笑顔を見せて ~Put on a happy face
#51
「素敵なチェーンですね。カノジョからっすかあ」
公園の隅でただ座っている一樹にカメラが向けられる。ファッション誌の記者兼カメラマンはめざとくネックレスに目をつけたようだった。
「元カノ、のね。外した方がいいですか」
苦笑する一樹にシャッター音が響く。その表情いただきます、という声とともに。
「似合いますよ。カズさんもてるから大変でしょ」
被写体を持ち上げてなんぼ、それくらい一樹にもわかる。楽器一つ持たずに自分はここで何をしているんだろう。見上げれば空がまぶしく、知らずに目を細める。
「振られてばっかだし、片想いは実らないし。全然ダメですよね」
その切なそうな顔がいいんだよなあ、本業でモデルやればいいのに。記者はファインダー越しに話を止めようとしない。
「高名な音楽一家でそのイケメンでジャズ奏者だなんて。今まで仕事でいろんな人に会ってきたけど、ここまで条件揃ってる人なんていませんよなかなか」
いつ病気が悪化して死ぬかもわからないのに?その言葉を何とか飲み込む。雑誌の記事として悲劇を華やかに装飾された自分を読まされるのは苦痛だ。持病持ちではあるけど、わがままで放蕩な息子でいた方がずっといい。
「CMもやってるんでしょ?紙媒体は何本ですか。写真集出すんならまず声かけてくださいね。ボストン帰られる前に話決めますから。自分、けっこうマジで言ってますからね」
一樹より少しばかり年かさの記者は、ようやくカメラから目を離して今までの被写体を見やった。いつ向こうへ?の問いに、この仕事が終わり次第空港へと答える。
「マジですか?オレ今すぐ編集長に連絡入れますから、フォト本かエッセーかだけでもカズさんに決めてもらおうかなあ」
だんだんと彼の顔つきが真剣になる。一樹は笑いながらもため息をついた。そんな気は全くないのにと。
確かに何度か雑誌に載った。CMというのも嘘じゃない。一樹のそれまでのワンステージと比べたら、とんでもなく破格のギャラだった。真理子のように楽器を演奏するわけでもなく、今みたいにどっかに座って笑っていればいいだけ。
「ゴーストとかお嫌いでしょうから、ちゃんとしたライターをつけますよ。正直、うちの雑誌の一ページじゃもったいないって自分は思ってたんですから。」
本なんて…何を書けというのだろう。行き当たりばったりの生活が破綻して何もかも失っただけ。それをのぞき見るのが楽しいのか。有名人の子どもが堕ちていくさまを見るのが小気味よいのか。
「僕はまだ、何にもなってない。何も持ってないです。そんな僕に誰が興味なんて持つんだろう」
まるで独り言のように呟く。そう…おれはまだ何一つ手にしていない。なのに多くのものを失うばかりだ。
梨香は自分の子どもに逢ってどうするのだろうか。全身で拒否するのか微笑むのか抱きしめるのか。いくら逃げてきたと言っても、目の前に現れた幼子を恐れるハハオヤなんかいるんだろうか。
病気の孫…息子。異国の地でリアリティのない薄っぺらな人間関係が、急に現実という重みを感じさせて一樹へと迫ってくる。一度会ってみたかった、その息子に。ねえ、君のママに毎日逢いたくはないの、と。僕はね、まだとてもあきらめきれないんだよと。
ボストンへ帰っても梨香には会えない。彼女の家庭を壊す気なんか毛頭ない。
ボストンへ…帰る。おれが帰る場所は本当はどこなんだろう。あの少女趣味な部屋に居座り、意味のない習作を書き連ねてバークリー卒の肩書きだけを手にして、日本で楽器一つ持つことなく写真に撮られるのが自分か。それがおれの望んだ未来か。
黙ってしまった一樹に、記者はやわらかく声を掛けた。
「正直に言います。最初は皆、興味本位だったと思いますよ。高橋孝一郎と言えばクラシックに興味のない人間でも知っている。お姉さんの方はもっと知られている。その息子であって弟であるカズというトランペッターがいるなんて誰も知らなくて。あ、ごめんなさい。でもね…」
穏やかに言葉をつなげる。今はカズさん本人の魅力に引きつけられるんですよ、と。
「そりゃカメラ写りはいいしどんなポージングも絵になるし。うちの雑誌でこのコーナーは人気あるんです。ホントですよ?けど、きっとそういうことじゃない気がします。オレなんかが言うには似合わないんすけどね」
自分のセリフに照れてしまったかのように、記者は唇をとがらせる。柄にもないことを、とでも言いたげに。
