なぜ私を選ぶの ~Why did I choose you?
#44
一樹を呼び止めようとする戸田の声が響く。かまわず、点滴の管を引き抜き廊下へと走り出た。病院着の裾が身体にまとわりついて動きづらい。
あれ以上、嘘を並べた空想上の理想の父親像なんて見ていたくなかった。あの人は、自分の周りの大人たちはみな、自分に届かない場所から愛を語る。
よく見ることも触れることも感じることもできやしないのに。
父親から「闘病中の息子」呼ばわりされる筋合いはない。あんたは何一つ手を差し伸べようとはしなかった。現実にはそう思ってしたこともあるのだろう。でもそれは一回でもおれに届いたことなんてなかった。
聞いてよ!僕を見てよ!助けてよ!
あのときの声は…すべて拒絶されたというのに。
息苦しさに足を止めると、首根っこを掴まれた。ついでに全然威力のないげんこつまでおまけ付きで。
それでも上目遣いでふてくされてみる。そこには一樹よりもっと憮然とした表情の律子がいた。
いつだってエラそうな態度の女医。帰国子女だって言ってたっけ。全く骨腫瘍科にはまともな医者はいないのかよ。言葉にするだけの勇気は一樹にもなかった。黙って口をとがらせる。
「その格好でどこへ行く気だ。針を勝手にひっぱり抜くんじゃない。看護師長に叱られるのはこっちなんだからな」
そう言いながら一樹の自由が利く右腕を持つと、わずかににじんだ血を何かで拭き取ってから白いテープで簡単に処置をする。
医者のポケットって、そこから何でも出てくるのが不思議だった。あの入院したての幼さを残した頃の一樹にとっては。
今は…二度と来たくないと思ってもここへと引き戻されるうんざり感でいっぱいだ。
「だって、もう、退院していいんでしょ?」
むすっと言い返す。その派手めな格好よりはその実、医師としての経験をかなり積んでいるだろうベテランの女医は、一樹とは目を合わせずにため息をついた。
「救急の治療は終わっている。次は骨腫瘍科に回してもらうか。おまえみたいな無茶をする患者には、じっくり入院加療を勧めるぞ」
「行かない」
もう一度、小さなため息。どんな態度を取られようとこんな白い檻に閉じこめられるのはゴメンだ。
「その腕じゃ、生活にもかなり支障を来しているだろうに。さっさと帰国してくれば良かったんだ。あっちの骨腫瘍科が優秀なのはそりゃわかっているが、おまえがあの環境に耐えられるとは到底思えない。問い合わせもした。悪性化の兆候は見られず良性だったそうだな。だったらなおさらおとなしく療養すればいいものを」
「…日本に帰ってあの家に監禁されてばいいの?周りはみんな、それを望んでるっての?」
監禁っておまえ。律子の言葉が途絶える。
幾度めかの入院中に一度も顔を出さなかった家族の様子を、律子だって知っている。忙しかったんだろうよ、彼らが言うように。唯一来たがって何度も連絡をよこした真理子は、多忙なスケジュールに阻まれて帰国すらできなかった。
「何がしたいんだ。何が欲しいんだ。おまえはもう立派に成人していてちゃんと自立しているじゃないか」
責める口調じゃない。それはわかる。けれど一樹には、ああこの人からも親のような情をもらうことはできないのだと思い知らされるだけの言葉だった。
「おまえのご両親が心配しているのだって、十分わかっていい年頃だと思うぞ私は」
現に、眠り続けるおまえにずっと付き添っていた。気づかなかったのはおまえの方だ。
律子のセリフが胸に刺さる。
そうさ、そうなんだろうさ。彼ら大人はいくらもで一樹に愛情を注いでいる。だとしたらそれを感謝せず感じようともしないおれが悪いんだろうよ。
監視され、行動を制限されると思うな。見守り、保護していただいていると思いなさい。
思えないよ。愛情のストックが最初からからっぽなのに、愛されている実感がどういうものかさえ教えてもらってないのに。
おれに向かって笑顔を見せてよ。温かい声をかけてよ。それを望むことは贅沢なのか。わかりやすくてはっきりとした愛情って、そんなにも実の子どもにさえ惜しむものなのか。
親だから、子どもだからわかるはずだと、わからないのなら子どもが悪いと。またそうやっておれだけを責め立てるの?
