声をひそめてささやいて ~Speak low
#46
しばらく続く無言に耐えきれず、何度も一樹は口を開きかけた。そのたびに、いったい何を話せばいいのか言葉が止まる。
軽いノリでどうしようもない弟か、けなげに闘病生活を送りながらも陰を見せない明るさか。今までさんざんそれで乗り切ってきたじゃないか。
けれど、たぶん目の前の須藤は許してくれそうにはない。強い視線がそれを物語っている。何か言わないと何か。焦れば焦るほど喉が張り付く。
一つ大きな深呼吸をすると、一樹はあきらめて素直に須藤へと訊いた。
「すみません。僕は何を話せばいいんですか。教えてもらえませんか。そんなふうに黙ってらっしゃる記者の方にお会いしたことがないんで」
須藤はいったんすっと視線を外すと口元をゆがめた。一樹の頬がかあっと熱を持つ。バカにされるのは慣れているつもりだった。呆れられるのも見下されるのも。
けれど、形だけでも歯の浮くようなセリフがちりばめられて、その場は持ち上げてくれるのがマスコミじゃなかったのか。何も目の前であからさまに軽蔑の嘲笑を浮かべなくたっていいじゃないか。
「失礼」
一樹の表情の変化にすぐに気づいたのか、須藤はようやく言葉を発した。目元が少しだけ和らぐ。けれど、言葉は決して柔らかいものではなかった。
「じゃあ、手っ取り早くお訊きします。おたく、何で自殺未遂なんてしたんです?」
「はあ!?」
いろんなところでお話ししたはずですが。あれは単なる事故だと。
一樹が何度も繰り返したセリフをよどみなく言って聞かせようとしても、須藤は唇を曲げ、手にしたボールペンをもてあそぶばかりだ。信じてなどいない、とはっきりと意思表示するかのように。
「死んでもいいとどこかで思っていた。そういう気持ちがあったことは認めるんですよね」
「あなたが最初からそういう結論を持っている、ってことですか?僕が何を言おうとそういう記事を書きたいんでしょう!?」
落ち着こうとしても声を荒げてしまう。それがこいつらのやり方だとしたら、決して挑発に乗るな。自分で自分をいさめようとするけれど、若い一樹にはとうてい無理なことだった。
今度は須藤が一度、ブレスをする。一拍。周りには春野も雑誌側のスタッフもいるはずなのに音が聞こえない。
「私はね、本当のことが知りたいだけなんですよ。おたくが何を思って何をしたのか。なぜ今になってメディアに出ずっぱりなのか。高橋孝一郎に息子がいるだなんて本人も一切口になんかしたことなかった。ましてやミュージシャンとして業界にいることなど認めやしなかった。おたくらが言い張るように一つの事故が起き、裏事情を隠し覆うかのようにここに来て綺麗に美談にまとめようとしている。新手の売り込み方ですか。それならそれでいい。それくらいしたたかなら読者も納得するでしょう。で、どうなんです?」
自由の利く右手を握りしめる。本当のことだなんて一樹自身もわからないのに。どうして不特定多数の赤の他人に話して聞かせることができるんだろうか。
「適当な憶測で記事を書いて、知らない人たちの噂の種にしたいんですか!?よくそんなことが…」
「取材を受けると決めたのはおたくでしょうが。知らない人たちの噂の種にしてください、とおたく自身が仕事として受けたんだ。違いますか」
一樹は言葉に詰まった。ああそうだ、プライバシーを切り売りして金にしようと売り込んだのは自分だ。父がしたように。姉を守るために実の親が息子を売り飛ばしたのと同じように。
「だったら、私の憶測なんかで記事を書かせないでくださいよ。おたくがきちんと本当のことを話してくれれば、私らはそれを元に記事が書ける。無能さを装ったタレントなら供給過剰ですよ。その辺のバラエティー番組には腐るほどいる。あの集団に属したいと思ってやっていることですか。それとも何か意図があるのか。そもそも、メディアに露出して何をしたいんですか」
おれは…ただ楽器が吹きたいだけだ。そんな言葉が須藤に通じるとは思えなかった。うまく話し出せない。頭のカウントが聞こえない。おれはどこから吹き始めればいいんだ?
