ。一樹は楽器をまっすぐに構えると、最初の音を頭の中に鳴らした。




パーンと吹き鳴らしたあとの細かいパッセージ。


…やばっ!はええ…


案の定、指定テンポどころの速さじゃない。ドナ・リー特有のスピード感を出したかったのか、どんどんドラムが煽り立てる。だが内心の彼の焦りは一瞬だった。


一樹は譜面から全く目を離さず、その音符の高さを瞬時に読み取って無意識にピストンを押していた。この速さでは脳にまでおそらく信号が伝わっていないだろう。脊髄反射に近い形で、ひたすら指と口元を制御してゆく。


一度目のトランペットソリは様子見。このバンドのノリを確かめる。同じパッセージの二回目は、一樹が文字通りリードを取る。彼は何十回も練習したかのように、ぴたりと合わせていく。パート全体の気持ちが何も言わずとも伝わってくる。


これはいけると。


ことの成り行きを最初から見ている観客の一部は、ソリのシンクロ度の高さに大歓声を上げた。そう、何も知らなければリードの一樹が飛び入りだと気づく者はいないだろう。


ようやくメロを終え、アドリブソロの部分に入る。二度目の細かいオブリガードまではしばしの休み。見失わぬように、ざっと小節数を数える。64のくり返し。変則でないのなら大丈夫だろう。


ふっと視線を感じ、一樹は横にいる自分のパートの連中を見た。


親指を立ててニヤッと笑う男らにまじって、柔らかい笑顔を見せるシェリル。さっきの敵意丸出しの視線とは全く違う。



言葉も通じず、もとより何も話す暇さえなく、曲ですら一分も吹いているかどうか。それでもこいつらはもうおれを、何の抵抗もなく受け入れてくれてる。それが伝わる。


一樹は音の持つパワーと、雄弁さを改めて感じた。


さあ、また次のパッセージだ。皆が楽器をかまえ直す。


そして、シェリルのソロ。


その迫力に、一樹は舌を巻いた。これだけ吹けたら確かにバークリーのハウスバンドでセカンドを任せられるだろう。きらびやかな音と、確かなコードトーンとテンションノートのセンス。リズム感も独特で、年代物のビバップが、彼女の個性としか言いようのない洒落たフレーズに変わってゆく。


おれだったら彼女をセンターに置き、バックにしっかりとしたリズム隊を揃えて売り出したいと思うけれどね。


ひそかにそんなことを思いながら、一樹はシェリルの横顔を見つめていた。


ソロが終わる。大きな拍手はコーダに向かうキメの連続にかき消されてゆく。トランペットパートは、全員立ち。最前列の客はさぞうるさいことだろう。

メロディをフェイクしたキメが終わり、ベルトーンで音を重ねる。一番最後はもちろん、リードトランペットのハイノート。AからハイAにがつんと上げる。

タタカトンとお決まりのシメのタイコを鳴らしても、その余韻は残り続けた。


さすがの一樹も、楽器をむしり取るとスタンドに立て、肩で息をしている。それにメンバーたちが次々とハイタッチ。荒い呼吸で苦笑い。


…おいおい、まだ一曲目だぜ…


しかし、拍手は鳴りやむことはなかった。






「あんたまあ、派手にやらかしたんだって?」


呆れ顔でマンゴージュースをすするのは、いつものようにトロンボーンを背中に担いだ尚子だった。


「あれはおれがやりたくてやったんじゃねえ!!おまえだろ?こいつに変なこと吹き込んだのは。ヨウスケのせいでおれは、せっかく地味ーな学生生活を静かに送ろうとしてたのに!!」


何にも感じないかのようなにこやかさで、洋輔はアイスコーヒーを前に話し出した。


「だってすごかったんですよ。ねえカズさん!?もう、最後にはお客さんスタンディングオベーションで。言ったら何ですけど、ごく普通のランチライブですよ?なのにあんなに燃える演奏されちゃ、ねえ?」


