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誰にすがればいいの? ~Who can I turn to?

#53


搭乗券に印字された氏名欄から目をそらす。偶然なんてそんな都合よく転がっているわけがない。けれど、用心するにこしたことはないんだ。

一樹は息を整えると、きわめて事務的に手続きの方法を彼らに伝えた。もっとも子どもの方はこちらに視線を向けることもしなかったけれど。

何度もありがとうございますと頭を下げる父親の方に軽く会釈をし、その場を立ち去ろうと努力するが、そんな一樹の努力は徒労に終わりそうだった。


「現地の方ですか?本当にボクらはついている」


安堵感からか饒舌になる彼と真逆に、一樹の方は黙りこくる。ついている?冗談じゃない!こっちからしたら最低最悪の状況だ、これ。


「自分も英語は得意じゃないんで。搭乗口まではご一緒しますがそれ以降は」


何とかそれだけを口にすると、男はきょとんとした顔を向けた。


「慣れてらっしゃるからてっきり。じゃあ、転勤か何かで?ああすいません、何だかいろいろ訊いてしまって。当たり前なんでしょうけどどこに行っても外国語で、数時間しか経ってないのにうんざりしてたところなんですよ」


苦笑いを浮かべる彼に、思わず頷いてしまう。そう、そうなんだよな。何もわからない状況で一人…まあ彼はさらに子連れで途方に暮れるって、これほど神経に来るしんどさはない。


「わかります、僕もそうでしたから」


つい、いらえを返す。問われるがままに留学生であると話してしまった。


「ボストンの留学生ですか?すごいですねえ。ハーバードですか?」


ぐふっ。あまりといえばあまりの大学名を挙げられて一樹はむせ込んだ。天地がひっくり返ったって入れるわけがない。マサチューセッツ工科大学の方かなあ、能天気な声が続く。そうだよな、留学してまで勉強しようなんて言えば有名どころの名前が出てくる方が自然だ。


「違います。げほ。ごほ。あ、あのですね、そうじゃなくて」


音楽大学です、バークリー音大というポピュラー音楽を学べる学校があって。案の定、音楽とは無縁そうに見える男はさらに目を丸くして不思議そうに聞いている。


「そもそもボストンには大学がたくさんあって、名前を挙げていけばきりがないんですが」


「そうなんですか、私はなにぶんものを知らないのでよく妻から叱られます」


はは、と屈託なく笑う声に、それじゃあと距離を取ろうとする。今度はその一樹の腕に子どもがしがみつく。さっと首元のボタンに手をかけようとするところを見ると、ネックレスを完全に忘れた訳じゃないらしい。


「やめなさい!宏隆!!」


何なんだよ、こいつら。連係プレーでおれを離さないつもりか?





もう少し小さな飛行機に乗り継ぎ、手続き上当然のように同じ並びに三人が座る。一時間の我慢だ、空港に着いたとたんダッシュして離れてやる!

一樹はサングラスをかけて機内のイヤホンを耳に差し込んだ。が、隣の少年はそれを素早くむしり取った。


「すいません!ほら早く離して返しなさい!」


いえ…いいんです。一樹は人工のシールドをあきらめるとせめてもの抵抗で目をつぶった。まあ、眠ったふりが彼にどの程度通用するかは疑問だった。当然のように、まぶたまでこじ開けられた。

妙に気に入られてしまったのは聡子がくれたネックレスのせいなのかと思うと複雑だったけれど。


「こんな小さな子どもを、それも手の掛かる子を連れて旅行なんて。ご迷惑だとお思いでしょうね。本当にすいません」


「あの…。もうそんなに謝らないでください」


これは一樹の本心だった。何かにつけてこの父親が口にする「すいません」が辛かった。決して口先だけで言ってる訳じゃない。そうじゃなくてあまりに言い慣れてて、それでいて心底申し訳なさそうで、聞いているのが切なくなった。



どれほど彼らは謝り続けてきたんだろう。どこへ行っても何をしてもこうやって頭を下げてきたんだろうか。ネックレスが綺麗だから触りたい、そう子どもが思うことは悪いことなんだろうか。それでも、見知らぬ子どもから手を伸ばされたらさすがにぎょっとする。

