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愛してくれぬならいっそ独りに ~Love Me or Leave Me

#39


アメリカ国内の飛行機を乗り継ぐ。その程度の行動でさえ一樹は今までろくにしたことがなかったのだと、何かをするたびに思い知らされる。それでも、日常を送るにはだいぶ不自由しないほど異国語でコミュニケートできるようにはなってきた。


この国はよそ者には優しい。手を貸す。ましてや彼のように動く片腕で必死に荷物を支えている姿を見れば、誰彼なく救いを差し伸べる。

それが本当の意味で受け入れられているのかまではわからないけれど。

音感は悪いはずもない一樹だ。文法はブロークンでも発音の方が先に身についている。彼の言いたいことを汲み取って、あちらへ行けこっちで手続きしろと、周りからいつかのように早口でまくし立てられる。


腕に負担のかからないようコーチトンプソンのワンショルダーバックを肩に掛け、一樹は見知らぬ地方の空港で搭乗口を探していた。

とにかく早く、まずは西に行きさえすれば日本への直行便をつかまえやすくなる。なぜ急ぐのかもわからないままに、次の日の昼にはもう、なじみのある機体に彼は乗っていた。


誰かに電話でメールで訊けばすむことなんだ。桃子に何が起こったかなんて。勇次の口調は深刻そうでもなかったし、事情なんてあっけないほど単純かも知れないじゃないか。

わかっていた。そんなことは十分に。

けれど、何か理由をつけて帰りたかったのか。それまでは意地でも帰ろうとはしなかったのか。



一度帰ってしまえば、ボストンにしがみつく理由がなくなってしまう。そんな怖さもあったのかも知れない。


一人をあんなに望んでいたのに。一人があんなに怖かったくせに。家族を熱望していたのに。家族が疎ましく離れたくてたまらなくなったくせに。


自分が持つ矛盾に、とうてい一樹は耐えられなかった。


側にいて欲しいのは、誰でもじゃない。でも決して求めてはいけない。

おれが欲しいと願っているのは、あのときにもらいそびれた親の愛情であって、恋愛感情なんかじゃない。頭をなでて抱きしめて欲しいのは親からの無償の愛であって、いらつくほど衝動的な触れ合いじゃない。


代わりにはならない。代わりにはなれない。今からでは手に入れることなんかできない。


必死に自分に言い聞かすのに、それでも一樹は探し続ける。温かな手を。まなざしを。



右手を握りしめて口元に当て、気づくと歯でこぶしを噛んでいた。タバコを吸うわけにもいかないからか。無意識の行動があまりに子どもっぽくて、一樹は目をつぶった。笑えるほど心に余裕がない。





ふと、横の機内オーディオから音がもれ聞こえてきた。そんなに音量は大きくないはずだろうに。

聞き覚えがある。なんだっけ。ささくれみたいな引っかかりはなかなか彼を解放してはくれない。


題名が思い出せないくせに、コード進行だけが頭に浮かぶ。自分で勝手にリアレンジを始めてしまう。


…心を満たしてくれる人はどこにいるんだろう。みんな私を傷つけ、そして去っていく。また一人残されて…


歌詞までが浮かんできて、ようやく思い至る。

ビリー・ホリディの名曲だ。レフト・アローン。彼女が書いた詞だっていうのに、別の誰かが途切れることなく歌い継いてゆく哀しい曲。


こんな空の上で聴くとは思わなかった。真っ昼間の明るい雲の上で流れていい曲じゃない。もの暗いライブハウスの端で、じゃなきゃ昔ながらのレコードを聴かせる店で、それこそタバコにまみれて聴きたい。

なんて勝手な言い草だろう。曲なんて演奏者のもので、最後には聴き手が自由に聴けばいい。隣に座る小太りのオヤジには、たまたま掛けた機内サービスで偶然聞こえてきただけのBGMにすぎないのに、ね。


