どうしても忘れられない ~Unforgettable
#40
まぶしいくらいの青空のもと、ドレス姿の桃子を見つめ続けたのはいつだったか。止むことのないジャムズの演奏が、一樹の吹くクラシックで静寂に包まれたのはもう…何年前だろう。
だよな、子どもの一人くらいいたっておかしくない。今度こそ家族なんだ、彼女にとっての大切な大切な。
その確約された幸せを壊したくなくて、自分は必死にあがいていたんじゃないか。
気づけば何度も胸の内で言い聞かせていたのに、イヤでも篠原の顔が浮かんでくる。二人が付き合っていることだって最初から知っていた。だからこそ彼は一樹をあの店へと連れて行ったんだから。けれどどこか醒めた桃子は、篠原と甘い言葉一つ交わすこともなく、そばによるそぶりさえ見せたことがなかった。特に一樹が一緒に住むようになってからは、店の切り盛りと生意気なガキの世話で手一杯で、いつだって桃子は視界の中にいた。一樹だけの…。
手を握ったところさえ見たことがない。気づかなかっただけか。おれにはいやなフィルターがかかっていたから。違う、今でも掛かり続けているから。
あの細い肩を引き寄せる。顔を近づける。息がかかるほど近くに。そして。
一樹はひどく拒絶されたあの日の、それから彼を拒もうとはしなかった彼女を思い出し…その残像を消し去ろうと頭を振った。
自分から離した手だ。もう、二度とつながることのない糸だ。一樹の思いは、彼女が篠原桃子へと変わったときにすべて断ち切られたはずだ。
ぐっ。不意に襲う吐き気に口元を押さえる。目をつぶれば思い出してしまうから、それでも何とか景色を見ようとする。
「車に酔いましたか。運転はなかなか慣れなくてねえ。一樹くんの方がずっと青い顔をしてますよ」
うつったかな、と呑気そうなマスターの言葉にさえいらつく。
勇次のあとをついて歩くのがせいいっぱいで、何も目になんか入らなかった。ただわかったのは、自分の知っている病院とは違う華やかさと穏やかさ。通りすがる人々の笑顔。あわただしくない廊下の看護師たち。
ここは、悲しみだけじゃなくて幸福感を含む場所なのだと突きつけられる。ここにも自分の居場所はない。穏やかで静かに一樹を押し返し拒絶する場所。
一樹は何度もブレスを整えると、今度こそ戸惑いなんか何もない笑顔でおめでとうと言えるようにシミュレーションを繰り返していた。
…おめでとう…ありがとう…じゃあ…
それで終わるはずなんだから。ただの儀式なんて。そうしたらボストンへ帰ろう。誰にも会わずに何も観ずに、無事が確かめられればそれでいいんだから。
何とか作り笑いを浮かべることに成功した一樹の努力は、けれど長くは続かなかった。
がつっ。
桃子の病室だろうその前の廊下で、いきなり胸ぐらを掴まれた。そのまま壁に背中を叩きつけられる。
「いてっ!何すん…」
最後まで言わせまいと、今度はこぶしが飛んできた。そばにいた勇次があわててあいだへと入ろうとする。
振り上げた左手はそのままで、でも頸を押さえる手は緩まない。息苦しさと背中の痛みに思わず目をつぶってしまっていた一樹は、やっとのことで相手の顔を見た。
今まで怒った顔なんかしたこともないおっとりとした篠原が、一樹をにらみつけている。意味もわからず怯えた。その反応に、もっと手に力が込められる。
「息…息できね…、ちょっと放せよ…しのは」
「何で君がここにいるんだ!!」
すごい勢いで怒鳴られ、一樹は息を飲み込んだ。抵抗する力が抜けたせいか、身体が引っ張られ、また壁へとぶつけられる。今度は左側をしたたかに打ち付けられて、うめき声を上げなら腕を押さえてうずくまる。
ようやく篠原の手が離された。一樹の頭上から荒い息が聞こえてくる。痛みと混乱で歯を食いしばって耐えるけれど、何が何だか一樹にはちっともわからない。
