苦しみを夢に隠して ~Wrap your troubles in dreams~
#42
一樹はホテルのベッドに腰掛けて手のひらのものを見つめた。銀色に鈍く光る小さな金属の固まり。それは彼がずっと手放すことの無かったもの、そして今は手から離れて久しいもの。
トランペット用のマウスピース。
カードではなく自分の財布から幾枚かの札を出し、楽器屋のショウケースに無造作に並べられていた一番安いヤツを買った。手に伝わる慣れ親しんだ冷たさ。
部屋で楽器を吹くことだってできないことはない。けれど自分の手元には愛用のバックがないのだし、新しい物を買ったところでこれから吹く機会があるかどうかさえわからない。
楽器はあくまでも道具で、音を奏でないのなら一樹には意味がない。
…吹きたい。
篠原に突き飛ばされたときの痛みがぶり返す。腕なんかより心が胸が痛い。聡子は拒絶なんかしていないだろう。わかっていてもなお、選ばれなかったという思いだけが残った。凍り付く塊が身体の中心をつきぬけてゆく。
片手で器用に包装を解くと、一樹はそっと真新しいマウスピースに唇を押し当てた。口元を少しばかり緊張させ、アンブッシュアを丁寧に作る。
柔らかく、息を吹き込む。バズィングの音が静かに響くはず。
けれど彼が呼吸を整えて吹き込んだ瞬間、一樹の手から銀色のそれは転がり落ちていった。
「…!?」
ものも言えず、思わず開いてしまった右手で左腕をかばう。音を出そうと全身にわずかな力を込めただけで、ずきりと腕は痛んだ。
目をつぶり、歯を食いしばって痛みを逃す。一樹にとってはいつものことになってしまったその作業を、どれくらいしていただろうか。
ようやくほうっと息を吐き出すと、あきらめきれずにもう一度マウスピースを拾い上げた。
左腕の骨にできた空洞は人工骨で埋めてある。骨折も完治した。痛みが残るわけがない。何度も何度も自分に言い聞かす。この痛みは気のせいだと。無理をして吹いていれば自然に治まるんだと。
半ば意地のように、彼はバズィングを試みる。大きなトランペット本体を鳴らすわけじゃない、ちょっとだけ力を加えればいい。ましてやホテルの部屋でいつもの音量で口慣らしをしたら、マッピだけでもけっこううるさいはずだ。
タバコもそうだけれど口元に何かを加えているのは寂しさの表れだと、誰かにからかわれたことがあった。そんな学説があるんだそうだ。じゃあ、管楽器奏者はみんな甘ったれの寂しがり屋だって言うのか?ふっとついて出る苦笑い。
案外、そうかも知れないと思いながら。
もう一度だけ、もう一度。何度試そうとも同じだった。痛みは鋭さを増すばかりだし、音はピアニッシモでさえも出せやしない。
マウスピースをシーツの上に放り投げ、度も入っていないメガネをむしり取り、一樹は自由の利く右手で顔を覆った。
…吹きたい。どうしても。
音は優しい。音楽は人を甘えさせてくれる。誰に何も言わなくていいから。言葉は人を切り裂くけれど音は何も語らないから。
それでいて、同じ空間を共有している者たち同士の心が繋がっているかも知れないと…勝手に思いこむことができるから。
一樹の頭の中に音が鳴り響く。スイート・オブ・トキオではなく古めかしいジャズのスタンダードたちが。繰り返されるブルース進行が、一樹をそそのかす。
あのフレーズを吹いてくれ。鳴らしてくれ。今すぐこの場で、今でなきゃ消えてしまう。
おれの欲しいものは何だ。たった一つだのに。
おれだけを見つめる目と温かい手。隠されたものじゃなくてはっきりと触って確かめられる体温。おまえのことを気にかけ心を傾け愛しているという…言葉そのもの。
誰もくれない。誰にでもおれより大切なものがあっていつだって順番はとばされるんだ。
だからせめて大きな音を鳴らして、誰もかれもを振り向かせたい。
頭を抱え込む姿勢でベッド脇のテーブルに突っ伏していた彼の目が、無造作に置かれた紙袋をとらえる。日本に持ち込めるだけの処方薬だ。
