あなたの話を聞かせて ~I want to talk about you
#49
身体の沈むソファに座り込む一樹を、姉も母も黙って見下ろすばかりだった。前にも覚えた疎外感が彼を包み込んで離そうとしない。自分さえこの場にいなければ、この家族たちは笑顔で会話を弾ませるんだろう。音楽を生業とする同じ高橋の人間がこれだけいても、自分はその中には決して入れはしない。
何が違うのか、なぜ弾かれるのか。一樹にだってわからない。何をどう話せば父も母も微笑んでくれるんだろうか。
ノーヒントで答えを探すことほどしんどいことなんかない。わからないよ、自分が一番。
向かいの椅子にそっと腰を下ろした母が、珍しく口を開く。
「一樹さん」
電話口での冷たいトーンより、ほんのちょっと声がやわらかい。機械を通してないだけだからか。一樹は無言でうつむいたままだ。
「あなたにそのおつもりがあるのなら…」
言葉がためらいを伝えるかのように途切れる。何か言いたいのならはっきり言えばいい。責めたいのならなじればいい。今までみたいに。どうせ突き放されるなら最初から突っぱねて欲しい。
けれど一樹は、わずかに顔を上げた。物憂そうに。それが返事でもあるかのように。
「高橋の事務所であなたのマネージメントを引き受けてもよろしくてよ」
そもそも、そのお話を勧めようかと来ていただいたのですから。
堅苦しい言葉は親子の会話とも思えない。けれどそれがうちの距離感なんだろう。言いたいことも伝えたいことも何倍にも希釈されてニュアンスはわからないでもない。でも一樹は表情をゆがめて無理やり笑おうとした。
「野放しにしておくと何をするか。ずっと僕を見張っておけというおつもりですか」
一樹!姉の叫ぶ声などもう慣れた。純正培養の天然なんかにわかるものか。
「どうして?どうして素直に聞けないの!?みなあなたを心配しているのよ。安心して音楽をさせてあげたくて、身体にこれ以上無理をさせたくなくて、私たちができることを今なら少しでもあなたにしてあげられるからと!」
「それが…金をかけて囲い込み?いい加減気づけよ姉ちゃん。家族のふりはもうできないって」
苦い苦い笑い。嗤い。純粋な姉の目にはさぞ醜く映っていることだろう。それとも哀れに見えるのか。
「ふりだなんて。本当の家族じゃない!私はあなたを愛しているわ!お父様もお母様も!」
「姉ちゃんに何がわかるんだよ!!何もかも持ってるあんたなんかに!」
殴るなら殴れよ、いつもみたいにさ。お父様みたいにさ!言うことを素直に受け取らない僕が全部悪いんだろう。愛情はいつもこの家に満ちあふれていて、僕だけがひねくれているからそれを受け損ねるんだ。あんたの言うことはいつだってそればっかだ。これだけ愛してやってるのにって!!押しつけがましいんだよ!あんたがいることでいつだって比べられる!その姉ちゃんが言うのかよ!!嫌みにも程があるって!
吐き捨てるようについて出た言葉はもう取り返せない。姉の言葉も止まる。この家で唯一温かい声をかけ続けてくれた姉も、二度と一樹には何も言わないだろう。
自分で断ち切った。細い細い糸を。
「じゃあ教えて。私たちはあなたに…どう手を差し伸べたらいいの?」
ささやく言葉に姉の強さを感じる。それに甘えられるほど、おれは…強くない。
「もし、もしだよ…。姉ちゃんの弾くヴァイオリンを誰も聴かなくなったらどうする?」
唇を噛みしめてつぶやく。どうするんだろう、姉は。
「一人でも弾くわ」
当然よと言わんばかりの声にたじろく。なら、だったら、じゃあ!
「指が動かなくなったら」
「歌を歌うわ」
「声も何もかも失ったら!?」
なぜ訊くのかと首をかしげかねない。笑みさえ取り戻して姉は続ける。
「頭の中に鳴り響く音を追いかけるわ。今でも聴こえてくるこの音を」
「それで姉ちゃんは満足なのかよ!?」
声を荒げる。誰よりも上手いとほめられ、多くの歓声と拍手が欲しいんじゃないのか。姉のいるステージはいつだってスポットの当たるセンター。違うのか!?
