あなたを待つわ ~I will wait for you
#55
空港のカフェで何か飲もうと、梨香に引っ張り込まれた。付き合ういわれは全くなかったけれど断れるだけの気力も一樹にはもうなかった。
なぜか彼女は上機嫌で、それは多分にこの状況を楽しんでいるからに違いなくて。ったくホントに性格悪いよ、この女。声に出せない繰り言を必死にかみつぶす。
「ネックレスにひっつかれたって?ああ、うちの息子は審美眼が高いから~。よっぽど高い貢ぎ物でももらったんじゃないの?カズって今や売れっ子タレントさんだから」
「タレントさんなんですか?失礼な態度を取ってしまってすいません、あのあまり最近テレビを見る時間も取れなくて。録画した子ども番組ばかり見ているせいもありますが」
いえいえとんでもない、タレントだなんてただの冗談で。引きつり笑いを父親の方に返しながら、一樹は足先で梨香を蹴り飛ばす。
「いい加減にしろよって言ったよな!?」
とりあえずスラングで呟くが、当の彼女は平気な顔だ。
「あの…お知り合いだったんですね」
おずおずと新堂が口にする。知らないときっぱり言い張ったのは一樹自身だ。ええそりゃもう仲のいい友達で…とはしゃぐ梨香を押しのけるように、大声を出す。
「いやまさか、結びつかなくて。新堂先生のご家族だったんですね!本当にその節はお世話になりました!骨折して病院に運び込まれた、そ・の・と・き・だけ!通訳していただいたんです!」
骨折?新堂は目を白黒させている。何の話か皆目わからないだろう。そりゃそうだ、一樹だってわからない。この場をどう取り繕えばいいのか、梨香は何を考えてこんな場所におれを座らせているのかなんて。
「隠すことないじゃない?ライブにだって見に行ってあげたのに」
艶めく瞳でこっちを見やる梨香の表情さえ恨めしい。絶対おれで遊んでやがる、この女!
苦々しく黙り込んだ一樹にふっと笑い顔を向けると、梨香はこう付け加えた。
「ずっと病気でね。腕の骨が折れたってのにライブハウスで楽器を吹くほど根性のある子なの」
まるで子どもを褒める母親のようなその声に、一樹はますます不機嫌そうに顔をゆがませた。
本物の息子はおとなしく梨香の横に座り込み、一心不乱に絵を描いていた。下から上に幾何学模様の図案を。よくよく目をこらせばそれは英文に見えなくもなかった。
「何を?」
「たぶん、さっきまで見ていた飛行機のパンフレットだと思います。そういうのを覚えて描くことは得意なんですよ」
穏やかに新堂が言う。母親の側にいる安心感で、というよりも絵を描けるスペースがもらえたからなのか。宏隆は静かだった。
「ちょっと息子をお願いしていていいですか」
軽く会釈して新堂が立ち上がる。息子の世話ばかり焼いて自分はろくにものも食べてないだろう。水さえ飲んでいないんじゃないだろうか。梨香は答えの代わりに夫へ微笑みかける。
…おれはこんなところで何をしてるんだろう…
いつだってわき上がる感情はそればかり。一樹の居場所なんてない。少なくともここにはない。さっさと席を立ってしまいたかった。
「ついてねえよな」
「乗り継ぎのNYで助けてくれたんだって?ありがと」
その前の成田でこいつにしがみつかれたんだ。子どもに恨みはないけれどつい言葉もきつくなる。
「よりによって梨香の家族でそれでもって息子だったなんて。知ってたら全速力で逃げたのに」
その言葉に、梨香は顔を寄せた。一樹の方があわてる。こんな大勢の人の前で、新堂だっていつ戻ってくるかわからないってのに。
「…インカントチャーム」
え?突然香水の名前を言われて戸惑う。それがどうかしたのかと。
「あんたさ、このワイシャツあたしんちで洗ったヤツでしょ。気づかなかった?」
思わず自由の利く右腕を鼻に近づける。匂い?洗剤の匂いならともかく…。
「宏隆はね、感覚が敏感なの。誰かさんと違って。日本にいるときから仕事に行く前にはつけてたからかな」
微かな香水の残り香をかぎわけたってことか。宏隆はそれほどまで母親を求めてたってこと?
