真珠の首飾り ~A String of Pearls
#38
大学が長期休みに入っても、もともと一樹は帰国するつもりさえなかった。個人レッスンを増やし、作曲科での単位を集め、教会が主催する格安の語学教室へと通う。そんなスケジュールを立てられるほどにはこちらの生活にも慣れた。
全く楽器が吹けずにいることも痛みを取るための薬を飲み続けていることも、これ以上家族に伝える気など無い。聡子にすら。
音を出さないのならば姉の部屋でこもることもできる。作曲はPCがあればとりあえず形になる。凡庸にも程がある習作という名の模倣。それをレポートのように提出し続ければ卒業できるだろう。
何のために、ここへ来たのかもわからないまま。
海外に来て改めて高橋親子の名声を聞き、実感した。その中にはもちろん自分は含まれていない。
自分の音が狭いコミュニティーの中では受け入れられる。それはわかった。でも、これからというときにいつだって、音は一樹から奪い取られてしまう。
手に入れた老舗のライブハウスでのレギュラーも消えた。実力のなさなら納得も行く。再発こそ免れてはいるけれど、病気のせいで骨はすかすかだと…折れていると。これ以上楽器を吹くことは今はできない。今は…できないだけだ。
そして、あり得ない形で桃子と再会した。キミエという実の母親にまで。
彼女の家庭の事情なんて知らずにいたかった。桃子はいつだって凛として冷静で、それでも本人が思うほどには冷たくなんかないほどのお節介焼きで。
母親を取るか父親を取るか、残酷な選択を強いられてきたことなど知られたくもないだろう。桃子自身だって。
どちらも子どもである桃子を見ずに、遠くのどこかに漠然とある音楽だけを見ていた。
一番普通の家族らしかったのが、マスターとおれと桃子という、何の血縁関係もない擬似家族だったなんて。切ないね。
さらにここへ来てまた、父である孝一郎の苦悩を突きつけられ、赤の他人の口から「君は見離されていたわけではないのだよ」と諭された。
それに何の意味がある?
あの頃に持った感情は変わらない。過去に戻って変えることはできない。寂しいだなんて手垢のついた言葉じゃ説明できないほどの孤独感を、さかのぼって癒すことなんかできやしない。
こんな思いを味わうために、おれはボストンまで来たんだろうか。
日本にいれば目の前に父はいたのに。何一つ会話もせず、事情も説明されず、謝罪の言葉もない。向こうからすれば必要感なんかないんだし。
ああそうさ、大人は子どもを見くびる。いつだって。「いつかはわかってくれる」と平気で親子の関係に安心しきって油断する。
わかるはずもない。そのときに手に入れなきゃもらえないものはいくらでもあるのに。一樹にとって、十五のあの頃にこそ欲しかった必要だった温かさは、どうあがいても一生手には入らない。
桃子が黙って母親であるキミエを見送ったように。それを「理解のある娘」としか思えない身勝手なキミエ。きっと今でも理想的な自立した新しい家族の形だと自画自賛していることだろう。心の奥底では。
あきらめてしまった桃子はいつだって微笑んでいる。感情を動かさない、めったには。親の愛をあきらめきれずにいる一樹にとって、あの頃を支えてくれた桃子は姉であって姉じゃない。
それ以上は考えるな。
一樹は姉の部屋に置かれた、フリルだらけのベッドに倒れ込んだ。天井を見上げる。それからゆっくりと、サイドに置かれた写真を見やる。
何もかも見透かすような聡子の瞳が苦手だった。姉の親友であり、自分と付き合ってくれる恋人。踏み込んで欲しくないと一樹がわがままを言えば、それをすんなりと受け入れる。何も疑わず、いや、見て見ぬふりをしてくれる。とうてい自分なんかじゃかなわない相手。
…姉ちゃんはのんきだから…
複雑な気持ちを抱えて思わず笑う。おれには今しかないのにね。将来というものを考えてはいけないのに。十年後、五年後…一年後に生きているかどうかなんて、はっきりと確率で表されてしまうのに。
今は痛みで動かせない左腕に、一樹はそっとかばうように触れた。再発の恐怖はついて回る、一生。その怖さに誰も巻き込もうとは思わない。でも、一人で向かうには荷が重すぎる。ひどいくらいの矛盾に一樹は苦しむ。
だから、刹那的な愛でいい。
この一瞬に誰かが自分を欲してくれるならそれでいい。
ぞくり。
たった一人という思いは、本当に身体を押しつぶそうとする。胸が重い。寒気で全身が震え出す。誰か!誰か!!
梨香は当直だと言っていた。電話もメールもつながらないだろう。大学の友達は?どうでもいい話をいくら重ねても、この空虚感が埋まることはない。ウォーリーズはライブがはねた頃か。かつての仲間が楽器に触れている姿を見て惨めな思いをまた味わいたいのか。じゃあ誰に?
