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憂鬱な坊や ~My Melancholy Baby

#52


「こらやめなさい!宏隆!!」


父親の方が大声を出す。が、ヒロタカと呼ばれた男の子は一樹から離れようとはしなかった。すごい力で首を掴んでしがみついている。何が起こったのかもわからず、一樹はやはり痛みに顔をしかめた。

他の客から動揺の声が上がるのと客室乗務員がとんでくるのがほぼ同時だった。男性のクルーがかなり手荒に男の子を引きはがしにかかる。


「うわああ!」


叫び声は大きくなる。一樹の方は思わず右手で首をさする。痕が残るんじゃないかってくらいの、子どもとは思えない力。

父親は子どもを抱きかかえて、案内された後方のトイレへと向かった。とにかくその子を静かにさせなくては、という思いで必死だったんだろう。視界から一瞬消えても声は響き続ける。


他の乗務員がにこやかにアナウンスを始める、平常の機内に戻そうと努力しているみたいに。


「大丈夫ですか、お客様」


それとは別のCAに声を掛けられる。そう多くはないはずの乗務員が後部座席付近に集まってしまったようで、一樹のせいではないと思うけれど彼まで申し訳ない気持ちで身を縮めた。


「いえ、あ、あの。こっちは大丈夫です全然。すみません」


「本当に申し訳ございません。あちらのお客様のお子様はいろいろ配慮を必要とされる方で」


あまりに遠回しで意味を図りかねた。きょとんとした一樹に、別のCAに耳打ちされたその女性はもう一度ていねいに頭を下げた。


「お手数をおかけしてしまい大変恐縮ですが。お客様のネックレスに興味を惹かれてしまうようなのです。差し支えなければ…」


「外せないんです」


外せと言われたと感じた一樹は、思わずそう口にしていた。聡子からの特別なプレゼントだからという訳じゃない。外し方を知らないんだ。自分のこの手じゃどうやったって外せない。


小学生には見えなかったから幼稚園児かな。何も言わずに飛びつかれたのは、怒ったんじゃなくて…このネックレスに興味を惹かれたってだけ?何も言わずに?

そこでようやく、その子には何か障害があるのかも知れないのかと思い至った。ああそうか、だから見えないように外して隠してしまえと言いたいのか。


その頃になってやっと、自分がかなり驚いて身体中をこわばらせていたことに気づいた。ためていた息を大きく吐く。



ネックレスが欲しいのならあげるのに。ちゃんとそうやって言ってくれればいいのに。彼には宝物みたいに見えたんだろう。おれには、揺れ動く自分の心と行動を縛り付ける枷になって欲しいとしか思えないものなのに。



拒否されたと勘違いしたのか、乗務員の女性の表情も焦り気味に見える。


「あの、そうじゃないんです。その…さっきの子が欲しいのならあげます。ただ僕は片腕が動かないので一人じゃ外せなくて」


それは重ね重ね失礼いたしました、と頭を下げる彼女に苦笑いを返しながら、外してもらえます?と頼んでみる。


結局、おれを縛ることはできないみたいだよ。大人の余裕を感じさせる聡子でさえも。



「本当にあの、すいませんでした!いただくわけにはいきません。息子には他人さまのものを取ってはいけないと厳しくしているので。すいません、すいません」


いつの間にか父親が一樹の席近くまで戻ってきていた。そんなに謝らなくていいのに。何度も何度も頭を下げられる。すいませんの言葉が繰り返されるたびに逆に心が重くなる。


「じゃああの、ボタン留めてもらえます?」


そのセリフは微かな香りがくすぐったいCAの方に向かって言ってみた。この状況なら、少しくらいおまけをもらっても悪くないだろう。察した彼女は、では失礼して、と華奢な手を伸ばして一樹の首元までシャツのボタンを留めていった。こうすれば銀色のネックレスは見えないだろうね。幾重にも縛り付けてくれればいい。おれがふらふら飛び回らないように。