ただ一人。自分もそうだというのか。そんなわけない。おれの周りには気遣ってくれる多くの友人と静かに見守る大人たちと音があふれている。一人なんかじゃない。


レフト・アローン…か。


あのもの悲しくてスローなジャズバラードの代表作を、考えられないほどすっとんだテンポで吹いてみたい。マクリーンの官能的とも言える甘いフレージングを、スタッカート主体で歯切れ良く吹けばどうなるだろう。

どこかラテンというよりはヨーロッパ系のスパニッシュテイストが加わって、それはソルイソンブラ(光と影)の憂うさまをより引き立たせる気がする。

そのパッセージが速ければ速いほど。生き急ぐ一樹にまとわりつく重苦しい闇のように。


耳から聞こえる現実の音楽ではなく彼自身の音に囲まれて、エコノミーの最後部席で一樹はいつしか寝入っていた。





身体がきしむ。無理もない。あんな狭い座席で寝こけていたんだから。

不自然に腕を伸ばし、口を大きく開ける。けだるさは取れそうもない。それでもざわめきの声が日本語だというだけで、一樹はいくぶん、いやかなりホッとした。


成田から都心までは地下の直通電車に乗ればいい。歩きかけて彼は足を止めた。


どこへ行く気だ?ジャムズか。どうして…自分には帰る家があるのに。そこには本物の血のつながった家族がいるのに。


帰国すると決めてから誰にも伝えていなかった。ボストンからニューヨークへ行くと決めたあの日よりも、ずっと早く、自然に動いていた。

自分の身勝手さに足がすくむ。他の誰のためにだって帰ろうとはしなかったくせにね。


わざわざ別のカウンターへ寄ってから空港ビルの外へ出る。ほんの一歩。それは久しぶりの日本。向かうのは都内には違いないはずなのに、なぜか一樹はバスを選んだ。あの日のチャイナバスを思い起こすかのように。



結局、都心のホテルに宿を取った。金もなく医者にもろくに行けないと姉ちゃんにバレてから、無理やり持たされたクレジットカード。どうせ請求は父親へと行く。意地でも使いたくはなかったけれど、予約も入れずにそれなりのホテルに飛び込むには確かに便利だ。チケット代だって全部ここから。手持ちの金なんかない。生活するのがやっとだってのに。


甘えているんだろう、とことん自分は。

自立したいと、していると思いこんでいた。寂しいと叫びながらもその庇護の元にいた。留学だって自分で決めて自分で手配して、でもそれは父と姉の名があればこそ実現する守られたママゴト。

学長へと、そして担当教官であるロマーノへと、父からはとうに話がついていた。見えない檻が一樹を覆う。ウォーリーズだけは違ったはずだ。なのにそれは、ほんのつかの間だった。


どこへ行っても逃れられないのなら、いっそあきらめてしまえばいい。楽器も吹けず音楽にも触れず、あの白い家に閉じこもってしまえばいい。それが家族というのなら。家庭というものならば。


自分さえ心を閉じて作り笑いをしていれば、いくら気難しいお父様とだって会話くらい交わすこともあるだろう。お母様に自分から話しかけることもあるだろう。そういう日常を積み重ねていけばいいんだ。


外の世界ではばたこうとしても、音のない場所には行けない。一樹には。

そして…音のあるところには高橋の名がついて回る。どんなにあがいても足を絡め取られる。比べられる。


お父様はおれの病気を心配して言ってくださるんだ。ああそうなんだろう、それが本心なんだろう。見捨てていたわけじゃない。自分が子どもの頃だって事情も伝えず守ろうとしたんだろう、彼らは彼らなりに家族というものを。


