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若く愚かで ~Young and foolish

#43


目が覚めればいつも冷たく白い天井。見慣れてしまった光景に一樹はうつろな視線を向けた。

ああそうさ、これは罰ゲームでいつだって振り出しに戻される。何をどうあがいてもゴールへ向かうルートにすら乗れない。サイコロの目がいくつだろうと、止まったコマには「スタートへ戻る」の文字。


身体が重く、頭全体もずきずきと脈打つように痛む。ここは消毒液のにおいが充満していて白ばっかりに囲まれて、おれは身動き一つできやしないんだ。



顔を動かすのもおっくうで、もう一度まぶたを閉じる。人の気配を感じて様子をうかがう彼に、ゆっくりと声がかけられた。


「気づかれましたか。調子はいかがです」


いいわけがない。吐き気は酷くなるばかりだし、どのくらい眠っていたのか背中は固まってしまっている。

けれど、柔らかい声の主のことを考えると、一樹はそっと言葉を返した。


「今は別に。…腕も痛くないし」


これは本当だった。ずっとつきまとっていた鈍い痛みは、皮肉なことに影をひそめていた。他の苦痛に紛れているだけかも知れないが。


「戸田さん。今度はどこでぶっ倒れてたの?おれ」


何気なく訊いたつもりだった。温厚で知られた姉のマネージャーの戸田は、しかし、一樹の言葉に表情をこわばらせた。

一樹の目がとまどいに揺れる。本来の症状で、薬の副作用で、辺り構わず動けなくなることなど珍しくない。それでここに運び込まれたのだとばかり思っていた。


「…覚えてらっしゃらないのですか」


だから何が?と言いかけて、ここが日本だということをようやく思い出した。桃子に逢おうとして篠原に拒絶され、それから聡子に暴言を吐き。自分がやったことを思い出せば出すほど自己嫌悪だけが積み重なってゆく。

飲み過ぎたのか。それで救急搬送でもされたんなら、いくら穏やかな戸田だとしても呆れられて仕方ないだろう。



「高橋の方と一樹さんの所属事務所との間では話はまとまっています。退院後はいろいろマスコミから訊かれるでしょうが、事故という線でお願いします。というかできれば何も話さずにいてくださるのが一番、その、あなたが傷つかずに済むのかと…」


慎重に言葉を選んで話す様が伝わってくる。その戸田の困惑がどこから来るのか、一樹には全く分からなかった。


「事故って?おれ何かしたの」


起き上がろうとして身体に力を入れたとたん、一樹は顔をしかめた。頭痛が半端ない。抱え込もうとしても腕は点滴で固定されっぱなしだ。




「出された処方薬を一袋分飲めば死ねるとでも思ったか、このアホ」


不意に開けられたドアから罵声が飛んでくる。と言っても綺麗なソプラノじゃ全く迫力がない。


「誰?律子先生?」


「白石先生と呼べ、馴れ馴れしい!救急からさんざん叱られたのはこっちなんだからな!!患者の管理がなってないと!」


白衣に同系色のスカート姿の女医は、巻いた髪を結ぼうともせずに肩あたりに散らしていた。以前、骨腫瘍科入院中の際に担当医だった律子は、その整った顔立ちで一樹をにらみつけた。


「どういう…こと?」


意味が分からない。確かに日本語で話されたはずだ。なのに彼女の言っていることが理解できないでいる。一袋分?死ぬ?誰の話をしているんだ。


「あげくに、中途半端に吐いたせいで呼吸停止寸前だと!?もう少し回復したらぶん殴って性根をたたき直してやる」


かなり怒ってるに違いない。ふだんから言葉遣いは酷いもんだけれど、今日の彼女はいつもにもまして乱暴な口調で吐き捨てた。


「待ってよ、律子先生。それじゃまるでおれが自殺でもしかけたみたいじゃないか!?」


こっちも思わず怒鳴ってしまってから、がんがんする頭をしずめるために一樹は目をぎゅっとつぶった。



無音のブレイク。

また訪れたイヤな間が、誰もを落ち着かせなくする。



「…違うのですか」


おずおずと戸田が問う。あの状況下で他の判断ができると思うか!と律子が怒鳴る。


そんなこと、おれがするわけないじゃないか。死にたくないからこれだけ悪あがきしてんのに。


掠れた声はそれでも他の二人には届いたらしい。痛ましげな視線へと変わるのが感じられる。


「じゃあどうして、あんなこと」


「吹きたかったんだ、マッピでもいいから。たくさん飲めば痛みは消えるんだろ?麻酔みたいに感覚が麻痺して吹けると思ったんだ!違うの?おれはただ吹きたくて!!」


律子は黙ってつかつかと一樹のベッドへと近づくと、遠慮なく頭をはたいた。ばこっという音に、いってえと弱々しい声。


「このアホんだら!!いくら説明書が英文だからって言ったってちゃんと読め!!つうか、そもそも薬を酒で飲むな!!事件として処理されなかっただけでもありがたく思え!!」