「お父さんとはずいぶんとまあ、言っちゃあなんですか、折り合いが悪いそうですね。その辺りを話してもらえると読者は喜ぶと思いますよ。高橋親子に今まで全くと言っていいほど悪い噂なんか聞かない。おごっているとも高慢とも言われたことさえない。今どき珍しい爽やかなイメージで憧れの対象のそんな家庭でも揉め事はあるのかと、さぞかし世間は興味を引くでしょうね」
その悪い噂を、姉のためだけに立てずにおこうとした。音楽業界に不肖の弟がいれば何をしでかすかわからない。閉じこめてしまえ、追い出してしまえ。息子が何かやらかす前に。
あの人たちにとって、高橋の家は真理子さえいればいい。そんなこと最初からわかっていたはずなのに。
あまりにバカバカしく思えて、一樹は黙ったまま嗤う。
苦く痛く乾いた感情。何を期待していたんだろうか、壊してしまえるのにいくらでも。世間が言う「高橋親子」に自分は含まれない。おれが彼らのイメージを壊すほどこっちには金が入る。名前も売れる。どんな形でさえ世間に認知される。そうやって自分の置かれた立場を悟らせ嘆かせ開き直らせるために、須藤はおれをいためつけて挑発しているのか。
感情を押し殺せ。マスメディアを利用するのはこっちだ。
「仲が悪いだなんて、そんなことないですよ」
微笑んでみせる。ほら、こんなことだってできるようになった。音楽にしがみつきさせしなければ、高橋の家に生まれたってだけで暮らしていける。
「家出してたんでしょ?」
誰に聞いたのか。家出なんかしてない。そもそも逃げ出そうとする家庭自体が存在しないのに。
「まさか。治療を受けた病院に近いからと下宿していただけですよ」
「十五から?赤の他人の家にですか」
「そんなに不仲な親子だと決めつけたいんですか、須藤さん。僕ら自身が思ってもいないのに」
今度の苦笑いは営業用だ。困ったなあというニュアンスさえ浮かべ。
「ご病気された頃、他の家族はパリに住み華々しい活躍をしていた。一人残されておたくは恨みを募らせていったと」
「あの、僕クラスの底辺業界人に対して詳しく取材する必要とかあるんですか?読みたい人がいると思えないし、少しばっかり世間を賑わせたから書いておくかとか」
須藤の言葉にかぶせるように、一樹は早口でまくし立てた。隠す気はない。こんな自分のために余計な時間を取らせては申し訳ないとまで思うからだ。さっさと終わりにして次の仕事に行って欲しい。相手の貴重な取材時間を奪うほどの価値は自分にはない。
本気でそう思っていたのだ。この須藤だって、相手が真理子ならまた違ったアプローチをするんだろうし。
「高橋親子」に関わる周辺の者が起こした事件だから取材される。だろ?
しかし、須藤の方が今度は沈黙した。またあの強い視線を一樹に向けながら。思わずたじろぐ彼に、低い声で須藤は言った。
「カズさん。私はね、あなたを取材したいんですよ。高橋真理子の弟でも高橋孝一郎の息子でもなく、高橋一樹というミュージシャンをね」
嘘を言うな、きれい事を言うな。さっきだって「高橋親子」の醜聞だからと言ったばかりじゃないか。
ふるえる声でそう伝えると、須藤はにこりともせずに再び一樹に向き合った。
「才気あふれる有望な芸術家の弟であるあなたは、どんな思いで今まで生きてきたのか。日本の音楽界に大きな功績を残し続けている高名な音楽家の息子であるあなたは。わかりますか、カズさん。私は、あなたの肉声が聞きたい。あなたの目から見た二人のことも、もちろん知りたい。それは決して世間が見ているものとは違うはずだ。それでようやくあなた方のことが、より人間らしく見えてくる。今のままでは…特にあなた自身の姿は何一つ見えやしない。お父さんとお姉さんの陰に隠れて、あなたは何がしたくて顔を売ろうとしているんですか」
おれ自身の…姿?誰も見たいとも思ってなんかない!そう叫びたかった。姉を守るためにだったら、お父様は一度も口にしたこともないセリフを簡単に並べられるんだ。心にもない言葉でも何でも!