「そんな気はないんじゃない?母親かどうかも認識しているかわかんないし」
さらりと口にする梨香に、一樹の方が反応する。やり切れない想いはどっちを思ってのことなのか。
「愛してないの?息子のこと」
「愛してるに決まってるじゃない」
「愛されてるって…見返りが欲しいの?」
「見返りなんか要らないわよ。母親だもの」
じゃあなぜ。その先の言葉を続けることは一樹にはできなかった。
いろいろな家族の形。それは梨香の問題であって一樹が理解できなくてもしかたがないもので。求めるものも叶えようとするものも違うのだろう。違うのだろうけど。
「抱きしめてあげたらいいのに。だったらさ」
視線を外して呟く。おれを抱いて眠ったときのように。この幼い息子の代わりなのだとすればお互い様なんだから。
「言ったでしょ、この子は敏感だって。人から触られると嫌がるの」
思いがけない言葉に目を見開く。母親だろ?それでもなの、と。
「人によって欲しいものは違うのよ。思い切り抱きしめて欲しいと願う子どももいるし、そうでない子どももいる。全部が全部、母親から離れて寂しいと泣くとは限らない」
こんなに近くにいるのに遠くから声が聞こえる気がした。実際、梨香の目はここではないどこかを見やっている。宏隆の鉛筆が立てるカリカリという音だけが響く。
新堂が戻ってくる姿を見て、一樹は静かに立ち上がった。今度は梨香も止めることはなかった。
思わぬ時間を食ったせいで、ようやく真理子の部屋に戻った頃には日も暮れていた。日本で買ったマウスピースはあの騒動の中でなくしてしまったんだろう。部屋の片隅に起きっぱなしになっていたバックのケースを開けると、一樹はトランペットと使い慣れたマッピとを取り出した。
ここで練習はできない。音を出すこともできない。今はデジタルの消音器もないこともないけれど、生音が吹きたい。
とりあえずストレートのミュートを差し込むと、ほんの少しばかり息を吹き込んでみた。わずかに空気がふるえる。腕の痛みは…鋭くはなかった。
開放のローB♭。それでも全く出ないよりマシだ。楽器から唇を離すとかき抱くように胸に押し当てた。
朝になったらどこかのスタジオか大学の練習室に飛び込んでやる。
疲れていたのだろう、眠気も半端ない。一樹はラッパを持ったまま横になると、そっと目をつむった。
遠くで目覚ましの音が鳴っている。必死にそれを止めようとするんだけどなぜか止められない。ああそうか、楽器が邪魔なんだ。手放さないと音は止まらない。でもとても離せないよ。
夢うつつの中でもがいていた一樹は、それが自身の着信音だと気づいてあわてて飛び起きた。
「ってえ」
服のまま眠ってしまっていた。確かに右手には楽器が絡まっている。なんて格好で寝てたんだ。
急いで指かけから手を引き抜くと、腕を伸ばして携帯を取る。出たとたんに聞こえてきたのは怒鳴り声だった。
「いつまで寝てんのよ!!こっちは急いでるってのに!!」
「は、はあ?」
長時間の移動でさらに時差ボケもあって、朝一で楽器どころかまだまだ眠っていたい。それなのにいきなり電話口でなぜ怒鳴られる?
相手が誰かも確認できないってのに。一樹は頭を無理やり振るとせいいっぱい目を開けた。
「誰?」
「誰じゃないわよ!ちょっと付き合ってくんない?暇なのはわかってるんだから」
目が覚めてくる。この声は…梨香だ。何がわかってるだか、暇だ何だと決めつけて。
「おれだっていろいろあんだよ!突然電話してきて訳わかんねえよ」
寝起きのおそろしく不機嫌な声でいらえを返そうが、当の梨香には何の効果もなかったようだ。
「だから!今日あたし急な出勤になっちゃったのよね」
「かんけーねーし」
「うちのダーリンと宏隆、よろしくね」
「はいっ!?」
眠気は一瞬で吹っ飛んだ。そもそも意味がわからない。何をどうよろしくなのか。
「午後、まあ夕方には遅くとも合流できると思うから。市内観光ざっくりとでいいから。ほらダーリンは英語が全然話せないし、宏隆いるから人手あった方が何かと便利だし」
「何、自己完結してんだよ!!そこにおれは一つも関係ねえだろっ!?」
「…ふうん」
そういうこと言うんだ。急に声が低くなる。一樹は続きも言えずに口をつぐんだ。
「あのさ、おれの反応見て楽しんでるの?」
ようやく言えたのはそれだけ。かなり弱々しいデミニュエンド。けれど電話の向こうで梨香は一瞬押し黙った。
「…そんなんじゃないって。こんなこと頼めるの、あんただけだから」
病院と部屋とを往復する毎日で、ろくに休日もなかったのだろうか。親しく行き来する友人さえ作る暇もないくらい。
学生じゃないんだ、梨香は。職業として医療の仕事に携わり、同時に自分の力量を高めるための勉強をする。
無職のすねかじり留学生と言われても何も反論できない自分の立場がえらく軽いような気がして…一樹は一度深く息をした。
「わかった。連れ回せばいいんだろ?おれだってろくに観光地なんか知らないけど」
トローリーバスでも使おう、宏隆が飽きなければ。市内のあちこちから乗り降りできる観光用のバスがあるはずだとは聞いていた。自分だって学校と部屋とライブハウスと、病院くらいしか行ったことがないのだから。
新堂と宏隆と一樹と。とんでもなく奇妙な組み合わせの一日が始まろうとしていた。
(つづく)
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