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ブラック・コーヒー ~Black Coffee

#41


楽器が吹きたかった。音を奏でたかった。今ほど切実にそう思ったことはない。

どうして持ってこなかったんだろうか。たとえ痛みで吹けはしないとしてもトランペットを置いてきたことが悔やまれる。

なじみ深いソフトケースの革の感触。マウスピースでバズィングだけでもすればよかったのに。

この薄っぺらな親名義の家族カードで、楽器店のウィンドーに飾られたラッパでも衝動買いするか。それで気が済むのなら。


そんなことまで想像を進め、篠原との出逢いもまた楽器屋だったことを思い出す。お人好しで世話焼き好きなお節介。万引きの現行犯だった中学生を警察に差し出すこともなく、勝手にライブハウスへと連れて行き、自分のへたくそなラッパを聴かせてにこにこしていた彼。


その篠原を怒らせた。憎しみの目を向けられた。意味もわからないまま。

おれはどうすればよかったんだ?桃子を奪えばよかったとでも?誰からも祝福されずに二人で逃げて、恋愛という名前をつけた欲に理性もなく流されろと?


あの桃子が受け入れるわけがない。


それは篠原が一番よく知っているはずだのに。あの雨の夜、もし仮に手を離さずにいたとしても彼女を抱いたにしても、桃子の出す結論は変わらなかっただろう。おれがジャムズの誰一人と、二度と会えなくなる以外は。


何が欲しいんだろう自分は。わかっているような気がするのにわからない。確実に知っているはずなのに見えてこない。

たしかなのは、手には入らないということだけ。





いつのまにか無意識に乗っていた電車がホームに滑り込む。多摩の駅を降りてから、自分はどれほど都合の良いヤツなんだろうかとさすがに一樹は呆れた。


ここには叔母の伸子が跡を継ぐ「高橋メソッド」の本部がある。祖父が開いた独自のヴァイオリンメソッドは、高橋真理子という逸材を生み出した。彼女の高い音楽性を支える要素の一つは、確実なその技術力にあることは間違いない。

祖父はとうに亡く、息子の孝一郎はヴァイオリニストではなく指揮者の道を選び、娘である伸子は教室を全国に広めるまでに育て上げた。


伸子に会いたいわけじゃない。ひどい言い方だけれど。どうせ叔母は日本中を飛び回っていて留守だろう。



一樹が勝手をよく知る事務室に顔を出すと、スタッフらは少なからず驚いた表情を見せた。


「あら珍しい。ちっちゃいときはよく来てたのにねえ。大学は?」


一樹の幼い頃からいるベテランの経理に声を掛けられ、休みとだけ返す。事情を知る若い連中たちが顔を見合わせてくすくす笑っている。


「何だよ、来ちゃいけなかったのかよ」


「聡子センセなら、十番教室でレッスン中ですよ」


「…ふうん」


気のない返事で部屋を出て行く一樹の後ろから、賑やかな笑い声がはじける。みな、二人が付き合っていることを知っている。姉が言いふらしたからだ。ったくあのド天然。


気づいたらここに来ていた。本当に聡子に逢いたかったんだろうか…おれは。

廊下には当然のようにヴァイオリンの音があふれて美しい旋律を響かせていた。ここの本部教室に来る子どもたちはコンクール常連レヴェルだ。演奏楽器は違っても、音を聴けば一樹にでもわかる。うまいんだなあと耳が反応する。

レッスン室の前には、熱心に何度も譜面をチェックしている親子らが順番を待つ。ただの街の音楽教室なんかじゃない。必ずプロの演奏家にしてみせるという大人の気迫まで伝わってきそうだ。


…ああそうだよね。おれだってその中の一人だったんだ…


姉のようなソリストになれるだなんて思ってもいなかった。どこか拾ってくれるオケがあれば。遙か昔の夢。遙か…でもないか、十数年前まではまだ残っていた夢。病気にさえならなければただの現実だったはずの。


一階にある十番教室を、外に出て窓から眺める。一人の男の子はまだ小学生か、母親が真剣にメモを取りながら側に座っている。

声は聞こえないけれど、優しげな表情で聡子が語りかけているのが見える。穏やかなレッスン風景。彼女に似つかわしい。



一樹はわざと窓に少しだけ近づくと、斜めにのぞき込んだ。親子の方には気づかれないように。

はっとした聡子の顔をじっと見つめる。自由の利く右手で合図を送ってみる。…こっちに来てくれ、と。

戸惑いがちな彼女の目が窓と男の子とを行ったり来たり。それでも一樹は手を止めなかった。

何度も、何度も…何度も呼んでみる。


早くこっちに来てよ。おれのところに来てよ。そんなレッスンなんか放り出してさ。


自分にだって、最初は試す気なんかなかったはずだ。声が聞きたかった。身勝手でわがままな要求だとしても。今すぐここで、この瞬間に、一樹が望んだそのときに。


とうとう聡子は、顔をしかめながら首を横に振った。無理だと。

レッスン終了まであと数分しかない。それさえも一樹はチェックしていた。だったらいいじゃないか、おれのために時間を割いてくれても。一樹は知らず、祈るような気持ちで聡子を見ていた。


