友達になれないかい ~Can't We Be Friends
#4
「プリーズ…アー、モアスローリー、ええとだから!」
さっきから何度もくり返される押し問答。いや問答にすらなっていなかった。とにかく受付の黒人女性は早口で何かを言うばかりで、一樹には全く聞き取れなかったのだ。
必死にゆっくり言ってくれと頼んでいるのに、その言葉すら伝わったふうでもなく、さらに付け焼き刃で教わったどの発音とも、彼女のそれは違って聞こえた。
…のっけからこれかよ。
一樹はため息をつくと、ふくよかで人の良さそうな、それでいて一向にわかりやすく話そうとはしない彼女にもう一度果敢に挑んでいった。
彼の手には一枚のカード。これをどうしろと言うのか。おれの訊きたいのはそれだけなのに。
とうとう向こうが根負けして、どこかに応援を求めるのか内線に手を掛けた。日本語のわかるスタッフがいるんだったら、最初から出してくれ!
ボストンに来てまだ三日。それなのにもうすっかり一樹は生活に疲れてしまっていた。
もともと全くの一人暮らしなど、慣れているわけでもない。ましてや今まで普段は仕事で忙しい。大勢のスタッフに囲まれ、移動も何も事務所の連中が手配してくれたとおり動けば良かった。
ここでは一樹は、ただの学生。当たり前のことだ。日用品も食料も自分で買わなければいけない。たったそれだけで、彼にかかるストレスの多いことと言ったら。
日本で、自分はいかに周りに救われていたかを改めて一樹は実感していた。
大見得切った生活資金だとて、そんなにあてがあるはずもなかった。世界を飛び回る姉が、ボストンにある有名オーケストラと縁が深いこともあり、彼女はここにも部屋を所有していた。おかげで家賃は浮くけれど。
ヨーロッパには彼女の家がいくつあることかなど、数えたこともない。
スケールの違う、国際コンクールを制した才媛。どんな気難しいマエストロでさえも彼女の無邪気さに微笑みを返し、反するかのような迫力ある演奏に魅せられる。
一樹としても借りなど作りたくはない。しかし、彼女がいなければ高橋の家はあっけなくバラバラになる。どうしてもかなわない相手、それが姉の真理子だった。
「姉ちゃん、出世払いでちゃんと返すから!入学金と前期の授業料貸してよ」
悔しかったが頭を下げた。あら?蓄えはあるのではなかったの?全く嫌みではなく驚いたように真理子は訊き返した。完璧すぎるように見える姉の、唯一の欠点は…空気などはなっから読む気もない天然さだった。
「あのさあ、あんたたちとおれのレヴェルが違いすぎるの!!だけどここを出て留学するのには、お父様にはああ言うしかないだろ!?おれだっていくら仕事してたって、自分のグループを持ってるわけでも何でもないんだ。その日暮らしとおんなじだよ」
だから留学なんてしなければいいのに。上目遣いでにらむ瞳までが、美しいというより可愛らしい。
「独学じゃ限度がある。今になって実力不足を実感してるよ。だから少しでも勉強したいんじゃないか」
サポートでも何でも良い。腕が良くて人脈を作ってあれば、おれだってこの世界の片隅で生きてゆける。裏を返せば、実力のないものには容赦なく仕事など来ない。
一度はあきらめた演奏家という夢。今は少なくともその一端にいる。この場所を手放したくはない。
必死に考えた末に一樹が思い描いたのが、アメリカできちんとジャズの基礎から学ぶ、ということだった。もちろんその中には、本場の一流ミュージシャンと演奏したいという思いもあった。日本でこれだけやって来れたんだ。それも自分の力で。この手がこの腕が動く限り、おれが生き続けていられる間は、トランペットを手放さない。
思いにふけり黙りこくってしまった一樹を見て、真理子はいつものふわりとした笑顔を浮かべた。
「わかったわ。いつかあなたのアルバムが出たら、その印税全部貰ってあげる!」
「ぜ、全部!?姉ちゃんあのねえ!!」
真理子の場合、冗談ではなく本気だったりするからタチが悪い。青くなる一樹を見て彼女はころころと涼やかな笑い声まで上げた。
「あなたなら大丈夫。きっといつかは同じステージに立てる日が来るのね」
おれはあの、ジャンルもフィールドも違うんですけど…。言い返す元気もなく、一樹は上機嫌な姉のあとをくっついて行くしかなかった。
しかし、ここまで英語が通じないとわかっていたのなら、もっと真面目に勉強しておくんだった。一樹は遅すぎるとは思ったが初めて激しく後悔した。
ジャムズにだって外国人アーティストはたくさん出演した。彼らは一樹を可愛がり、ステージがはねても一緒に酒を飲み語り合った。しかし今思えばヤツらの教えた英語が、こんな普通の生活シーンに全く役に立たないことが、身にしみてわかったのだ。
…ろくでもないスラングばっか教えやがって…