ねえ、じゃねえよ。だいたいてめえがおれをトラになんぞ引っぱりこむから。


一樹はぶつくさ文句を言った。自分だってほどほど楽しめればいいと思っていたのだ。いくらバークリーと言えども学生バンド、本気でやるほどのことはない。


だが、いったんステージに立ってしまえばそんなことは全く関係がなかった。彼らも本気だった。もちろん一樹自身も。そしてその音の重なりが、今まで味わったこともないような重厚なサウンドで、思わず引き込まれざるを得なかったのだ。


「だってさ、マリコの弟だって知られたくないって自分が言ったんじゃん?あんだけ騒がれてばれたら、自業自得だよ?」


そりゃそうだけど…。一樹はそれを思うと気がずしりと重くなった。姉のことを思えば、一番来てはいけないのが、ここ、ボストンだったのかも知れない。


「で、どうすんの?ビッグバンド入るの?恨まれるよ~、リードの男、白人でさラッパ科首席を自慢してるんだから。だいたい卒業もしてないのに、首席かどうかなんてどうわかるかってのよね」


「フルバンに入るつもりはないよ。日本でそんな仕事はほとんど無いし、それがやりたくてここに来たわけでもない」


「じゃあ何であんた、今さらこんなとこ入ったの?それだけ吹けるのに」


日本人同士でつるむのはキライだと、あれほど豪語していた彼女だったくせに。一樹は一番訊かれたくない質問に、思わず口を閉ざした。彼の前に置かれたシェイクが溶けてゆく。それでも一樹は何も言えずにいた。



おれは何を求めてここまで来たんだろう。



それでもあのときの高揚感は嘘じゃない。それだけは信じたい。あの拍手も迎え入れられた自分の音も、すべて実在するもので。高橋の名前とは無関係のところで、おれはやっていけるはずだ。そう思いたい。どうか、そう信じさせてくれ。




黙り込んでしまった一樹を前に、尚子はさらに呆れたという顔をした。


「ま、その前に授業取れなきゃ意味ないね。でさ、手続きは済んだの?」


あのあと、この借りは返してもらうと言いつつ、本当は洋輔に泣きついて学生課の窓口へとついてきてもらったのだ。とてもこの煩雑で訳のわからないカリキュラムを読み取るだけの英語力が、自分にあるとは到底思えない。

とりあえず、クラス分けのテストを受けられるところまではたどり着いた。担当教官もようやく判明した。明日にでも訪ねて挨拶に行ってこなければならないだろう。


「これからどーする気?英語わかんないなら、語学学校に行きゃあいいじゃん」


至極真っ当なアドバイスというか嫌みを、さらりと尚子は口にした。だから日本人同士でつるんでると、英語話せなくなるよって言ってんの!ダメ押しの一言。


「これ以上学校になんか行けるか。ただでさえ課題多いのに。学費だってかかるのに」


はあ。わざとらしく大きなため息をつくのは、もちろん尚子と洋輔だった。


「あんたバカ?じゃあ何でわざわざ単位数の多いディグリーなんか取るのよ!見栄張るんじゃないっての。学費って何よ、あんたんち金持ちじゃん」


金持ちなのは、父ちゃんと姉ちゃんで…。口の中だけでもごもごと言う。おれは安いギャラでこき使われて、なけなしの金はたいてここに来てんだから。


一樹はある意味正直に話したのに、尚子は思いっきり白い視線を送っただけだった。


「だったらせめて、英語ぐらい完璧にしてこい!!だいたい、高校出てるんでしょ?」


問い詰めるような尚子の口調に、思わずカフェの窓の外に視線を向ける。


「何でそこで目を逸らすかなあ!?あんた、底抜けのバカじゃないの!!」


尚子ちゃん、言い過ぎだってば…ハラハラしながら洋輔がフォローに入る。


「ああそうだよ!!どうせおれはバカですよ!!」


「開き直るな!!」


はあ、どうしてこう金管の女って気が強ええんだよ。いや、金管とは限らない。あんだけお嬢さまに見える姉ちゃんだって、負けん気だけは誰よりも強い。じゃなきゃ音楽なんてやってらんねえのか。


一樹は、幻想がどんどん崩れてゆくような気がして、もう一度深ーいため息をついた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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