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魅惑のリズム ~Fascinating Rhythm 

#5



そう広いとも言えないキャンバスのあちらこちらから楽器の音がするのは、国内外を問わないのだろう。ポピュラー音楽を目指すものが一度は憧れの思いをこめて口にする…バークリー・カレッジ・オブ・ミュージック。

日本ではバークリーメソッドと呼ばれる独特で明快な理論。大量生産だのライン製造だの、言いたいヤツもいるだろう。


でもおれは、やっとここに立てたんだ。

一度はあきらめた音大への進学を、どんな形ではあれ自分で叶えた。一樹はさまざまな思いを抱えながら、構内を見渡した。



しかし当面はそんなことより、…これだな。

彼が手にした膨大な書類には、当然のようにびっしりと英文が書かれている。この束と格闘してとにもかくにも授業を受けられるようにしなきゃ。英会話も苦手だがビジネス文書はもっとわからない。おそらく多いであろう非英語圏の留学生にもわかりやすく書かれているはずなのだけれど。


実質中卒と言っていいほど、その中学でさえろくに通っていない彼にとって、勉強は唯一にして最大の敵。


いっそのこと、譜面で書いておいてくれればなあ。


現実逃避のバカげた考えまで浮かんでくる。一樹は情けなくもため息をついて、まるで公園のような美しい中庭と、対照的に雑多な学生たちの群れを眺めた。





不意に聴こえてくる、なじみの音。あれはトランペット…ボントロとサックスもいる。決してコンボじゃない。ビッグバンドか?

ビッグバンドとは、通常サックスパートが五人、トランペットとトロンボーンも同じくらい揃っていて、なおかつリズム隊と呼ばれるピアノ、ベース、ドラムス、そしてフルバンド特有の箱ギターを備えているものを指す。まあ、管楽器が複数いればビッグバンドと言ってしまってもいいけれど。


だが一樹の耳に飛び込んできたのは、まぎれもなく正統派のフルバンドの音。


練習室のこもった音じゃない。外か?ああそう言えば、ここではよくランチタイムライブが行われると、日本語のサイトには書かれていたっけ。




思わず一樹はふらっと立ち上がり、音の鳴る方へと歩いていった。楽器をやるものならつい習性になっているこの動作。鳴り物にはとことん弱い。

ジャムズはステージが狭いから、さすがにプロのフルバンドを呼ぶだけのライブはほとんど無かった。その代わり、篠原は大学のサークルバンド出身なので、人手が足りないと言ってはしょっちゅうトラ…エキストラ出演を頼まれて、ハイソのライブに出させられることがあった。

少人数の自由度の高いコンボと違い、きっちり書かれた譜面に決めごとの多い流れ。そのわりには暗黙の了解というものがありすぎて、最初はとまどうばかりだった。

コンボならメモ程度に書き付けたメンプ。あとはアイコンタクトで曲を流してゆく。

しかしビッグバンドには印刷された譜面はあるものの、書き表されていないニュアンスがあまりに多すぎた。

ここはベント(音程を上げ下げする)をかけ、このフレーズには決まってヴィブラートかシェイクをかける。スフォルツアンドクレッシェンドってのは、アタックを強く打ってからがくんと音量を落とし、があっとクレッシェンドをかける。文字にすると難しそうだけれど特に金管のフレーズならポップスの現場ではしょっちゅう出てくる。あまりに当たり前すぎて記譜されていないのだ。


そんな約束事を、学バンの連中は難なくこなす。ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、そしてカウント・ベイシー。管楽器のジャズ初心者にはとっつきやすい名曲ぞろい。

特に有名どころの曲は先輩からみっちり叩き込まれ、聴かされまくるからだ。


けれどのっけからコンボで鍛えられてきた一樹にとっては、篠原にくっついて一つ一つ覚えていかなければならなかった。

カラオケとシンセブラスの浸透で、箱バンの仕事自体の需要がめったにないことも影響している。


それでも、古き佳きジャズの黄金期を支えたビッグバンドの音色は、今もなお人びとを惹きつける。





どこでやっているんだろう。構内と言うことは学内オーケストラか。それだけで一樹はわくわくした。

ここへ来て自分のラッパさえ吹いていない。きちんとした音楽が聴けるのなら、こんなに楽しいことはない。

すっかり一学生と化した彼は、気楽に中庭を抜けて広場の方へと行ってみた。


案の定、少しばかり高くなっている野外ステージには多くの楽器が光を受けてまばゆく輝いているのが見える。


一樹の頬が緩む。


知らず知らず、肩にかけていたトランペットケースの革ベルトをそっと握る。こんなふうに力を抜いて、客として音楽が楽しめたら…。心の中にここへ来て初めて安堵感が広がる。ただの音出しの騒音でさえ、彼にとっては心地良いメロディーに聴こえてならなかった。




半円に広がるベンチには、すでにけっこうな人数、おそらく彼らも学生だろう、が座ってライブの開始を待ちわびていた。一樹もその端に座り込み、始まるまで彼らの音を聴いていようと腰を下ろしかけた。


しかし、ステージをよくよく見ると何かが変だ。

あわただしい動きと、立ったり座ったり落ち着かない団員たち。特にラッパの連中は舞台の上だというのに、あちこちで携帯を耳に当てている。


譜面が人から人へと渡され、必死に揃えさせようと大声を出すのはバンマスらしき若者。曲の差し替えでもしているんだろうか。それとも何かのトラブルか。


ライブ直前にトラブることなど日常茶飯事で、一樹にとってもイヤと言うほど味わってきた。曲の尺が足らないから延ばしてくれだの切ってくれだの。別の曲を初見で吹かされるわ、アレンジは直前で変えられるわ。とにかく反射神経だけがものを言う。


その緊迫感が伝わってくるのだ。何があったというのだろう。



サードアルトの若い男が、とうとう楽器を置いてステージを降りた。東洋人?イヤあれは日本人だ。彼は辺りをキョロキョロしたかと思うと、なぜか一樹の姿を認めると心底ホッとしたようにこちらに駆けよってきた。


おい、なんだよ。おれはあいつのことなんか知らないぜ?