「ニューヨークで会ってたんだってな!今度はいきなり帰国かよ。そんなに連絡を取り合ってるんだ!?」
「…何…言ってんだか、全然…わかんねえし…」
初めて聞く篠原の怒鳴り声に、弱々しく反論する。何で怒ってるんだろう、おれには全くわからないってのに。
「おれはただ、桃子さんの見舞いに連れてこられただけで」
「じゃあ何で知ってるんだよ!!君には連絡をしなかった。する時間がなかった。留学していたことも君からは教えてもらえてなかったしな!言いたくなかったのはアメリカを選んだのは、最初から桃子さんと約束してたのか!?」
「だから何がだよ!!意味がわかんないっつってんじゃん!!篠原さん、おれがなんかした!?」
顔を上げて怒鳴り返したかった。けれど気の遠くなるような痛みが声さえも掠れさせた。篠原をなだめる勇次の言葉までもがぼやけて聞こえる。
無理やり引っ張り上げられ立たされる。こんなことをする彼じゃない。いつもの篠原じゃない。叱られる子どものようにおどおどと彼を見返すことしかできない。理由もわからぬまま。
「じゃあはっきり言うよ。君は桃子さんとニューヨークで落ち合ってたんだろ?何度も、俺には内緒で。会うななんて言わないよ。君たちは本当に仲が良かったもんな。でも何で君が今ここにいるんだ?」
「どういう…こと?何が言いたい…の…?」
一樹が呟く。泣き出してしまいそうなのをこらえる。わかんないよ、何でこんなに責められてるのかが。
桃子たちがシアトルにいることすら忘れてたのに。ああそう言えば広大な同じ国の両端にいるんだなと気づいたのさえ、ごく最近だってのに。
篠原は痛々しそうに顔をゆがませた。きっと一樹よりずっと悲しげな表情なんだろう。その意味さえ図りかねた。小さくため息をついてから口を開く。これ以上なく辛そうに。
「俺にそれを言わせるのか?」
…君は桃子さんを忘れてなんかない。桃子さんだって、俺なんか見てない。邪魔者は俺の方なんだろう?…
彼らしくもない言葉に一樹はたじろいだ。それはやがて怒りに変わる。何もかもを手に入れたのは篠原の方だろう、と。
「ざけんなよ篠原さん!!あんたこれから父親になんだろ!?桃子さんと生まれてくる子どもを守るんだろ!?家族ができるんだろ!!わけのわかんないこと言ってる場合じゃ!!」
「…本当に俺の子…なのか」
思いがけない言葉に、一樹は息を飲んだ。そして、やっと…篠原の激昂するわけを理解した。あまりにも理不尽であまりにも哀しすぎるその理由に。
「篠原さん、まさか、まさかおれを疑ってる…の?」
いつだって笑顔で支えてくれた篠原を、心から慕っていた。その気持ちは今だって変わらない。だから裏切れなかった。だからあきらめた。だから失いたくなかった。高橋の名のもとじゃなく、一樹自身を見て彼自身を信じてくれた初めての人だったから。
その篠原が、やり場のない憎しみを一樹に向けている。ぶつけている。腕の痛みよりも心が何よりえぐられるように痛い。奥歯を噛みしめる。
「向こうで一度も会ってない、だなんて言うなよ。どうして俺に隠してたんだ?」
ただただ首を横に振り続けた。ああ、会ったさ。でもそれは桃子に逢いたかったからじゃない。
「おれがニューヨークで会ったのは…エリックだ。エリック・W・バークレーにだ!」
エリックの名に、篠原も勇次も一瞬黙る。篠原がそれでもつぶやく。何で会わなきゃいけないんだよ、ニューヨークとボストンじゃ…。
「偶然なわけないだろ!?ジャムズでのちゃっちいコネを頼りに、金を借りに行ったんだよ!!おれには自由になる金なんてないから!」
金?君んとこでどうして金が必要なんだ!!篠原も怒鳴り返す。
こんな明るい病院の廊下で、おれたちは何をしているんだろう。一樹を覆う虚無感。こうやって自分の居場所がどんどん崩れていく。最初からなかったものは、あっけなく手から離れていく。