心の中だけで言ったはずの言葉は、気づくと有声音の呟きへと変わっていた。伝わるはずもない想いは、ちゃんと届いてしまっているらしい。須藤が深く頷いている。
「あなたは、孝一郎氏が真理子さんだけを大切にしていると思っていらっしゃる。それはなぜですか。同じ子どもには変わりないのに」
リアルに言葉にされてしまった想いは同定され、現実にあるものへと姿を変える。こんなことを話すつもりなど何一つなかったはずだ。
「…僕に才能がないからです」
「そちらの業界では評価が高いと伺ってますが」
「世界には通用しないから」
そりゃあハードルが高すぎる。須藤の苦笑は、決して一樹を蔑んでいるようには見えなかった。
「一生…高橋真理子と比べられる。才能などないおまえにそれが耐えられるのか。そう父にはっきりと言われました」
「名を隠し、病気であることをも隠して音楽活動を続けてこられたのはなぜですか」
言葉遣いさえ違う。須藤のそれは、ゴシップを追う記者のものではなく、音楽家としての一樹に向けられたもの。そうされたかったのか、才能もないくせに。今は楽器さえ吹くこともできないのに。一樹は自分の欲深さに、口元を覆いこみ上げてくる何かを押さえ付けた。
家族という枷を外せば、彼らには足元にも及ばないのに。肩を並べていっぱしの芸術家を気取りたかったのか。そばにいるから自分も同じだけの力を持っていると思いこみたかったのか。
それでも、自分自身を傷つけるかのように一樹は言葉を続けた。
「…高…橋の名前を…出せば、正しく自分を…評価してもらえないだろうと…思って…」
闘病生活を隠しながらの音楽活動も、同じですか。須藤の声が頭に響く。
そんな立派なものじゃない。いつ自分からラッパを取り上げられてしまうかが怖かっただけだ。
「高橋の名と…病気は、僕の実力…を勝手に…かさ上げし…てしまう気が…して」
優遇され同情され、自分の実力と関係なしにステージが用意される。それはイヤだと抵抗してみれば、ほら、自分には何一つ手にしたものなんてない。
「逆、じゃないのかなあ」
ふと、須藤は力を抜いた声で呟いた。意味をとらえかねて一樹は目を見開く。逆って…どういうことなんだろう。
「もう一度伺ってよろしいですか、カズさん。あなたは何のためにメディアに出続けているんですか」
金のためだと正直に答える。あの人たちに借りを作りたくはない。須藤には伝わったんだろう。この人はたぶん、言葉尻をとらえておもしろおかしく書き散らすつもりはないのだろう。
経済的に困っているようには思えませんが、なぜ?と訊かれた。
なぜだろう。一樹自身も深く自分に問いかける。
姉を困らせたかったのか。繊細な芸術品である姉を羽毛で包み込み、どんな手を使ってでも守り通そうとする周囲の人間たちに復讐したかったのか。
ああ、全部違う。そんなんじゃない。今なら須藤にも伝わる気がする。
「もう一度、楽器が吹きたかったんです」
治療費が必要だ。留学を維持するための生活費もいる。本当にそれだけのために。
「真理子さんと比べられてもですか」
だから離れたかった。家族よりも音楽を取る、おれたち家族は誰もがそうだ。
「何度も病気に倒れても、ですか」
そのたびに何回絶望感を味わわせられようとも。おれは楽器が吹きたいんだ。どうしても…どうしても。
「だから早く痛みを取りたかった。気づいたら何錠も薬を口にしていた。死にたいとほんの少しでも思っていたのなら、こんな辛い治療なんて耐えたりしない。骨が折れても楽器を吹いた。吐き気が辛くてもステージに上がった。でも…病気を言い訳に粗末な演奏なんか聴かせられない。仕事を失うことだって何度もあった。病気なんだから大目に見て欲しいだなんて言える世界じゃない!」
腕を組み、深い頷きを繰り返していた須藤は、ふと顔を上げると最初のようにあごの下で両手を組んだ。
「傷跡を、見せていただいてもよろしいですか。できれば撮影させてもらえるとありがたい」
一樹は表情を引きつらせた。言い訳にならないと今おれは言ったはずだと。
「これほどまでの辛い思いをしてまで、それでも奏でたいあなたの音楽ってどういうものなんだろう。そこから初めて…あなた自身の音を聴いてもらえるんじゃないかなあ」
今のままでは、いつまで経っても真理子さんの添え物でしかない。あなた自身をさらけ出さなければ、あなたの音には誰も耳を傾けませんよ。
須藤の言葉が、胸をえぐっていく。事務所の春野の方が耐えきれずに一樹を止めようとする。それに笑顔を返しながら、大丈夫だと伝える。そう…おれは大丈夫。
「それほどまで伝えたい何かがある、あなたの音楽には。そうとらえていいんですよね」
伝えたい何か?
その言葉に、一樹が保っていたものがぐらりと揺さぶられる。担当教官であるロマーノに何度も問われた。何を表現したいのか、何を訴えたいのか。それは…音楽でなければできないものなのか、と。
おれはただ、楽器を吹いていたいだけなのに。おまえは何も持っていないじゃないかと、ここでも責められるんだろうか。
「いつあきらめてもよかったはずです。それでもあなたは吹き続けた。他人は心なんて見えないし見ない。だからこそ、あなたの傷を見せてください。そこまでして言いたいことがあるのなら聴いてやろうじゃねえか。客をそう思わせたくはないですか?」
伝えるべき何かがわかってないのは、なによりも自分自身だというのに。
一樹は襲ってくる不快感と自己嫌悪感を振り切るかのように、未だ動かない左腕を右手で持ち上げながら須藤へと差し出した。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2011 keikitagawa All Rights Reserved