ここで使えば、すぐさまケンカになりそうな言葉ばかり。半端に英語を聞きかじっているだけたちが悪い。仕方なく、知っている単語を並べてボディーランゲージで必死に思いを伝える。今からこれでは、授業が始まったらどうなるのか。先が思いやられる。
もう一度小さくため息をつき、ここであきらめるわけにはいかないと一樹が口を開こうとしたそのとき、後ろから低めの声が飛んできた。
「あのさあ、そのカードは学生証としてだけでなく諸手続の場合にとても重要だから、絶対なくすなって言ってんの。ホントにあんた、その程度の英語も聞き取れないわけ?」
日本語だ!嬉しさに急いで振り返った一樹の目に入ったのは、彼より年若の女の子だった。
髪をてっぺんに結わえ、胸の辺りまでたらしている。ゆったりとした重ね着の服はどことなくアジアンテイストで、足元は素足にサンダルだ。紫のペティキュアがその白い肌に映える。背中にはトロンボーンの軽量ケースを背負っている。金管楽器に女性が進出するようになってだいぶ経つが、一樹自身は未だ一緒に演奏したことはなかった。
こんな華奢というかやせぎすな女の子が、ボントロなんぞ吹けるんだろうか。
しかし、そんな思いは一瞬でふっ飛んだ。大きくややつり上がったような意志の強そうな瞳が、一樹の足元から頭のてっぺんまでじろじろっと見回したのだ。まるで値踏みするかのように。
「へ…え。カズがバークリーに来るって噂、ホントだったんだあ」
「う、噂?」
まあね、ネットで出回ってたのよ。あのカズが今さら何でか知らないけどバークリー来るらしいって。全く興味もなさそうに彼女がひょうひょうと続ける。
「待ってよ。あの、って…どうして君らがおれの名前とか知ってるんだよ?」
「ねえ、あんたってもしかしてホントのバカ?ユニットKのカズでしょう?永井貴之グループでサポートしてたの、あんたじゃないの?アルバムにだってクレジットされてんじゃん。ラッパ吹きなら誰だって知ってるよ」
そ…そうなの?一樹はなぜかこの態度のでかい偉そうな女の子に完全に飲まれ、下手に出るしかなかった。
「だいたい、あんたボストンじゃ超有名人だよ?気をつけた方がいいって」
コツコツとスタジオの仕事をこなしてただけなのに、名が知られてるとは思ってもみなかった。嬉しさと現実感の無さでとまどいの方が大きかった。でも超有名人って…。
「はあ、あっきれた。だってあんた、高橋真理子の弟じゃん。ボストンシティフィルの本拠地でマリコを知らない市民なんていないんだよ?」
在原尚子と名乗る彼女は、近くのベンチに一樹を引っ張っていくと滔々と説教を始めた。
「だいたいねえ、その語学力で授業についていけると思ってんの?あんたよっぽど世間知らずなんじゃない?お姉さんもお父さんも、あんなに海外で華々しく活躍してんのに!」
関係ないね、活躍してるのはおれじゃない。大人げないとはわかってはいたが、口元を歪めて一樹はふてくされた。どこへ行っても比べられる。外国ならばと出てきたというのに。
「それがもの知らずだって言うの!!海外の方が高橋親子の実力は知られてるって。何で家族のあんたがわかってないわけ?」
その親子の中に、おれが含まれてないだけだ。彼の表情はさらに憮然としたものになっていった。
「とにかく、あたしにはあんたを世話する理由も何もないんだから。とりあえず今日は声は掛けたけど、もともと日本人同士で群れるの一番キライなの。もう構内で見かけても話しかけないでよ!!」
「そんな、ナオコちゃん…」
ええい馴れ馴れしい!!尚子はぎろっとにらんで見せたが、一樹だとてここで見放されてしまえば明日からの生活もおぼつかない。
「ここでやっと日本語が話せたんだ。三日ぶりにまともに会話できた。この嬉しさがわかるか?」
必死に訴える彼に、尚子はなおも冷ややかに突き放した。
「あんたホント、バカ。あのね…この学校はアジア人ばっかよ?歩いてりゃそのうち、もっと親切な日本人に会えるから。そこでマリコの弟だって言ってまわれば?」
そう言い捨てると、尚子はさっさと歩き出した。背中の楽器ケースが揺れ動く様をぼんやりと見送りながら、一樹はがっくりと肩を落とした。
ようやく手続きを終え、真理子の部屋に帰る。誰もいない。息がつける。父のするどい視線も母の無関心も、何もない。その代わり姉の柔らかな声も。
…マリコの弟だって言ってまわれば?…
会ったばかりの尚子の言葉が耳を離れない。どうしてもどこに行ってもついて回る彼らの名前。
父が止めるのも聞かずに家を無理やり出た。対等にとは言わない。自分でどこまでできるか試したかった。それでもおれは、どうあがいても高橋の名前に潰されるのか。
パステル調のベッドに寝ころび、一樹は父の言葉を一人反芻していた。
「おまえに、その実力はない」…か。
苦い思いを飲み込んで、彼はタバコに手を伸ばした。
(つづく)
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