ちょっとでもこうやって関われば、なんてことないものに変わるのにね。



「何だか癖になってしまってすいま…。あ、すいません」


繰り返し言ってしまった言葉にさすがに気づいたのか、父親も苦笑いで頭だけを下げた。


「四歳になるんです。宏、隆、と書きます。まだまだ言葉が遅くて行動も落ち着かなくて」


驚かれたでしょう、と彼は頭をもう一度下げる。定期的に発達センターに通っているけれど皆に追いつくまでは時間が掛かりそうです、と。


そう言いながらも目を細め、大きな手を少年の頭に載せて愛おしそうになでる。当の本人はその手から逃れようともがく。父親は構わず引き寄せるように抱え込んだ。


「うー、あー」


とうとう少年は声を出す。行動を制限されたのがイヤだったのか、触られたのが不快だったのか、顔をしかめている。親はシーッと言いながらも始終笑顔だった。


「なかなかね、抱き上げても反り返ってしまうし逃げようとするし。この子の性格がわからなかった頃は、ボク自身が親失格じゃないかと思いこんでましたよ。父親なのに嫌われているんかなあってね。妻が抱くと少しはもたれたりするもんだから余計にね」


こういう性格の子は、ほとんど抱かれるのが嫌いみたいで。温かく見つめる目は変わらない。


「そう…なんで…すか…」


「妻は、こういう子は外国の療育が合ってるんじゃないかって言って、思い切ってこっちに勉強に来てるんです。まあ、仕事の関係上ということも大きいんですが」




特別な療法なら確かに日本より選択肢が多いんだろう。骨腫瘍科の治療法だって同じだ。大河原も律子も口をそろえてそう言っていた。ちゃんと掛かって来い、と。


けれど、どれだけ選択肢が多くても自分に合うかどうかはまた別の話だ。たとえ九十%の確率で治ると言われても、残りの十%に入らない保証はない。


医者も治療者も可能性の話をする。確率の話をする。相手にしているのは複数の患者だから。でも患者本人にしてみれば、うまく行くか行かないかの二択しかないのにね。


だけど、この子の「ハハオヤ」は子どもを見捨てたんじゃなくて可能性を探しに来たのか。あえて子どもを置いてたった一人で。




「ボクはね、ただのしがない会社員で今回も特別休暇を取りだめて思い切って来たんです。妻にこの子を会わせたくてね。外国で一人離れて働くのは寂しいだろうからって。忙しくてなかなか一時帰国もままならないようなんです」


ボストンの病院で、見習いの医者をやってるもんでね。研修期間は休めないものなんでしょうねえ、どんな職場でもそれは一緒でしょうからね。


批判めいた口調ではなかった。それほど子どもの療育のために走り回る妻の愛情を信じて疑わない温かみのある言葉。


電話口から聞こえた姑らしき女性の怒鳴り声とは、全く色合いの違う…声。



搭乗券の氏名欄にKoichi.Shindoと書かれていた文字が頭をよぎる。四歳の子どもを連れて妻の働くボストンまでやってきたシンドウという名の男。




黙ってしまった一樹に、シンドウはあわててもう一度「すいません!」と謝罪の言葉をかける。


「自分のことばかり話してしまって。助けていただいたのにお名前も聞かず、本当に失礼しました」


「いえ、いえいえいいんです。あのホントに僕のことは気になさらずに」


我に返って引き気味の一樹に、もしかしたら妻をご存じですか?ボストンに日本人は多いんでしょうか?とたたみかけるように訊いてくる。頼むからもう…かんべんしてくれ。


「ああああああもうそりゃあねえ。多いですよ、日本人!アジア系も多いから区別つかないですし、四人に一人は日本人っぽいって言っても言い過ぎじゃないくらいだし。東京の郊外歩いてるのと変わりませんからねえ」


そうですか。残念そうに下を向くのは気の良さからか。焦りまくる一樹の様子には気づく風でもない。


「音楽大学っておっしゃってましたよね。どんな楽器を勉強されているんですか」


如才なく話を振ってくるシンドウは、案外有能なビジネスマンなのかも知れないなと一樹は思い始めていた。子煩悩で妻を思ってここまで来るくらいなのだから。



宏隆と呼ばれた少年は、眠くもないのか始終身体を動かしていた。爪を噛みものを噛み、雑誌をめくりそれを破り。父親のメガネをむしりそれを放り投げ、ポケットの中身をあさりそれも投げ捨て。一つ一つを直してやりながら、シンドウは笑みを絶やさない。


こんなに想われている宏隆をうらやましいと思いつつ、これほどの思いをしてまでも逢わせたいと願う宏隆のハハオヤに思いをはせ…。



不意に現実のかなりやばい状況に、一樹は身震いした。


…ダッシュだ、ダッシュ。とにかく手続きが済んだらここからできるだけ早く離れなきゃ…。


ローガン国際空港は広い。そこまで迎えに来るらしいから、あとはどうとでもなるだろう。一期一会の出逢いは一瞬だからこそ嬉しいことであって、それ以上引っ張ってなるもんか。


一樹は話を合わせながらも、いつでも飛び出せるように頭の中でシミュレーションを繰り返していた。


北川圭 Copyright© 2009-2012  keikitagawa All Rights Reserved


(つづく)

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