それは…それぞれの心に大きな後悔だけを残して。



広々としたベッドに身体を横たえる。長いフライトで疲れは抜けてない。薬は効いているはずだけれど、それでも鈍く痛む左の腕。


逢いたくて知りたくて考えもなしに来てしまったのに、おれはこんなところで何をしているんだろう。離したことのなかったトランペットさえ、異国の部屋に残したままで。


右手をぎゅっと握りしめてから、一樹は立ち上がった。




意を決して下北沢のジャムズへと向かった。ボストンから電話してきた一樹本人が顔を出すとは思わないだろう。驚く顔が見たかった。懐かしいみんなの。


けれど、ライブハウスには珍しく一階に設けられた店の入り口にはCLOSEDの案内板が掛けられていた。


…そんな。今はランチタイムでかき入れ時だろ?どうして…


大きく明るい窓をそっとのぞく。人の気配がない。照明も落とされている。一樹は携帯で連絡を取るかどうか迷った。


何でだろう。デジタル信号に変えられたものに頼りたくない。アナログで、自分のこの目で見たものしか信じたくない。今どきCDすら認めず、レコードにこだわり続けるジャズマニアのように。


住居部分の入り口へと回り込む。やっぱり誰も…。そう思いかけた一樹に、のんびりとした声がかかる。


「おや一樹くん、どうしたんですか。いつ帰国したんです?」


「マ…スター…」


怯えた、いやきっと泣き出しそうな顔をしていたんだろう。マスターの勇次が穏やかに微笑む。


「店が、だって…閉まってて…それで」


まともに言葉にもならない。


これから病院に行くんですが、一緒に行きますか。あくまでもゆったりと勇次が一樹を誘う。


訊けない。どうして病院なんかに行くのかも。何でそんなに落ち着いているのかも。おれ一人がいつだって理由も知らされずにびくびくとしているんだ。


車に乗り込むところだったのだろう、すぐに助手席を開けてくれた。力なく乗り込む。


「いえね、思ったより桃子ちゃんの入院が長引きそうなんで、荷物を取りに来たんですよ。私じゃわからないこともあるからって店を閉めて結香ちゃんに買い物を頼んで。時間がかかっちゃってねえ」


そう言ってにこやかに笑う。一樹だけが顔を引きつらせたままだ。


「君を見たら喜ぶと思いますよ、桃子ちゃん。いや、びっくりするかな。ずっと会ってなかったでしょうからねえ」


勇次には伝えてなかった。伝えられるわけもなかった。キミエに会ったとは。そして桃子とも彼の地で会っていたなんてとても言えない。

そんな過去を聞いてもなお、目の前のマスターとは結びつかなかった。平凡で気のいいおじさんとしか思えなかった。多くのアーティストが信頼を置くライブハウスの経営者には見えなかった。そしてエリックとのことも。



「…どう…し…て」


ようやくそれだけを口にした。それでやっと勇次にも察しがついたようだった。


「ああ、電話は電波状態が良くなかったですね。こちらは知らせたつもりになっていました。心配させてしまったかな」


信号が車を強制的に停める。勇次がなだめるかのように一樹へと優しい表情を向ける。


「休暇が取れたからと二人で日本に帰ってきても、桃子ちゃんは何にも食べられなくて吐いてばかりで」


唇を噛みしめる。じらしてるつもりなんてないんだろう、マスターには。いつだってこんなふうにゆったりと話すんだ。かつての妻の、キミエの内面の激しさとは対照的に。


「あわてて病院に連れて行ったら『重度の悪阻おそです』って言われて、即入院だって。こっちはびっくりしちゃってね。まあ水も飲めなかったから脱水症状も心配だったし」


何でそんなにのんびりと言うんだ?桃子さんはいったい…。


「ああ、そうでしたねえ。一樹くんには悪阻と言ったって何が何だかでしょうから。こっちも最初はそうでしたよ。要するにね、つわりだと」


えっ?


これで安心しただろうと言わんばかりの勇次は、車をゆっくりとスタートさせた。



一樹は…白く変わってゆく景色に何も考えられず、握りしめていたバックパックを取り落とした。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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