けれど真理子は、息をすうっと吸うと穏やかに言葉を続けた。
「一樹は…それでは満足しないの?」
勝てない。この人にはどうやっても勝てない。高橋の壁は越えられない。
ただの凡人のおれに楽器など与えた父は、確かに間違っていたんだ。もっと早く取り上げてしまえばよかったんだ。
祖父の作り上げたメソッドに通っていたって、誰もが高橋真理子になれる訳じゃない。多くの人たちの頓挫した夢の残骸を踏みつけて、姉は何も知らずにじゃりじゃりとした道を涼しげに歩く。足下に埋まる嫉妬やねたみやどろどろとした感情に何一つ気づくことなく。
おれは…踏みつけられる石の一つに過ぎないのに。病気などただの言い訳だ。この人の前で音楽をしようと思ったのが間違いだったんだ。
無言で立ち上がる。姉も母ももう止めはしなかった。ただ、真理子だけは玄関先まで見送ってくれた。
「…これは?」
悲しむ感情さえ麻痺した一樹に、姉は細長い箱を差し出す。忘れないうちにと。
「聡子から預かっていたのだけれど、渡しそびれてしまって」
聡子さんが…。言いかけた一樹はあの日、胸を通り過ぎていった氷の塊の感触を一人思い出していた。
度の過ぎたわがままを言って当てつけて、酷く傷つけた。もう逢えない。どんなに謝ったところで許してはもらえないだろう。
けれど姉は、とても心配していたのよ、と寂しげに呟いた。
「えっ?」
「本当は逢って謝りたいけれど、どうしてもその勇気が持てないって泣いていたの。誕生日にって用意していたこれだけは渡して欲しいからと。迷惑だったら捨てていいからと。聡子と何があったかなんて訊かない。でも、あの子は自分のせいであなたを傷つけてしまったって」
「聡子さんを傷つけたのは!」
自分だ、と言えずに下を向いた。生命より大事なものなんてないのに。あなたを選べばよかったのに。そう伝えて欲しいと彼女は言ったそうだ。
無理だよ。おれは死ぬ気なんてなかったんだし、何か起こってからじゃなければ自分が選ばれるなんてことは起きるはずない。
誰もが自分の生活の方が大事だ。そんなこと決まってる。わかっているのにだだをこねた罰だ。
何もかも、本当に何もかも失うために…それだけのために日本に帰ってきたのだとしたら。それこそが自分のしでかしたことへの罰なんだろうね。
桃子を想ったその瞬間に飛行機のチケットを押さえた。心の中で抑えつけ、篠原から殴りかかられても否定し続けた想いは、持つこと自体…罪なんだろう。
一樹はそっと箱を姉にへと突き返した。
「お願い、もらってあげて。私の見えないところでどうしたとしても何も言わないわ」
切なげな姉の声に、力なく首を振る。そうじゃないよ、と。
「一人じゃ…開けられないんだ。頼む人もいないし。開けてよ」
何が入っているのか。時計かストラップか。どうしろというのか。身につけて聡子が一樹を縛ろうとする気持ちが少しでもあるのなら、彼にとってはそれだけでも嬉しいと思えるほど愛情に飢えていた。だから。どうか中身を見せてよ。
そこには品のいい細いチェーンが入っていた。男物だろうけれどそれは華奢で、美しい光をはね返していた。ごっつい鎖のようなアクセサリーとは違う。楽器にも傷にも障らないほどの控えめさが、聡子の思慮深さを表していた。
「つけてくれる?」
指輪一つつけたことがない。それでも今は、形のある何かが欲しかった。
小柄な姉が背伸びしてやっとつけたそれは、やっぱり細い細い糸でしかなかった。誰かと自分をつなぐ関係は、これよりもっと儚くて細いもの。それにすがるしかないのもまた自分。
「似合うんじゃなくて?」
ようやくいつもの朗らかな声を少しばかり取り戻して、姉は笑顔を見せた。
一樹は…笑い返そうとしてやっぱりそれはうまくは行くはずもなかった。
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(つづく)