どこかそれは、一樹が吐き出す悲痛な思いをごまかすかのような彼女の大声だった。もうそれ以上何も言うな、と。


「おれは」


「いいから寝てろ!処置は終わってるから、その点滴がなくなれば帰れるようにしてやる!」


「言わせてよ!じゃあおれは病気を苦に自殺を図ったとでも思われた訳!?ここにいてくれる戸田さんには感謝してるよ!でも、でも…誰も……」


ここにはいないじゃないか。

家族という名の他人が誰一人。死にかけていたんだろ。目を離せば自殺しかねないと思われたんだろ。同じじゃないか、お父様の時と。でも今は…誰もいない。



「昨日まで病室にいらっしゃったんですよ。真理子さんも高橋先生も。残りたい気持ちは十分おありだったようですが、ロンドン公演にはどうしても、と朝早く出られて」


おまえは丸三日眠り続けてたんだよ。律子がそっと付け加える。


「…怒ってた?」


お父様は。声が震えた。家族に黙って帰国したあげくのこの騒ぎだ。マスコミがどうのとさっき言ってたってことは、表に情報が流れたんだろう。対応に追われたとしたら、かなり怒っているに違いない。


怖かった。

父親の前ではどんな説明も言い訳にしか聞こえないだろう。聞いてはくれないだろう。そしてまた切り捨てられるんだ。おまえは要らない、と。


「心配されていました。あとで話が食い違ってもお困りでしょうから、会見の様子をご覧になっておかれますか」


「会見?あのお父様が…なんか話したの?おれのことを…?」


退院手続き進めておくからな、と言い残して律子はドアの向こうへと消えた。大河原には話が行ったんだろうか。耳に入ったとき、やっぱりおれが死にたがっていたと思われたんだろうか。


どれほどみっともなくとも生きようと誰よりももがいているのは、この自分だのに。




ベッドの角度を起こしてもらって、病室備え付けの再生機器の画面を見つめる。立ち上がる前に、そっと置かれたスポーツ紙の見出しを眺める。



最初の赤い文字には<エリート音楽一家に何が!?>と書かれていた。

天才ヴァイオリニスト高橋真理子の影でひた隠しに隠された不肖の弟は、

親の金で放蕩海外留学の末、酒タバコ乱交では飽きたらずドラッグ遊びまで?



どぎついあおり文句が並ぶ。はん、今さら。酒もタバコも海外どころか十六、七の頃には当たり前だったってのに。苦く自虐的に笑う。バカバカしい。何も知らないくせに、何も。

こうやってデタラメな憶測が広まってしまえばいい。品行方正な高橋親子の名声など地に落ちてしまえばいい。


こんなに簡単なことだったんだ。おれがこうやって無茶をすればするほど、いくらでも復讐することなんかできたんだな。


守ろうとすることなんかなかった。すべてこの手で壊してしまえばいい。マスコミなんか好き勝手に書き散らしてくれる。あの穏やかで優しげな仮面なんか、全部全部引きはがせるのに。


一樹は新聞の端を握りしめた。これが怖くておれをしばりつけようとしたのか。監視したくてどこへも行くなと釘を刺し続けていたのか。


バカだよ、みんな。こんなことで。笑いたくなった、大声で。




でもそれは、ようやく再生され始めた映像にかき消された。聞き慣れた父の声が耳に入ってくる。


憔悴しきった、弱々しい声。やつれた表情。完璧だね、でももう手遅れじゃないの?


目を離せずに見やる一樹に、思いがけない言葉が伝わってきて、彼は息をすることさえ忘れそうになった。


画面の中の父は、頭を深々と下げて騒ぎをわびると、こう言ってのけたのだ。



「息子は、十年近くも闘病生活を送っております。親としてこれ以上身体に負担をかけたくはないと何度も止めたのですが、息子は…一樹は、音楽を止めることはできないと」



悪性腫瘍に冒された息子のたっての希望を叶えてあげたい。抑えてもこらえきれないといった風にさえ見えるにじんだ涙。



画面の中の高橋孝一郎という人物は、見事に「高名な音楽家ではなく、愚かなまでにただ子を想う一人の平凡な親」を演じきっていた。一樹にはそう思えた。


「嘘つくな!!」


思わず払いのけた手で、再生機器は揺れて…落ちた。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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