子どもと言い切るには歳を取りすぎた。大人にはとうていなれるはずもない。一樹はここでもまた、なにものにも属せない孤立感を覚えていた。
「律子先生、医者ってさ留学しなきゃなれないの?」
不意に話題を変えられ、彼を痛ましげに見守っていた女医は少しだけ眉をひそめた。背の高いはずの一樹が下からのぞき込むように律子の目をとらえる。その真意をはかりかねたのだろう。静寂の間。
「そんなことはない。日本から一歩も出なくたって十分やっている医者はいくらでもいる。まあ、研究畑をやりたいヤツは話は別だけどな」
「女の人でも、幼い子どもを日本に置いてまでも、留学するって何でだと思う?」
律子の困惑ぶりが伝わってくる。おれは何を訊いているんだろう。訊いてどうしようというのだろう。結局は自分はいつまで経っても、置いてかれる子どもの立場でしかないんだろうか。
「私にわかる訳がない。子どもどころか結婚したこともないんだぞ?想像もつかんわ。医者にもいろいろいる。そうとしか言えないな。なぜそれを訊く?」
「骨腫瘍科ってそんなにないんだろ?ボストンに留学してる日本人の女医なら、律子先生も知ってるかなって」
試しに梨香の名前を出す。律子は首を横に振ると、少なくとも学会でその名を聞いたことはないが、と付け加えた。
「良性腫瘍が原因の骨折なら一般的な整形でも扱うからな。専門医とは限らん」
ああそうか、そうだよね。
訊いたらわかるかも知れないと思ったんだ。子どもを捨てるように日本に置いたまま、海外で働く親というものの気持ちが、さ。
おれを置いてパリに居続けた家族、桃子に残酷な選択をさせてまでNYで暮らすキミエ、そして、幼い子どもと離れてボストンで働く梨香。
なぜ手放せるんだろうか。そばにいたいとは思わないんだろうか。案外狭い医者の世界なら、同じ専門なら、何かしら事情を知るかもしれないと律子に訊いたのか。
「その医師が、おまえの担当医か」
「今は違う。担当というか使いっ走りだったからその人。ちゃんと別のエラそうな先生もついてたし…骨折は治ってるからって」
治ったんだからもう用はないと見放され、ペインセンターに放り込まれたと苦く笑う。
ウォーリズからも用なしと宣告された。それは彼らの優しさだということは十分わかっている。管楽器科から逃げるように作曲科へ転科し、日本にあわてて帰ってみれば篠原からも聡子からも。誰も悪い訳じゃない。でも、確実にあったはずの居場所がなくなっていって、気づけばただ一人。
待っているのはイヤなんだよ。誰も…迎えになんか来てくれないから。誰もがもう少し待てと言う。時間をくれと言う。あと少しで君の番になるから、そんなに急がせるなよと。
急ぐんだ。
おれが生きているうちに間に合わなければ意味なんてない。でも誰もが大切なものを持っていて、そっちを優先されてしまうんだ。
梨香が日本に置いてきたという幼い息子に会えば、気持ちがわかり合えるんだろうか。この、例えようのない寂しさを。
ゆっくりと近づく足音は戸田のものだった。律子は退院の諸書類を一樹ではなく彼に渡す。もう…誰も何も言わなかった。
「ご迷惑をおかけしてすいませんで…あの、そのええと」
戸田の用意してくれた別のホテルに荷物を移し、その足で自分の所属事務所へと向かった。
高橋音楽事務所に入るつもりは全くないし、そもそもあれは真理子と孝一郎のマネージメントを扱う会社だ。二人のCDとDVDと、父親の場合は自作曲もあるから管理事務は多岐にわたる。
対照的に、一樹が勇次のつてでもぐり込んだのはインディーズ系のバンドを扱っている弱小プロダクションだった。
社長の上河内は、形ばかりの社長用机に行儀悪く頬杖をつき、一樹を睨め付けた。
「どうすんのよ、これから」