選んでくれ、おれを。こんな些細なことでいいから。

胸が痛い。お願いだから優先してくれ。誰か一人でもいいから。すべてのことを放り投げてでもおれだけを選んでくれ!


それでも、聡子はレッスンを中断することはなかった。時間厳守がメソッドの売りの一つでもある。遅れて叱られることはないけれど、講師の都合で引き延ばしたりはしない。

本番の演奏に、待ったもやり直しもないから。ましてやコンクールなど、ちょっとした手続きのミスで出場できなくなることもあるくらいだ。



一樹は知っていてもなお、聡子を呼び続けた。終了時刻きっかりに聡子が部屋を飛び出して中庭へと来た頃には…彼女に背を向けていた。


「待って!一樹くん!!」


拗ねた目で振り返る一樹は無言のまま。いつもの氷が、胸の中をすうっと落ちていくのがわかる。冷えた想いは心を凍らせてゆく。


「四時になったら今日のレッスンが終わるの、それまで待ってて!!そうしたらまとまった時間が取れるから!」


聡子は、メール一つよこさずに突然現れた一樹を責めることもしないで叫んだ。何かがせり上がってくる。それは嬉しさじゃない。もっと切ないものが。


「今、これからどっか行こう」


だから四時に、と言いかけた聡子の言葉を強引にさえぎる。


「今じゃなきゃダメなんだ!!レッスンなんかキャンセルしちまえよ!できるだろ!?超人気講師なんだからさ。音楽家のワガママなんてみんな慣れっこだよ!!」


無茶を言ってることなんて一樹にもわかっていた。それでも応えてくれよ、頼むから。


「わかって。ここの生徒さんたちは遠距離で通っている子も多いの。新幹線で来る子もいるし、車で何時間も…」


ああそうだろうね。聡子だってパリのコンヴァト(CNSMパリ国立高等音楽院)出身者だ。姉ちゃんが凄すぎるだけで、彼女も十分プロのヴァイオリニストとしてやれるだけの実力は持っている。高橋メソッドは独特だけれど、その教え方もすぐに吸収して実績を残してる。どうしても彼女に教わりたいという生徒は少なくない。

自分との差を感じたのか、それとも責められなかったことに大人の余裕を見たせいか、一樹は意地になった。


「だから何!?おれより生徒を取るの?そうだよね、当たり前だよね。知らせもしないで急に来たって、超一流の聡子センセに会えるはずないもんな。まして、おれなんかに貴重な時間は割けないだろうし」


もう少しだけ待ってて。お願い。


聡子はそれでも我慢強く一樹を説得しようとした。怒鳴り返されてもおかしくないってのに。

何を拗ねてごねてガキみたいなことしてんだ、おれ。わかってる、ただの八つ当たりだ。嫌がらせだ。こうやって自分の気を引こうと確かめて試してるんだ。


わざとらしく腕の時計に目をやる。ねえ、次のレッスンが始まるよ、と。


焦った表情を浮かべた聡子は、もう一度「四時まで待って」と繰り返した。


「早く行かないと次に間に合わないよ。もう行けよ、おれも帰るから」


「せっかく日本に帰ってきてくれたのよ?やっと逢えたのに。もう少しだけお願いだから待って…」


「いいから行けよ!」


これじゃ立場が逆だ。身勝手なのはいつもおれで、正しいのはいつだって聡子だ。なのに文句の一つも言わない。そのことがさらに一樹をいらだたせた。

聡子自身も時計を気にしている。次の生徒はとっくに部屋で準備を終えていることだろう。彼女の好き勝手にできる時間じゃない。わかってるそんなことは。聡子だって仕事中だ。一樹がライブ直前に呼び出されても、誰であろうと会うはずがないことと同じ。


「ごめんね。本当に待ってて」


小走りに教室へと向かう。その後ろ姿に一樹は思わず叫んだ。


「行くなよ!!おれを選べよ!!選んで…くれ…よ…」


誰からも選ばれない。もうそんな思いはたくさんだ。どんなことだろうと全部放り投げて自分を選んで欲しい。転んで怪我をした子どもを、母親なら抱き上げるだろう?見すごさないだろう?

