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時には母を亡くした子のように ~motherless Child

#50


「いてっ」


肩の筋肉に注射針を刺され、一樹は思わず小さな声を上げた。慣れるもんじゃない、痛みなんか。けれどきっと目の前にいる医者にしてみれば患者の痛みなんて見慣れた日常のものでしかないんだろう。いつにもまして不機嫌そうな律子の顔がさらにむくれる。


「悪かったな。注射なんかやりつけないもんで」


「…大河原はどうしたのさ。どっかにとばされたの?」


以前からずっと一樹を担当している主治医の名前を出すと、学会だ何だと飛び回ってるよ、ともっとふてくされた声が返ってきた。


「この白石律子様が担当では不服か?え?高橋」


そんなんじゃないけどさ。一樹にしてみればさばけた女医が決して嫌いではなかった。ただ、今は自分の心にトゲが刺さるようでイヤだっただけだ。それはたぶんきっと。



「そうそう、こないだ言っていたボストン病院の留学生の件だがな」


不意に律子の方から話を振られ、心を読まれたのではとどきりとした。口には出してはいないはずなのに。


「整形外科学会のデータベースに名前があった。専門医ではないらしいから研究会の方に所属してないのだな。面識はない」


「なんで!?何で調べたりなんかしたのさ」


おまえの方が訊いたんだろうが。律子の口元がさらに曲がる。


「大河原だっておまえのことは心配している。どうせこれでボストンに帰れば、おまえなんかまた医者にも行かず状態を悪化させるばかりだろうが。BGH(ボストン総合病院)にお目付役でもいてくれたら安心だからと大河原にもせっつかれたんだ。好きこのんで調べた訳じゃない」


なんで…。ただの一患者にそこまでするんだよ。おれが高橋だから?何かあったら責められるとか訴えられるとか?


横を向いて悪態をつく一樹に、律子は持っていた書類の角で頭を叩いた。


「そっちの方が痛えって!!」


「あほたれ!どうしてそう素直じゃないんだおまえは」


みんなに言われるよ。ああそうだよどうせおれが素直じゃないのがいけないんだよ!


逆にむくれる一樹を見て、何を思ったのか律子は立ち上がってドアまで行き、診察室に掛けられた札を『面談中』へと代えた。何をし始める気だ、この高飛車な女医は。



「そもそもおまえは時間外診療だし、私はこれで今日の勤務が終わりだ。大河原からの伝言をしっかりと伝えておくからそのつもりでな」


十五の発病時からだから、主治医の大河原との付き合いは長い。長いけれど単なる患者に過ぎないはずだ。特に骨腫瘍科にかかるようなヤツを心配し始めたらきりなんかないだろうに。

だが律子は、少しばかり居住まいを正すとまっすぐ一樹を見据えた。何かこれ以上最悪なことを言うつもりなのか。今でさえ何もかもなくしてしまっているのに。



「なあ高橋」


「…」


黙ってしまった一樹に、彼女が声を落として話しかける。もう何も聞きたくない。ここには音楽がないから。


「どうしてそう…生き急ぐんだ?確かに多発性で再発率の高い疾患であることは認める。でもな、きちんと管理していけば予後が悪いと決まっている訳じゃない」


「管理って何?部屋でずっと寝てろって。それとも病院にずっといれば助かるの?それじゃ…それじゃ楽器が吹けないじゃん」


ふうっと似つかわないため息一つ。律子らしくもない。


「ストレスをできるだけ軽減して、十分に身体を休める。おまえの好きな音楽は趣味程度に楽しむというわけにはいかないのか」


「いかないよ!!趣味で済むんならこんなに苦しまない!!」


そうやっておれから音楽を取り上げないでくれよ、頼むから。誰だってトランペットから引きはがそうとするんだ。


「生活費も治療費も、きちんと家族が負担することで話はついたんだろう?」


「おれ一人でまともに生活できないから!?しょせんは一人前になんかなれないって律子先生までそう言うの!?」


そう噛みつくな。整った顔立ちに似合わないぎこちない言い回し。それがいつもの律子で、だからこそ話しやすかったのに。今日はまるで父親に説教を食らっているかのような錯覚さえ覚える。



「自分が病気であることを認めろ、高橋。普段の生活に制限を受けることは、ある意味仕方のないことだろうが」


諭すように噛んで含める言い方。大河原でなくてよかったかもしれないと一樹は思った。子どもと言っていい頃をも知る彼の前では、涙を見せてだだをこねかねない。



おれのただ一つの願いは、そんなにもわがままなのか。


「ただ…ステージで吹きたいだけなんだ。売れなくたっていい。客の入りが悪くたっていい。それでも、ステージミュージシャンとして吹いていたいだけなのに」


……どうして誰も彼もがそれを止めようとするんだ。吹けないのなら生きている意味なんかない。

姉のように父のように聡子のように。大学の連中のように、ウォーリーズで会ったバンドマンたちのように。当たり前に音楽でメシを食い、毎日のように音に囲まれ、同じことをしたいと願うのはダメなのか。