狭い事務所内には髪を染めに染めて立たせている連中もいれば、びりびりに引き裂かれたような黒い服に身を包んだ集団もいる。彼らが根は優しいということを一樹は十分知っていた。彼に心配そうな視線が集まる。
「これからってあの、かなり迷惑をかけたんですよ、ね、きっと。クビ…ですか」
こわごわと聞き返す一樹に、上河内はオネエ言葉を交ぜながらどさりと書類を机の上に投げ出した。
「見なさいよ、これ」
「退職届とか、そういうの書かされるんすか?」
「あんたってホントにバカなんだから。帰国したんなら顔くらい出しなさいな。帰ってたことも知らないなんてまさか言えないから、取材のマスコミに取り繕うのがどれだけ大変だったか!!」
「取材とか来たんすか?ここに?」
おれそんな別に有名でもないし。言いかけた一樹に、上河内は持っていた別の書類で頭をはたいた。
「言いたかないけど!ここもあんたも別に有名でも何でもありませんですよ!しょうがないじゃない。天下の高橋孝一郎様が、あんたのこと息子だってバラしちゃうし。カズって誰よって話になれば、こっちにも取材来るじゃない」
「…すいません」
素直に頭を下げる。確かに、留学をするからとワガママを言って解雇されなかっただけでもありがたいと思わなきゃならない。顔も出さないどころか思い出しもしなかった。本来なら真っ先にここに来ていれば良かったんだ。
少なくとも、契約という形で居場所が保証されていたところなんだから。
それも…やっぱりクビか。
ボストンに帰ろう。とりあえず作曲科に在籍の事実と医者通いの予定は間違いないんだから。
一樹の思いを知ってか知らずか、上河内は今度は頭を抱えた。
「クビ、だけじゃ済まない…とか言われるとあのだからその」
「誰があんたをクビにするって言ったのよ!その資料見なさいって!だからどうすんの!?」
一樹にしてみれば話が見えない。ここに今いても肝心のラッパが吹けなければ仕事もできないのだから。
黙りこくってしまった彼に、社長は一枚の資料を手に取って見えるようにかざす。
「あのね、あんたに取材やら出演依頼やらのオファーが殺到してるんですけど。無理にとは言わないから。全部断るって言うんだったらこっちがそれは処理しておくから」
「オファー?だっておれ、今ラッパは」
吹けないことも伝えてなかった。仕事どころではないと。これで自立が聞いて呆れる。一樹は自分の甘さに唇をかんだ。
「だからあんたってバカって言われるの!誰もラッパ吹けだなんて言ってないし、需要もないから!」
普通に聞いたらへこむわ。一樹は内心でため息をついた。ああそうだよ、どうせおれのラッパなんか需要なんかねえし。どこ行ってもバカって言われるし。
「じゃあ、オファーって」
何も考えられない。クビではないという。演奏の仕事依頼でもないという。それこそ上河内はおれにどうしろと言うのだろうか。
その様子をしばらく黙ってみていた社長は、いくぶん声のトーンを落としてこう告げた。
「『闘病を続けながらも音楽に取り組む息子。それを、子を想う一人の親として見守り続ける世界的指揮者』。そういう話をして欲しいらしいのよ。カズにしたら一番やりたくない仕事だろうから、あたしたちに遠慮しなくていいのよ」
一樹は目を見開いた。
子を想う親?誰のことだ?瞬時に「断ってくれ」と言うつもりで口を開きかけた一樹は、おれに世間が求める役回りはそれなのか、と固く目をつぶった。
そして、一度大きく息を吸い込むときっぱりと言った。
「金になりますか、それ。だったら受けます。てか、受けさせてください」
絶句したのは、今度は上河内の方だった。
(つづく)
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