黙ってされるがままにしている一樹に、まだ父親は頭を下げ続けている。その姿が不意に記者会見の時の孝一郎に重なって、思わず顔を背ける。


気づけば男の子の声も聞こえない。クルーに付き添われて出てきた彼は飛行機のおもちゃに目を奪われている。


「あのどうか、あまり気にしないでください。僕は別に何ともありませんから」


穏やかに微笑んでみせる。そう…おれは別に大丈夫。NYまでは八時間近くかかる。その間にこの子を連れて静かにさせ続けなきゃならない父親の方がずっと大変だろうに。


周りの客が気を利かせて席を替わってくれたらしい。一樹が視界に入らない場所へと親子は座る。クルー達もわびを口にしながら配置につく。一樹は、ひさびさにきっちりと留められたシャツに居心地の悪さを感じながら、早々に目をつぶった。





耳元にさしたイヤホンから流れ込む和音。それはときに美しく溶け合い、ときににごりを帯びる。極限まで濁ってしまったのかと思える音の塊の中から飛び上がる透き通った旋律。


いつの間に、一樹はうとうと眠っていたようだ。混濁した意識の中に叫び声は聞こえない。ああ、さっきの子も静かになったんだ。眠ったんだろうか。彼の席からは親子の背中がわずかに見える。幼い子どもは何か楽しげにずっとリズミカルに首を振り続けている。


…ねえ、君の頭に流れる音は何?どんな色彩のメロディーが流れているの?…


訊いてみたいくらい、その動きは止むことがなかった。

謝り続けた父親はどうしているんだろう。ずっと何度も頭を下げていたっけ。あなたのせいではないだろうに。親はこうして子どものために…。


なぜか一樹の背中に流れる氷のような感触。目なんかすっかり覚めた。自分の父親も確かに頭を下げ続けていた。名も知らぬ一般大衆という集団に向かって。テレビカメラの向こうに存在するはずの人々へ、記者の動く指が紡ぐ記事を読む見知らぬ人たちへ。


振り向く顔は無表情で、おれに感情は伝わらない。必死に頭を下げてすいませんを言い続けるさっきの親は、身体を張って子どもを止めようとしていた。それがあの子にとって嬉しいことなのか一樹にはわからなかったけれど、これでもかと抱きしめて。

それはたぶん、周囲の乗客への罪悪感だけじゃないだろう。自分の子に刺さる視線をそらせようと、非難の声を遮蔽しようと。自分が盾になって子どもを守って。


一樹はまた目をつぶった。無理やりにだ。経由地に降り立つのはまだまだ先のはず。こんな思いに取り憑かれたら自分の身が持たない。


鼻歌のようなハミングは、だんだん音量を増していく。男の子は皆が寝静まる高い高い空の上で歌い始める。

弾かれたように飛び起きた父親は、彼を抱きかかえて今度は前の方へと走っていった。クルーがカーテンを開け誘導する。どこか少しでも音がもれない場所を探して。


おれは、その歌をもっと聞きたいよ。聞かせてよ。何だったらおれが続きを歌ってやるから。


無責任にもほどがあることを思いながら、一樹はまた眠りについた。





空港に降り立つ頃にはすっかり背中ががちがちに凝り固まっていた。左腕は痛みよりだるさでたまらなく重い。一樹はバッグを右手に抱えると乗り継ぎの手続きをするためにカウンターへと向かった。


NY観光をする日本人は多い。けれどこれからさらに遠いボストンへと足を伸ばすには、せめてこの地でゆっくりしたいんだろう。乗り継ぎ客は見渡せば現地の人間ばかりに思える。


おれは、ボストンのあの部屋に入ったとき「帰ってきた」と思えるんだろうか。ああそうだった、部屋にちょっと寄って楽器をひっ掴み、どっかのスタジオか大学へ行って音を出そう。どんな状態でもいい、痛みなんてどうなってもいい。いくらでも吹いてやる。泣く代わりに。愛情が欲しいと叫ぶ代わりに。



ふと、ようやく思い至って身体を丸めると器用に右の長い指でシャツのボタンを外した。窮屈だと思っていたんだ。こんなにかっちりとした着方をしたのはいつのことだったろう。首元が緩むとついため息が出る。