今のおれは、心がずたずたなんだ。引っ張り上げて欲しい。頼むから、数分でいいから。大事なメソッドの時間を破ってでもおれを選んでくれたなら、それだけでおとなしく帰るから。


何に対して祈ればいいのかわからない。それでも一樹は祈った。こんな些細なことに賭けた。自分は選ばれるんだろうかという大きな不安を消してくれるかどうかを。




両手を顔の前で合わせ、辛そうな聡子の顔が切なげにゆがんだ。一樹なんて、捨てられた仔犬より酷く情けない表情だったに違いない。


「もういいよ。ごめん無茶…言って」


静かな一樹の言葉に、聡子がホッとしたように表情をゆるめる。けれど一樹はそんな変化にはお構いなしに携帯を取り出すと、彼女の目の前で電話を掛けた。聡子のげげんそうな顔。


「あ、おれ」


…おれ、じゃないわよ!!今何時だと思ってんの!?こっちは当直明け勤務が終わってやっと寝れたってのに!!…


相手の罵声は都合よく聡子には聞こえない。それをいいことに一樹は会話を続けた。


「こないだの服、洗濯しておいてくれた?そっちの部屋に置いといてよ。また行ったときに着るから」


言葉に含めた、少しばかりのドルチェ(甘めに)のニュアンス。聡子へとあてつけるように。何も言えずに息を飲むのが伝わってくる。


…あのねえ!あたしの部屋、ドミトリーかなんかと間違えてない!?勝手に置いてある服なんか捨てるからね!…


「ごめん、日本からだと電話が遠くて。え、今?元カノの目の前。どうせなら話す?」


…ふざけんじゃないわよ!あんたんとこのイザコザにあたしを巻き込むの止めてよね!?…


電話の向こうからは梨香のぼやき声が響いている。聞こえないふりで携帯を聡子へと差し出す。



「あっちで付き合ってる人。一回会ったよね?はっきりと話つけてくれるとこっちも助かるんだけど」


冷たく身勝手なセリフ。君がおれを見限る前に、こっちから見限ってやるよ。そんな子どもじみた嫌がらせだ、これじゃ。

自分の行動に一樹自身がうんざりしていた。それでも止められない。見捨てられるのはもうたくさんだ。


聡子は両手を握りしめて、決してその電話を取ろうとはしなかった。しばらくお互い黙り込む。耐えきれずに…一樹はボタンを押した。微かなノイズも消え、ヴァイオリンの音だけが二人を包み込む。


「じゃ。もう会わないと思うけど。姉ちゃんにはすぐにチクんないでくれるかな。あの天然、うるせえからさ」


わざとらしく軽い口調で言い捨てる。そんな一樹に、両手をぎゅっと握りしめたままの聡子は、穏やかにでもきっぱりと言った。


「ここに会いに来てくれてありがとう。本当に嬉しかった。だから待ってて。四時になったら手が空くから、ゆっくり話したいの。ね?」


その言葉に、逆に一樹は怯えた。なぜ、なぜそんなことを言い出すんだ?


「なんで怒んないんだよ!?姉ちゃんみたいに、ひっぱたけばいいだろ!!怒れよ!それともおれなんかにそんな手間かけるのも面倒だとか!?」


「…怒って…欲しかったの?」


ささやくような聡子の冷静な声に、一樹は目をつぶった。ガキの嫌がらせなんかこの人には通用しない。勝てない、何をしても。おれには…釣り合わないよ。


「もう、時間」


現実も生活も、こんなセリフのやり取りの間にもちゃんと進んでいて、おれたちは生きてかなきゃならない。ドラマや映画みたいなシーンの間には、退屈な日常がたくさん挟まってるんだ。


一拍の間のあと、時計に目をやった聡子は何かを吹っ切るかのように部屋へと戻っていった。





残された…独り。

待っていればいいだけなのに。心の中で誰かが嘲笑う。そんなんじゃない。

どれほど大事なことでも後回しにして自分を選んで欲しいという想いは、誰からも得られない。唯一くれた大切な人たちからは、篠原からは手を離された。桃子には逢えない。逢う資格もない。


泣き叫び続ける子どもを放置できる親は、そうそういない。あの頃、おれがいくら泣こうが遠くの家族に届くはずもなかった。いつだって、いつだって…いつだって。

大人になってしまえば、もう無条件の愛はもらえない。じゃあおれは、いつ誰からもらえばよかったんだろう。


吹きたい、今すぐ。音楽は優しい。何もしゃべらずに済むから。


一樹は中庭からそのまま外へと歩き出した。ただ独りで。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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