「おれの左腕、動かないんだよ今。良性とは言っても腫瘍だらけで骨がボコボコで折れたんだって。アメリカの治療費なんか払えるかよ!!高橋の家に言えば連れ戻されると思った。みっともなくたって、みすぼらしくたって何でもいいから、おれを音楽の世界に引き戻してくれたエリックがいるのならすがってみようと思った。それがいけないのかよ!!ラッパも持てない。音が吹けない。おれ一人で立ってみようとしたって、結局なんにもできやしないんだ!!」
やっと叫べた。切ない言葉ばかりを。
「桃子さんに会おうだなんて、これっぽっちも思わなかった。同じ国内にいることも忘れてたくらいだ。遠いしさ。ニューヨークに行くんだって、おれは安いバスで何時間も掛けたんだ。会おうと思って会えるわけがないだろ!?おれが他に会ったのは……」
キミエって人だ。
ゼネラルパウゼ(全休止)。音が消える。
一樹の出した名は、篠原と勇次を凍り付かせた。ああそうさ、言いたくなんてなかった。言えば誰かを傷つける。そんなつもりがなくたって、過去の記憶は誰かの心をひっかくようにできている。
「エリックのライブに無理やりねじ込ませてもらった。その日だけ、なんでか桃子さんがついてきた。逢ったのはそれ一度きり。信じてもらえなくたっていい」
キミエには何度も会った。知りたくもない物語と大人の事情を聞かされ、いたたまれなくなって逃げ出した。そんな繰り言は何とか飲み込んで、目の前の二人には伝えずに済んだ。
おれという余分な者がいなければ会いもしない実の母娘。よく似ているよ、桃子とキミエは。そして母親と名乗る女性は、桃子の寂しさを一生理解することはできないんだろう。桃子自身が気づかないのと同じように。
「君は…桃子さんを……忘れてなんかない。桃子さんも…」
痛々しいほど苦しげな篠原の言葉。何度も言うか言うまいか逡巡し続けたんだろう。それでもこの縁を壊したくなくて、無理にでもしまい込んでいたんだろう。
薄暗いジャムズの廊下で何とか伝えたかつてのセリフを一樹は繰り返す。それが本心だから。
「ねえ、桃子さんは……篠原さんを選んだん…だ…よ?」
「彼女が俺を見ていなくても、か」
伝わらない。伝えきれない。そんなんじゃない。おれも桃子さんも嘘をついているわけじゃない。おれたちは姉弟で家族で、恋愛相手なんかじゃない。そう思ったとしたらただの感情の誤動作だ。
たとえそれが、必死にお互い自分へと言い聞かせ続けている言葉だとしても。
「あの日…おれがどんな想いであきらめたと思ってん……の?」
あの日、それがいつを指すのか、一樹にすらわからない。何度も何度もあきらめた。断ち切った。家族を選んだ。桃子の出した答えを一樹は受け入れた。
頼むからそのまま、そっとしまい込ませてくれよ。
「どうせ信じてなんかもらえないんだ。もう…いいよ」
痛む腕を押さえながら、一樹はふらふらと歩き出した。追う者もいない。誰も引き留めない。ああそうさ、これが現実だ。
おれにはもう誰もいない。
実の姉も聡子も遠い。距離じゃなくて気持ちが遠い。ボストンでできた仲間ともどうせすぐに離れていくんだろう。おれがではなく相手から皆。
音を奏でないカズに価値なんかない。それさえも、せいいっぱい奏でてみせた音楽ですら、高橋の名の前に崩れていく。
誰か、誰か受け止めてよ。ジャッジメントなんか要らないから。おれがどれだけ情けない甘ったれでも、何も持っていなくても、それでいいからと受け入れてよ。
全部、全部…そっくりこのまま全部を。
さわやかな自然光が入り込む連絡通路の隅で、一樹は壁にもたれ続けたまま動けずにいた。
(つづく)
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