調子に乗った私が悪いの ~I got It bad and that ain't good
#54
知らないうちに宏隆が静かになったのを見て、逆に一樹は心配になった。思わず彼の視線の先を追う。手には国内線用に英文で書かれた機内パンフ。
「こんなに小さい子なのに、読めるんですか?」
つい父親に話しかけてしまう。自分だってすべて理解できているとは思わない。四歳の幼児が英語?そういう才能を持っているんだろうか。
しかしシンドウは頬をゆるめると、息子の集中をそがないようにか静かに答えた。
「意味がわかっている訳じゃないんです。何だかね、ひらがなよりもアルファベットの方が好きなだけで」
綺麗な形に惹かれているのだろうと、この子の母親は言っていました。だから曲線の文字よりも漢字や英文を気に入るのだと。ボクには専門的なことはわかりませんけどね。
落ち着いたシンドウの声に、そういうこともあるのかと一樹はただ頷くしかなかった。
「妻は…療育、ええとですね小さい頃からの訓練って言ったらいいのかな、それには熱心でした。もちろん今でも変わりません。こうやって英語が気に入った様子を見れば英語の教室を探してみたり、専門のセンターもあちこち回って」
一樹に聞かせるというよりは、誰かに話したかったのかも知れない。たぶん…周囲は理解できずにいたんだろう。彼ら親子の行動が。通りすがりの一樹にはもっとわかりづらい家族のあり方が。
「それでも、子どもと離れた」
つい呟く。手放したことには変わりない。物理的な距離は心の距離を生む。どんな言葉もそれは否定できるものじゃない。非難の気持ちを込めたつもりはなかったけれど、どこか自分と重ねたのかも知れない。
けれどシンドウは笑みを絶やさない。異国の空港で不安げにおろおろしていた彼とも思えないほど、自分の家族については信頼しきっているのだろうか。
「ボクがね、勧めたんです。妻にもう一度働きに出てくれって」
「…?」
いぶかしげな表情の一樹に、シンドウは視線をあげた。いろいろな人から聞かれ慣れてしまったのか。そこには多分に母親を責める言葉もあっただろうに。
「宏隆は赤ん坊の頃から眠らない子で、専門が違うと言っても医者の妻にしたら他の子とは成長の仕方が違うとすぐ気づいたらしいんです。復職する予定だった病院を辞めてこの子につきっきりになってくれた。育てにくい子らしいとわかってからは、それこそ療育に走り回った。ちょっとでも可能性があるならと毎日のように訓練をさせて。必死に必死に…」
「子どもが早く普通になって欲しいから?」
言葉がきついとは一樹自身もわかってはいた。でも訊かずにはいられない。違ってはダメなのか。もっともっとと勝手に期待され、先を急がされ、最後には周囲の落胆が待っている。親の描いた理想の子どもとかけ離れていけば見捨てられる。
それじゃ子どもはどうなるんだろう。
目の前の宏隆と自分とは違うのに。抱える問題も状況も全く違うのに。まるで自分が責められているかのように辛くなった。ほんの少しの言い回しでさえも一樹には刺さるように思えた。
けれどシンドウは、そっと首を横に振った。そんなことは思ってもいませんでした、と。
「あとで後悔だけはしたくないから今できることはやらせて欲しいと、妻はこの子から一瞬たりとも離れませんでした。化粧もせず髪もくくるだけ。この子のためと言いながらも自分が悪いからと責めてるようにしか見えなかった。妻のせいであるはずなんかないのに。この子の将来を考えてのことだとはわかっています。でも…ボクは…今も笑っていて欲しかった。子どもはまだ上手く笑えません。彼女まで笑えなくなってしまったらと思うと、とにかくもう一度働いてくれと頼み込んでいました」
自分の話ばかりですみません。そう頭を下げる彼に、一樹は唇を噛む。ずけずけと問いただすようにしているのはこっちの方だ。そのほうがよっぽど失礼だろう。
もう一度、心の中で自分に言い聞かす。宏隆はおれじゃない。彼ら親子は見ず知らずの通りすがりで、何もおれとは関係ない。勝手に結びつけて勝手に想像して…勝手に誰に対してかわからない怒りをもっているのはお門違いだ。
けれども問わずにはいられなかった。結局はハハオヤは宏隆と離れたんでしょう?と。
「ボクが無理やり引きはがしたんです。病院に勤めれば夜も遅いとわかっていたし、急な呼び出しもしょっちゅうだし。同居して昼間はボクの親に預けてという生活になりました。これ以上見てられなくて、ボクの方が耐えられなかったんです」
結婚前にあった留学話を蒸し返したのもボクの方でしたね。少しの時間でもいいから彼女を解放してあげたかったのかも知れません。
彼の声が遠くに聞こえる。
宏隆のハハオヤは、子どもから離れようとはしなかった。自分自身をなくすのではないかと心配されるほど。端で見ていて辛くなるほど。
おれの知る…もう一人のハハオヤは。
四歳の息子を持つ新堂という名の女医は、子どもから逃げたとおれに告げた。未練がましく持ってきた写真という写真をすべて裏返して貼るほど、子どもから目をそらして暮らしていると自嘲した。その寂しさを別のもので埋めようとした。髪を染め、派手な私服を身につけ、仕事に没頭し、ほのかに香らせるのはフェラガモのインカントチャーム。
同じであるはずがない。でもきっと。
想いと想いはすり抜ける。すれ違う。たとえ家族でも夫婦だろうと思いやろうとすればするほど、何かを掛け違えてしまう。
それもまた…姿を変えた家族の形。
一樹は黙った。隣の男も口をつぐんだ。到着時刻が近づき、ざわめきが機内に戻ってきたのとは対照的に、そこだけが静寂に包まれていた。
軽装の一樹はバッケージクレームには用がない。大荷物を抱えたシンドウ親子は気の毒だとは思うけれど、とにかく彼らとはここでお別れなんだから。とっとと退散するに限る。荷物は…と心配げなシンドウに「みんなと一緒に歩いてけば大丈夫です!」と言い捨てる。
複雑な思いを飲み込んで、一樹は到着ゲートからそのまま空港ロビーへと出た。入国手続きは乗り継ぎ前に終わっている。あとはとにかく部屋に帰ればいいとばかりに足早にそこを立ち去ろうとして…シャツの後ろ襟をひっつかまれた。
「なあああに?知らん顔して素通りはないんじゃない?」
今この瞬間は一番聞きたくなかった声だってのに。よりによってそっちから絡んでくんなよ!
