何て素敵なタイミングなんだ ~Just in time
#59
係員が早口でまくし立てるのに、同じくらいの口調でブライアンが食ってかかる。しきりに指さす方を向けばここのシンボルみたいな恐竜が目に入る。
正面玄関じゃなくて中庭にもあるのだと叫んでいるらしい。一樹はまだ言い争っているような二人を置いて走り出した。
小さな歌声が聞こえる。もう旋律も覚えてしまった。言葉を話せない宏隆が歌う彼のメロディー。
もしかしたら一樹にしか聴こえないのだろうか、あの歌は。コードすらつけられない漂うようなやわらかな音たち。それをたどってゆけばいい、宏隆はおれを呼んでいるのだから。勝手な思いを押しつける。
彼は彼だ、おれじゃない。父親からも母親からも愛されてこれ以上ないほど抱きしめられて、それを受け取るのが苦痛でしかない少年。いつか…いつか受け取れる日が来るのか。愛情の形は人それぞれで家族もまたそれぞれでしかない。宏隆が喜んでいるのか辛いだけなのかそれとも、すべてを見透かして穏やかに過ごしているのかもわからないのに。
細長い建物をぐるりと廻って屋外展示のコーナーを探す。博物館と言うよりも巨大オブジェの置かれた美術館みたいだ。
とっくに絶滅した恐竜のレプリカが空を見上げている。意味もなくつられて空を見る。
高い高い空に、人間の求めるものなんて何もないのに。
一つの恐竜には不似合いな鉄パイプが張り巡らされていた。ああそうか、修理をしようと足場でも組んだのかなと視線を向けて…一樹は息を飲んだ。
恐竜の頭の部分には小さな人影がいた。申し訳程度に張られた立ち入り禁止のロープをまたいで登ったのだろうか。
声をかけようとしてようやく思いとどまる。急に驚かせてあんな高いところから落ちでもしたら。
一樹の背中を追ってきたブライアンと梨香、そして息を切らせてようやく追いついた新堂たちに、黙ってと合図を送る。今にも駆け寄りたい親たちは状況を飲み込んでその場に立ちすくむ。
宏隆の歌はゆるやかに続いていた。
ねえ、君は何を歌い続けているの?誰に何を伝えたいの?言葉だって音楽だって伝わらないものはたくさんあるのに、みんなわかったような気になっているだけなのに。
吹く風に木々が揺れ、無造作に組まれた足場もまたきしんだ。誰もが悲鳴を押さえこむ。今でこそ静かにパイプのてっぺんにおとなしく座っている彼がいつ動き出すかわからない。
一樹は意を決して歩き出した。
が、それを止める腕。ブライアンだった。
「カズには無理だ、ボクが行く」
いつになく真面目な顔つきでそう呟く。一樹は自分の左腕をそっと抱いた。いざというときに何も役には立たないその腕を。
「正面からゆっくりと、やさしく声をかけてあげて。見えないところからだとものすごく驚いてしまうから」
梨香が願うようにブライアンを見つめる。それに笑顔で応えて彼は少しずつ足場に近づいていった。
梨香は…一樹のその動かない腕にすがりついた。回り込んで肩を抱きかかえる。大丈夫、ブライアンはうまくやるって。
連絡がついたんだろう、捜索を手伝った他の友人たちも集まり出す。遠巻きにオブジェと少年と救出者を見守るように。
「ようし、いい子だ。大丈夫だからな」
幼い子が使うような英語でゆっくりと話しかけるのは、たぶん子どもらしい子ども時代なんか自分でも知らないだろうブライアン。それも想像でしかないけれど。
宏隆に言葉は伝わらない。でも音は届いているはずだ。顔を向けようとはしない彼がふっと歌を止めた。
梨香の握る手が白くなる。冷たくなる。大丈夫、ヤツはきっとうまくやる。一樹もまた力を込める。すぐそばに新堂がいるのには気づいていた。でもそんなんじゃない。今彼女が必要としている温かさを伝えたいだけだ。
一段、また一段とブライアンが足場を登り、宏隆は視線をあたりにただよわせる。ブライアンはさっきまで異国の子どもが口ずさんでいた未知の旋律をそっと歌い出す。さすがだね、自称ラッパ科の首席らしいよ。安心したかのように宏隆もまた歌い始め、そのメロディはゆっくりと同期していく。
驚かさないようにと正面から手を伸ばし、握っていた指をほどく。中から出てきたのは係員からぶんどって置いた恐竜のおもちゃ。