「大河原はな、おまえの事情も少なからず知っている。患者のプライバシーに立ち入ることはしてはならないけれど、主治医としてもどかしい思いもしたことは事実だと話していた。だからこそ、きちんと治療を受けろと言っているんだ。ヤツもBGHに留学していたことがある。その何とかという留学生におまえを頼み込むくらいは許してやってくれ」


これじゃ立場が逆だ。一樹は笑おうとした。でも…こないだからちっとも上手くは笑えない。


公立病院からの正規の留学生だと言うから、かなり優秀なんだろうな。律子の声が遠くに聞こえる。

ああそうだよね。梨香は梨香できちんと暮らしている。おれなんかよりずっと。子どもから現実から逃げ出してきたと言っても医師免許を持つまっとうな社会人だ。




「…連絡取れない…かな」


ぽつりとつぶやく。いぶかしげな律子の表情も無理はない。ボストン病院に行けば連絡なんてつくだろうと付け加える。


「そうじゃなくってさ」


彼女の息子と話したいと正直に言った。笑われても仕方ない。梨香の言葉を信じればたった四歳の幼い子どもなんだから。けれど…律子は笑うことをしなかった。


「何を話す気だ」


心配げに問う。だろうね、自分だっておかしいとは思うもの。でも一度訊いてみたかったんだ。自分の母親が遠く海外で働き、残されて寂しくはないのかと。

寂しくないのなら、自分ももう寂しいなんて感情を捨てようと思う。もらえないとわかっているものを幼い子どもがちゃんとあきらめているのなら、自分ももう追いかけるのを止めよう。


もし…寂しいと素直に言われたら。



「付き合ってるんだ、彼女と。まあ、あっちはただの遊びだろうけどね」


わざと軽く付け加える。律子の表情がわずかに曇る。倫理観を振りかざすほど彼女だって若くはない。それでも、不倫相手の子どもと話そうとしている若い男を…担当患者とは言え受け入れられるものなんだろうか。


「年端もいかない子どもに言うつもりか」


「まさか」


あちらの家族に、梨香先生に世話になったとお礼が言いたいと思っただけだよ。それを伝えたらきちんと病院には通うから、約束するから、そもそもペインセンターに彼女はいないんだから。



複雑な思いを抱えているかのような目で律子は一樹を見やる。何を思うのか。それでも「事務には内緒だからな」と診察室内の外線番号を押した。


…若桜病院整形部長をお願いしたいのですが。こちらは京成病院骨腫瘍科の白石と…


その実、専門医として名前の知られているらしい律子の名前は、相手に何の疑問も抱かせないだけの力があったらしい。


「全く何で私がこんな訳のわからん仲介役なんてしなければならないのか。大河原が帰ってきたらこのつけは全部ヤツに払ってもらうことにするか」


合間のぼやきと、私が連絡を取る分には守秘義務違反にはならんだろうと呟く言い訳。



おれはこんなにも人を巻き込んで、何がしたいんだろう。一樹の自己嫌悪感がふくれてゆく。

連絡なんかつかなきゃいい。真相なんて何もわからなくていい。梨香の現実なんて…知らないままでいいのに。

それでも律子は受話器を一樹に差し出した。自分で頼んだくせに怯えた。どんな言葉でなんて言えばいいんだろう。寂しい?と一言訊けば満足なのか。


「子どもは留守らしい。家族でもいいか。配偶者じゃないらしいからその点は安心しろ」


篠原は疑った。この電話の相手は、きっと何も知らない。なんて皮肉でなんて哀しい。すべては自分の浅はかな行動のせいだ。一樹はシークレットブレスだけで呼吸を止めた。



「あの嫁が何かしたんですか!?何言われても驚きゃしませんよ!!全く、病気の孫をほったらかして自分だけは外国で働きたいだなんて。それが目当てでうちの息子は体よく騙されたんですよ!!」


こちらの言葉をはさむ間もなくまくし立てられた。孫ってことは旦那の母親か何かなのか。


「あ、あの。新藤先生に大変お世話になった者で…」


「今は誰もいませんよ!息子もだらしないんだから。あんな薄情な女でも母親だからと、孫を連れて外国まで行くって言って出かけましたからね!!」



…病気の…孫…。四歳の息子の病気から目を背けたくて、梨香は写真を裏返しに貼ったのか。


ぐらりと視界が揺れる。倒れる、と思った瞬間、一樹は律子に抱えられた。受話器はもがれ、会話が遠くに聞こえる。



ハハオヤ…その得体の知れないものへの原始的な恐怖。電話の主もハハオヤには違いない。絢子もキミエも梨香もハハオヤで…ああそうだ、桃子もまた本当のハハオヤになろうとしている。誰一人、絵に描いたような聖母のイメージなど欠片もない。

怖い。女はただの女じゃなくてハハオヤになってゆく。それがとてつもなく怖い。


電話が途切れてもなお、一樹は身体を震わせるばかりだった。


北川圭 Copyright© 2009-2012  keikitagawa All Rights Reserved


(つづく)

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