「いや、あの、おれ急ぐから。じゃ」
もがいてでもそこから逃げ出そうとする一樹とは対照的に、なぜか力を込められる。
「日本でだいぶご活躍のようだけど?有名になっちゃうとあたしのことなんかどうでもいいんだ」
そんなこと言ってる場合じゃないだろうが!?日本からの乗り継ぎ便は今の時間帯はこれだけ。だったらどういう状況か、そっちも先刻承知だろうに!
「あのさ!なんでここにいるか知らないけど、おれ急ぐから!離してくんね!?」
「写真撮られたらマズいとか?そこまで偉くなっちゃったんだ、ふーん」
絡むなよ、んなんじゃないって!!大きなため息をつくと、一樹はあきらめて振り返った。
「自分の都合のいいときだけ、小芝居に付き合わせといて。あのときのつけは払ってもらうから」
わざととしか思えない拗ねた口ぶりに、唇をとがらせて睨んでみせる。が、ちっとも堪えたふうでもない。
「悪かったよ。いくらでも謝るよ。つけでも何でも払うからとにかく今は急ぐんだってば!」
「残念でした、こっちは急いでないの。夜勤明けに修羅場に付き合わされたのとは違って」
聡子との会話をかなり根に持っているらしい。口調は甘えていても目が完全にすわっている。
「だから!とにかくあとで!頼むからさ」
哀願してみても離してもらえそうもない。こっちがこれだけ焦ってるってのに!!第二の修羅場なんてまっぴらゴメンだ!
「あたしこれからダーリンと愛する息子に逢うんだから。わざわざ迎えに来たら余分な人にまで会っちゃって」
甘い声に、だからおれは帰るって言ってんだろうが!!と怒鳴り出したい気持ちをかろうじてこらえる。
「余分で悪かったな!邪魔者はさっさと消えるって」
「せっかくだからあ、紹介しようと思って。もうちょっと付き合いなさいよ」
「はあ!?何考えてんだよ、梨香!!」
我慢しきれずに大声を出す。目の前には、つややかなベリーショートの金髪にチークをきかせたあでやかな化粧をした梨香が微笑んでいた。この笑みは決して一樹へのためじゃない。
「久しぶりに逢えるの。もうね嬉しくて、早めについちゃったら変なものまで拾ったって訳」
「変でも何でもいいよ!おれがあんたの家族に会えるわけないだろ!?」
なぜ?あたしは別にやましくないし。うそぶく梨香の声がしゃくに障る。
「なんて紹介する気だよ!?」
「そうねえ、ボストンで知り合った同郷の親しい友達かなあ」
こんなところで足止めさせられてたら、本当にあの親子に追いつかれかねない。どうせ梨香は焦るおれの顔が面白くて引き留めてるだけなんだろうから。どこまで性格悪いんだか、この女は!
「ふざけんのもここまでにしろよ!じゃあな」
きつめに言い返して背を向ける。梨香の声色が怒りに変わりつつあるのは感じたけれど無視した。付き合いきれるか!!
が、足を速めた一樹は別の力でぐいと引き戻されて…床に転がされた。
「何なんだよもう!!」
彼の脚にまとわりついてきたのは、宏隆だった。大荷物を抱えて息を切らせたシンドウは、その場にいた梨香と一樹を交互に見やるばかり。
「やっと逢えたぁ。ごめんねダーリン、NYまでは迎えに行きたかったんだけど。よく無事にボストンに着けたわよねえ、さ・す・が」
「いやあの、それはね。そこのタカハシさんがすごく親切に」
今度は梨香が目を丸くして視線をせわしなく動かす。一樹は一樹で「せめて名乗らなければよかった」と無駄な後悔をしながら、座り込んだままもう一度大きくため息をついた。
(つづく)
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