黒髪を真ん中から分けて短くカットしてある髪を揺らし、くりくりとした瞳を輝かせている。素直でおとなしそうな仔犬のような小柄な学生。首に下げたストラップが揺れている。


彼は一樹のそばまで走り寄ると、息を切らせながら嬉しそうに口早にまくし立てた。


「やっぱり尚子ちゃんの言ってたことは本当だったんですね!カズがバークリーに来てるって。ああ良かった、ここにいてくれて。楽器持ってますね?こっち来てもらえます?」


そう言いながらカズの手を引いていこうとする。ナオコちゃん?ああ、こないだのボントロの女の子…こいつはあの子の知り合いか?


「ちょっ、ちょっと待ってよ。おれ君のこと知らないし、何しろっての?」


「ボクのこと知らないのは当たり前です!初めて会ったんだから。でもボクはあなたのことはよーく知ってますから!!急で悪いんですけど、トラに入ってもらえませんか!?」


「はあっ!?トラ?」


あまりの大声に、周りも振り向く。サックスの男の子は声を小さくすると、一樹の顔をじっと見つめた。思わずたじろぐ。


「初見利きますよね!?もちろん楽勝ですよね?ビッグバンドも初めてじゃないでしょ?今日のセットリストは定番曲ばっかです。リアレンジはしてあってテンポもチョイ早めですが、大丈夫ですよね!?カズさん、プ・ロ・で・す・か・ら!!」


おとなしそうな外見と裏腹に、彼は妙に強引だった。一樹は顔をひきつらせて、それでも最低限これだけはと、必死に抵抗した。


「話が見えねえよ!!おれに何しろって言ってんのか、それを先に言え!!」


彼は少しばかり我に返ったのか、息を飲み込むとそうですよねえ、と独りごちた。


「じゃあ簡単に言います。トランペットのトップが電車遅れてステージに間に合いそうにないんです。事故だか故障だか知りませんけど、途中駅で全く動かないそうです」


おれには関係ないんだけど…、つい繰り言が出そうになり、彼のあまりの真剣さに一樹は自分を抑えた。


「で?」


「だ・か・ら!!トップの代わりにカズさんが吹いてください!!そうお願いしてるんです」


あ、ボクはサックスの本多洋輔と言います、日本人です。とってつけたような彼の言葉に、どこの国だかなんざ見ればわかるよ!と吐き捨てた。




…ラッパ吹きなら誰でも知ってるよ、カズのこと…



こんなふうに知られているとは思ってもいなかった。自分は名もないサポートメンバーで、音さえ聴いてもらえばいいとしか考えてなかった。ここではただの一学生、そうでありたかったのに。



洋輔に引っ張られ強引にステージに上げられる。メンバーたちが一斉にこちらを向く。


これがイヤだってのに。


全く見知らぬ連中の中に一人つっこまれる。音を出すまでは全く無名の新人。こいつに何ができるのか。じろりと全身を睨め付けられる。何度味わっても慣れるもんじゃない。


「オイちょっと待て!おれはやるだなんて一言も!」


「ちょっとヨースケ、この人誰?」


金色に輝くトランペットを持って長身のカズを見上げたのは、サラサラの金髪を横に流している美しい女性だった。彼女がセカンド?

フルバンドにおいて、アドリブソロを担当するのは主にセカンドトランペットと相場が決まっている。こんな細身の美女にがんがんのビッグバンドソロが取れるのか?一樹の胸の内が伝わったのかどうか、強気の瞳でにらみ返された。


「シェリル、彼はねマリコの…」


そう言いかけた洋輔の口を、一樹は急いで右手で塞いだ。ふごふご苦しげな彼に向かって精一杯ドスを利かせる。


「てめえ、その名前をここで一言でも言ったら、おれはすぐさま帰るからな」


「わ、わかりました。絶対言いませんって。吹くと約束してくれるなら誰にも言わないです」


上目遣いでにこっと笑った洋輔に、はめられたかも…と一樹は失言を悔いた。




「今回の曲は、アレンジが結構難しいのよ?初見で素人がとてもできるとは思えない。それも私でさえ彼の姿なんて見たことないわ。まだここに来て日が浅いんじゃないの?本当に吹けるの!?」


細かい意味はわからずともニュアンスは伝わる。一樹は内心、かなりむかついていた。これでもとんでもない負けず嫌いときているのだから。


しかし、彼が口を開く前に洋輔は大声でシェリルに言い返した。


「おまえヨウスケって言ったよな。他の連中に何て言ったんだよ!」


洋輔はちらっと一樹の方を向くと、今度はゆっくりと日本風の発音で周りに宣言するかのように叫んだ。



「ア…、ヒー イズ ザ モスト フェイマス ハイノートプレーヤー イン ジャパン!!アンド プロフェッショナル トランペッター!! ユー ノウ!?」



シェリルたちの目が驚きで円くなる。さすがに意味のわかった一樹は、大きなため息とともに頭を抱えた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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