この薬を飲めさえすれば痛みは消えると医者は言った。我慢して飲み続ければ大丈夫だと保証した。うっそばっかだ。おれはまだ痛みのまっただ中で音をつかまえられずにいる。
手を伸ばして錠剤を一つ取り出した。口に入れ、かみ砕く。
きちんと水で飲まなきゃいけないのにね。立ち上がるのもおっくうなんだ。
苦いのは薬のせいなのか渇ききった口のせいなのか。ほんのわずか金属の味が残ってる。振動一つしなかったマウスピースの残り香みたいな。
手にした薬がなんなのか確かめもせずに、一樹はもう一錠を口に放り込んだ。
ねえ、まだ痛いんだ。
近くにあった缶を傾けて薬を流し込む。コーヒーだったっけ。それともビール?覚えてない、味も…わからない。
ねえ、いつになったら効いてくるんだ?まだ痛むよ。
右手は勝手に錠剤のシートを開け続ける。飲み込む喉に何かがまとわりつく。
早く効けよ。おれは楽器が吹きたいんだ。左腕が動けとは言わないから、痛みだけでも取ってくれよ。
生まれてからずっと側にいてくれた音楽が、今は遠いんだ。音は傷つけない。あの曲以外は。
目を開けていることすら辛くなってきていることに一樹は気づかずにいた。抗うつ剤に鎮痛剤、睡眠薬もあったはず。どれかが効けばおれは楽器が吹けるんだとばかりに、彼は機械的に錠剤を口にしていった。
一度、むせた。
それがきっかけだったのか、あのイヤな吐き気が彼を襲う。交互に手にしてたはずの缶が床に落ちる音が遠くに聞こえる。口元を押さえてもえずきは治まらない。
何を食ったんだっけ。食欲なんかありはしない。ああそうだ、酒しか飲んでない。胃が痛むのはそのせいか。
そこに押し込められた薬がのど元にせり上がってくる。それなりの格式高いホテルで吐いたらまずいだろ。一樹はもうろうとした意識の中、立ち上がろうと試みた。
身体が動かない。
ここで吐くわけにはいかないんだっつってんだろうが。必死にもがいても指一本動きはしない。押し返された薬が…彼の呼吸をさえぎった。
ブレスができない。ざけんな!声を出したくても音どころか空気の通り道がない。
誰か!誰か!!だれか。
苦しさに身体が勝手に空を掴もうとする。その腕がフロント直通の内線電話に触れた…気がした。ベッドから転がり落ちた一樹の意識は、そのまま途絶えた。
ざわめきなんてもんじゃない。怒鳴り声と逆に冷静すぎるほど落ち着き払ったいらえと、機械音と。今どこにいるのか、一樹自身には全く分からなかった。
痛いと叫んだはずだ。声になったかどうか。触るなと言ったはずだ。誰も聞いちゃくれない。ああそうだった、きっとここは梨香と出会ったボストンの病院で、激しく暴れるおれは見も知らない治療者たちから押さえ付けられて、あのときから時計は止まったままなんだ。
どこかそれは違うと知っていながらも、一樹はそう信じ込もうとした。だから言葉が通じない。痛む腕を引っ張らないでくれと英語でなんか言えない。一瞬のうちに夢を見ていて、梨香とのこともウォーリーズでのこともただの幻覚で。エリックなんてキミエなんていない。まして桃子に逢うはずもない。
夢だから、この治療が終われば全部うまく行く。折れた骨はくっついてちゃんとおれはステージに復帰できて、そうだろう?
でも現実の痛みが一樹を否応なしに今へと引き戻す。痛いだけじゃない、苦しい。吐き気どころか喉が焼けるみたいに気持ち悪い。
梨香の声も聞こえない。ここはどこなんだろう。夢に引き込まれ、また覚醒させられ、しんどさからまたふっと身体中の力が抜ける。
コーダにとびたい。エンディングに向かって。同じフレーズを何度繰り返させれば気が済むのだろうか。
そして、おれにとってのエンディングとは何だろうか。どうしたい?わからない。痛みと苦しみと、埋めようのない寂しさから解放されるなら何だってするから。
一樹の意識は、幾度めかの闇の中へと引きずり込まれていった。
(つづく)
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