「この人はどんな人なんだろう。何を考えて何をする人なんだろう。もっと知りたいと思わせる何かがある。うちの編集長もよく言ってます。カズさんのページを押さえられたのはラッキーだったって」
どういうこと?そんな意味を込めた一樹の戸惑い顔。もう一度シャッター音が響く。
「これから変わる人です、カズさんは。そのスタートに関われてよかったってことです。ずっと追いかけさせてもらいますからね」
なぜか彼はカメラを下げ、得意げに笑顔を見せた。うちが最初に見つけたんだから、他の雑誌なんぞにこの権利は譲りませんって。
「すごいプレッシャーだな、それって」
「先見の明と言ってください」
今は何者でもない、と暗に認めるわけだ。正直すぎる彼の返事に一樹の方さえも笑い出した。
これから先、自分がどこへ行こうとしているのか。いつまで生き続けられるのか。けれど少なくともその未来を何の根拠もなく信じてくれる人がいる。たとえそれが事情も知らない見ず知らずの人たちであっても。
さっきよりもずっと明るい光を宿した瞳で、一樹はもう一度向けられたカメラのレンズを見つめた。
成田からボストンへの直行便はない。今は、ない。じきに就航するという噂は立つけれど一樹が券を押さえた今はないのだから仕方がない。
家族名義のカードを使えばそれこそファーストだって可能だ。でも一樹は素直にエコノミーを選んだ。乗り継ぐ方法はいろいろあるけれどとりあえずNYを目指す。一番安い便が取りやすいからだ。
念のために被ったキャップと太いセルフレームのメガネ。まるで安っぽい芸能人のようだと自虐的に笑う。雑誌の記者はああ言ったが、その辺の誰かが見かけて声を掛けられるほど顔が知られている訳じゃない。
肩に掛けたワンショルダーのバッグ一つの軽装は逆に悪目立ちか。観光時期ではないとは言っても、周りには大きなスーツケースとどでかい旅行カバンで右往左往している親子連れだっている。何人もにぶつかり、そのちょっとした衝撃に一樹は顔をしかめた。
痛みは前よりずっと治まっている。でもそれはたぶん、無理強いして楽器を手にしていないからだ。あっちへ帰ったらどんなことがあっても吹いてやる。鎮痛剤どころか麻酔でも打ってもらってそれでも吹いてやる。音に飢えるのは空腹に耐えるよりずっと辛い。
まるでそれが革の楽器ケースでもあるかのように、一樹はワンショルダーバッグの持ち手を握りしめた。
「いてっ!」
「す、すみません!!」
左腕というより背中にがつんと食らって、一樹は思わず振り向いた。さっきの大荷物抱えた親子連れか。父親が頭を下げまくっている。
「あの、大丈夫ですから」
何度もすみませんを繰り返す親子から足早に離れる。どう考えてもぼうっと突っ立っていた自分の方が悪いのだ。
搭乗手続きを早々に終え、エコノミーの後部へと座り込む。格安の上に駆け込みで取った券だ。文句なんか言えないせまっ苦しい席。それでもすぐに日本を離れたかった。
逃げたかった。
どこに逃げたって、おれの居場所なんてないのにね。
押し込められるように人がわらわらと乗り込んでくる。音楽も今は聴くことができない。一樹は目をつぶり、頭の中に流れる音だけを追い始めた。
「すいません。あ、すみません本当にあの」
不意に聞き覚えのある声。何だろう。自分だけのスタンダードナンバーに気を取られていた一樹の頭に微かに感じる引っかかり。
…ああそうか、さっきの大荷物親子…
いくら子どもが小さいからと言って、何も持たせてなかったよな。それに、今どきどこに行くのかというほどのでかいバッグ。機内持ち込みの手荷物まであるんだ。大変だよね。
父親らしき男は、またあちこちに頭を下げながら謝って歩いている。何もそこまで卑屈にならなくていいのに。てか、これNY行きの便だぜ。大丈夫なのかな。
彼ら親子はどんどん後方へと押しやられていく。子どもか、あんまりうるさくなきゃいいんだけど。
彼らもまたエコノミー後ろ組らしい。そちらにちょっとだけ視線を送る。小さな男の子はひっきりなしに爪を噛み、目をきょろきょろさせていた。初めての飛行機なのかな。
呑気なことを思えたのもそこまでだった。つい見続けてしまったせいなんだろうか、一樹とその子の目が合った。
「うわああ!」
次の瞬間、男の子は大声を上げて一樹に向かって飛びかかってきた。
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(つづく)