一樹は手にした携帯のアドレス帳を開けた。つい勝手に押してしまったのは…エリックのライブ前に思わず交換してしまった桃子の登録番号だった。
出るわけがない。出ないでくれ。頼むからどうか。
呼び出し音が一つ鳴るたびに、別の意味で胸が痛くなる。声を聴いたらすべて崩れる。救いはボストンとシアトルとの物理的な距離だ。ニューヨークとは違う、行こうと思い立って行ける場所じゃない。
それでも、逢いたかった。
この世で一人ではないと確実に感じさせてくれるのは、実の家族でも他の誰でもなく…桃子だったから。
呼び出し音は続く。いつまでも途切れない。出る気がないのか、放置して気づかないのか。それとも、表示されているはずのkazuki.takahashiに無視を決め込んでいるのか。
でも一樹から電話を切るだけの勇気はとてもなかった。
…Your call cannot be completed because the number you have dialed is outside the service area or the telephone may be switched off.…
無機質なオペレーターの音声ガイドが聞こえてはじめて、一樹はスイッチを切った。
黙って立ち上がり、ハガキを入れたファイルをあさる。頭のどこかで自分を必死にとどめようとするのに、止められない。あったはずだ、確かにどこかに。篠原と二人で撮った写真とともに新居の連絡先が書かれた、ありがちなエアメールが。
大して荷物もない。見つからなければよかったのに、と八つ当たり。そこには篠原の自宅電話の番号が記されていた。どうする気だ、掛けるのか。篠原が出たら?
そこまで思い当たって、一樹は自分に呆れて口元をゆがめた。
…バカだ、おれ。篠原さんが出たら彼と話せばいいだけじゃん…
そもそも知り合ったのは篠原の方が先だ。わずかの差だけど。彼こそが桃子と引き合わせてくれた。大切な大切な恩人であって、先輩であって、友人である篠原。
彼とだって話せば落ち着くだろう。だったら最初から自宅に掛ければよかったんだ。
山ほどの言い訳を思い浮かべてから電話を掛ける。今度はさほど緊張もせず。
が、やっぱり同じだった。誰も出ない。国内時差があってもこの時間なら家にいるはずなのに。急に一樹を覆う不安はなかなか消えてはくれなかった。出かけているのか旅行か、いくらでも理由はあるだろうに。それでもなお。
別の時計に目をやる。軽く舌打ち。日本はちょうど昼時だ。
ジャムズのランチタイムは、戦場のように忙しいのは自分がよく知っている。ちょうど店では、珍しく昼間も働くようになったというマスターの勇次が必死に接客をしているところだろう。
けれど一樹は、ためらうことなくボタンを押した。誰でもいいから声を聴きたい。忙しいのがわかんないの!?という結香の怒鳴り声でもいい。
が、電話に出たのは勇次だった。
「はい、ジャムズでござ…。え?一樹くんかい!?」
電波が途切れ途切れでよく聞こえない。それでものんびりとした声にほっとした。急いで篠原の家と連絡がつかないことだけを伝える。何か聞いていないかと。
言いながらも、別にジャムズが一樹の実家でも何でもないのにと苦笑いが浮かぶ。もともと全くの赤の他人なんだ、篠原も神原の家も。おれはそれなのに、高橋には掛けずにこっちへは当然のように掛けるんだな、と。
けれど、そんな感傷はすぐに吹っ飛んだ。
「え?桃子ちゃんかい?日本にいるよ、今。大したことないけど入院…」
「入院!?どういうことだよ!!もしもし?もし」
電話は唐突に切れた。もう一度掛け直すだけの気力が一樹にはもう無かった。
入院、桃子さんが。
一番似合わない組み合わせじゃないか。どうして、どうしてそんな。何があったっていうんだろう。あのライブからどれくらい経っていたっけ。
もう一回、ランチが落ち着いた頃に掛ければいい。ただそれだけのことなのに。誰か別の知り合いに聞けば用は済む。状況がわかればそれでいいはず。
でも、でも。
篠原も自宅にいないのなら、一緒に日本にいるんだろうか。大したことはないとマスターは言ったが、仕事を休んでまで帰国したのだとしたら。
一人で勝手に想像が進んでいく。聞けばいいんだよ、誰かに!わかってるそんなこと!!
はっきりさせるのが怖い。だったら直接知りたい。
シアトルが遠いのなんのと言っていたはずが、気づけば一樹はPCを立ち上げてすぐ手に入りそうな航空券を探し始めていた。
ボストンから直行便はないのに。帰る気か、日本へ。
ずっと帰国してないんだ、一度くらいいいだろう。みんなの顔を見たらすぐに引き返せばいい。
みんなの顔…ああ違う。
一樹は知らずに浮かんだ思いを、必死にしまい込もうとしていた。
(つづく)
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