思わずさっと取ろうとした宏隆の腕の下に左手を差し込み、ブライアンは彼の身体を抱き留めた。恐竜に夢中なのか、嫌がることなくかかえこまれる。周りで見ていたみんなの少しばかりのため息。
大丈夫、だいじょうぶ。呪文のように唱えながら軽々と子どもを抱えて降りてくるブライアンを待ちきれずに、一樹は走り寄った。初めて見る大人にはこうやっておとなしく抱かれる子どもを、梨香の視界に入れたくなかったって気持ちもある。
一番愛している母親の抱擁を何よりも嫌がる子ども。どうしたら想いはうまくかみ合うのか。一樹にはわかりもしなかったけれど、これ以上梨香を傷つけることもしたくはなかった。
ブランケットやクッションを手に、捜索を手伝った友達もみな周囲をかこむ。あと少し、もう少し。確実に歩を進めるブライアンを祈るように見つめる。
それまで動きもせずに彼の肩にしがみついていた宏隆が、ふいに視線を一樹に向けた。
一瞬だけ目が合う。初めて見た気がする、その真っ直ぐな瞳を。
けれど宏隆はすぐに、一樹の目から顔を下げた。その意味を悟って一樹はあわてて右手でシャツを閉じようとした。ボタンを留めてる暇なんてない、彼から見えなくすればいい。
でもそれは遅すぎたみたいだ。急に暴れ出した宏隆にブライアンの姿勢がぐらりと揺れる。
抑えに抑えた悲鳴が聞こえる。梨香なんだろう。
それよりも一樹はとっさにもっとそばへと走り出した。何でこんなときに付けてきてしまったんだろう…聡子からもらった細いチェーンのネックレスを。宏隆が見逃すはずもない。
あと一段というところでもがく彼がたくさんのものから手を離す。
安心できるはずのブライアンの支えを。
大好きな恐竜のおもちゃを。
片手で足場を握りしめ、もう片方でそれでも必死に抱きかかえようとしていたブライアンの腕がはなれる。
そして、ふわりと小さな宏隆の身体が宙に浮いた。
「宏隆!!」
耐えきれずに叫んだ梨香の声を背に、思わず一樹は両腕を差し出した。高さはない。絶対に大丈夫!
ゆっくり落ちてくる彼を胸で受け止め、そのまま抱きかかえた。二人でやわらかな芝生に倒れ込む。一樹にしたら叩きつけられるほどの衝撃だったけれど。
小さな彼を抱きしめる腕だけは離さない。どんなことがあっても離さない。
「宏隆!!」
名前を呼ぶしかない母親は、駆け寄る足を止めた。またこの腕を拒絶するかも知れない。そんな想いが彼女を止めたのか。
「カズ!!大丈夫か!?」
「…な、なんとか」
荒い息でそれだけを答える。宏隆の小さな歌声が聞こえてほっとする。彼も大丈夫、自分だって何ともない…たぶん。
「大丈夫かカズ!!ボクが最後まで…」
「ごめん、おれが悪かった。不用意に近づいたから」
恐竜のおもちゃはもうない。宏隆は熱心に、光を受けて輝く細いチェーンの感触を楽しんでいた。
「悪い、誰かこのチェーン外してこの子にあげて」
様子を見て取った尚子があわてて一樹の背中に回り込む。きらびやかな新しいおもちゃを手にした宏隆はご機嫌で、そっと押し出すように梨香へと渡すと、彼は思ったよりも素直に母親に抱かれた。
今度こそみんなの安堵のため息。それから驚かさないようにと控えめな拍手と笑顔。あのブライアンまでもが自然に笑ってる。
「…よかった…。ありがとうブライアン」
顔を上げて微笑む一樹に、彼はそっと告げた。
「腕。左手。気づいてないのか?全くこれだから凡人は」
照れ隠しなのか、急いでいつもの口調に戻ったブライアンが一樹に向かってあごで示す。
「えっ?」
意識もしてなかった。一樹は自分の左腕をそうっと持ち上げてみた。動く。あれだけ頑なだったひじも動く。神経の切れた指は動かないけれど、楽器を構えるだけの位置に持ち上げることはできる。
自分自身が一番びっくりして腕を見つめ続けた。宏隆をしっかりと受け止めようとした自分の腕が勝手に動いた。目を覚ますように。音を取り戻せと言っているかのように。
チェーンから視線を外さずに、でも両親にしっかりと抱きしめられてあの歌を歌い続ける宏隆を呆然と見ながら、一樹はまた左腕をかかえてこんだ。自分の意志で動くようになったその腕を。
(つづく)
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