食欲よりも喉の渇きよりもとっとと楽器を手にしたい。まっすぐボストンへ。こんなところでぼやぼやしている暇なんてないんだおれは。


カバンを肩にかけ直して顔を上げると、見覚えのある親子の背中が視界へと入る。彼らは…二人きりで観光でもしに来たんだろうか。逃げ出そうとする男の子を父親が何度も連れ戻す。あれじゃ一メートル進むのも大変そうだ。通りすがりの誰かが助けてくれるから、もう少しの辛抱だから。この国は赤の他人には優しいんだ。


ごめん、おれはそんなに優しくない。急ぐんだ。あなたたちに何か事情があるのと同じように自分にもせっぱ詰まった苦しさはある。見えづらいけれど、誰にも気づかれないけれど。



足早にすり抜けようとしたけれど、男の子の方がずっと早かった。ヒロタカって言われてたっけ。そんなことを思えたのもわずか、また一樹は彼から首元へかじりつかれた。


「うわあ!」


今度声を出したのは一樹の方だ。それくらい驚いた。


「すいません!すいま…あっ!」


やっと父親が気づいたんだろう。本当に何度もすいませんとまた頭を下げようとして、なぜか一樹をじっと見つめてきた。


「な、何ですか」


片手で子どもの攻撃をかわしながら、一樹は情けなさそうに彼を見上げた。押し倒されて今は空港の床に転がっている。誰か親切なヤツが助けてくれるんじゃないのかよ!


「あの、すいません。こちらの方ですか?ボクら外国は初めてで。ここで乗り換えしなきゃいけないみたいなんですけど、英語もわからなくて」


じゃあ何でこんなところに二人きりで来ようとするんだよ!?まるで話せなかった少し前の自分をすっかり棚に上げて一樹はむすっとした。乗り換えって、地下鉄じゃあるまいし。


「ここで日本の人に会えてよかった。本当によかった。ご迷惑の掛け通して本当にすいません!あのその手続きのやり方を教えてもらえませんか」


手は子どもを必死に押さえてはいるけれど、父親の方はかなり安堵の表情を浮かべていた。ここからどう行けばいいのか途方に暮れていたんだろう。ようやくあのときの自分と重なる。そして…尚子の呆れ顔の意味も心底わかった気がした。


「どこですか、ええとその、どこに行きたいんです?」


エラそうに男に問いただす。どうやら助けてもらえそうだと安心したのか、笑顔で彼は答えた。


「ボストンです!ここで降りればボストン行きの飛行機に乗れるはずだからと」


だから地下鉄じゃないって…。


「わかりました。あっちにカウンターがあるからそこで訊いてください。日本語のわかるスタッフがいるはずですから。じゃあ僕はこれで」


立ち上がろうとする一樹に、男の子はまた力いっぱい寄りかかってきた。ろくに食い物も食っていない一樹の細い身体はあっけなく転がされる。


「すいません!すいませんあの本当に!」


「謝んなくていいです!!こっちこそすいません!自分じゃ無理なんで起こしてもらえます!?」


思い切り怒鳴る一樹に、周りの視線が集まる。腰を下ろした状態で彼は何度目かのため息をついた。

手を貸す男に、ケガしてるもんで、と言い訳じみて付け加える。それじゃ痛かったでしょう本当に、と謝りかけた彼を軽くにらむ。



「わかりましたって!僕もボストンに行くんです。手続きを一緒にやればいいんでしょやれば!!ったくもう…」


お上りのツアーで来ればいいんだよ。何も小さい子を連れてこんな格安便で乗り継がなくたって。


さっきやっと外したボタンを苦心してはめると、男の子は少し落ち着きを取り戻した。見えていると気になってしょうがないんだろう。




貸してください!と先輩風を吹かせて男から搭乗券をひったくる。はあ、とまたため息。もっと楽な乗り継ぎだって途中途中で観光地を入れるツアーだってあるだろうに。


一樹は彼ら親子と乗り込む便が同じかどうかを確かめようと券に目をやる。



「……!?」



まさか。彼は言葉をなくしてその場に立ちつくした。


北川圭 Copyright© 2009-2012  keikitagawa All Rights Reserved


(つづく)

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