苦しみを夢に包んで ~Wrap Your Troubles In Dreams
#37
教官室へ入ってもしばらくは動揺から息が切れて、一樹は何一つ言えずにいた。ロマーノのまなざしは柔らかい、常に。
「具合はどうだい。作曲科では真面目に授業を受けていると聞いたけれど」
「いろいろご配慮ありがとうございました。それより今日は…」
クセで日本式に頭を下げて礼を言うと、まっすぐにロマーノを見据える。父のことを教えてくれ、と。
「パリフィル時代…かい」
他の誰に訊いても「息子なら直接教えてもらえ」と言われるだろう。もしくはブライアンのように、知らないのか息子のクセにと嗤われる。
しかしロマーノは顎に手をやり、ゆっくりと一樹に向き合った。無言だけれどイヤじゃない。これは静寂ではなくただのブレイク。次のフレーズがそっと入ってくるまでの。
「そう昔の話じゃないね。けれどあの頃のパリフィルは客演したアジア系指揮者とたいそう揉めてね」
ああ、今やクラシック界で著しい活躍を見せるのは皆アジア人ばかりだ。小難しいコンクールに入賞するのも、指揮者として名を馳せるのも。もともとが西洋それも宗教を主体としたはずの芸術は、いつの間にか世界の共通語となり、軽々と言葉の壁を乗り越えて東からの風が吹き荒れている。
ジャズも同じ。
ここの学生だって例外じゃない。勤勉で器用とされる日本人らは技術なんかすぐに習得してしまう。
「そこへ送り込まれた、と言っては言い過ぎかな。あまり喜ばれないタイミングで日本人初の常任指揮者となったのがコウイチロウだよ」
言葉を選んでるんだろう。要は最初から歓迎なんかされなかった。外面がいいくせに本当はプライドのかたまりのお父様は、どうせ高飛車な態度で臨んだんだろう。想像するのは難しいことじゃなかった。
「音楽性が、ということではなかったのは確かだ。オケの連中にも他意はないだろう。けれどパリフィルをまとめ上げるのにはたいそう苦労していたようなんだ」
彼と直接会って話せればよかったのだけれど、こちらもバタバタしてしまっていてね。言い訳というよりも後悔の念をにじませるロマーノは、一樹が思っていたよりずっと父親とは親しかったのだろうか。
「アヤコが…君のお母様から相談は受けていた。とても目を離せられないとね」
どういうこと…ですか。一樹の目が見開かれる。
「精神的に疲れているというのは噂で聞いた。彼ほどの人物がよく知りもしない外野からそう言われるほど弱っているとしたら、本当はかなり辛いのだろう。何度目かの電話で治療を受けていることを聞かされた」
治療が必要なほどの「苦悩」…それがブライアンのほのめかしたことなんだろうか。
ロマーノはピアノの前に腰掛け、窓からの陽射しを受けつつ穏やかに話し続ける。一樹は、座るように促されながらも立ちすくんでいた。
誰も…誰もあの頃のことなんて話しちゃくれなかった。姉のコンクールのためにパリに居続けたのだとばかり思っていた。おれは必要ないから、姉には最高の環境を用意したいから。高橋の家は姉中心で回っていたんじゃないのか。
吐き気は自分が飲んだ薬のせいなんだろうか。一囓りのフルーツでさえ消化してはくれない。
「目を離したら、アパルトメントの窓から飛び降りてしまうんじゃないか。アヤコの声も沈んでいた。本来なら入院させて音楽活動から引き離した方がいいと再三医師から言われていながらも、コウイチロウは頑として聞き入れなかった。その代わり…アヤコは片時も彼の側を離れず、見守るというか見張り続けている必要があったそうだよ。日本へは帰れない、子どもたちに心配は掛けられない。マリコのコンクールのためという大義名分があれば、パリに閉じこもっていてもそれほど不審には思われないだろう。何よりも体面を重んじるコウイチロウ本人の負担を少しでも減らしてやりたいとね」
それは彼個人のというよりは、日本人初という重荷を背負っていたからなのかも知れない。
いつ飛び降りるかわからない…それほど精神的に追い詰められていたのか。あの何があっても動じそうにないお父様が。
おれも姉も蚊帳の外で、親たちの思惑とは真逆に、疎外感と不信感だけを育てていくことになったってのに。
ああ違うや。姉ちゃんは音楽さえあればいい。ヴァイオリンだけを弾いていればいい。本人でさえ不満どころか周りの痛みも感じないだろう。あの人はそういう人だ、嫌味や妬みではなく。
おれは。
またこうやって他人から、肉親の本当の姿を間接的に知らされるんだ。おまえは愛されていたんだと。その言葉の裏には「だから感謝しろ」という、世間的には当たり前すぎるほどのメッセージが込められるんだろう。
いい加減にしてくれ!
当の本人に届かない想いなんて、何の役にも立たないのに!
とうとう一樹は、椅子ではなく床にしゃがみ込んでしまった。何もかもが気持ち悪い。この世界も音の鳴る空間も、空腹も薬も全部が!
右手で顔を覆う。やり切れなさをも同時に一樹を覆い尽くす。親と子はどうしてこうもすれ違うんだ!
ただ単純に、子どもが子どもでいられればいいのに。愛され、笑顔を向けられ、子どものすることだからと微笑ましく甘やかされ。
真実を全部隠されて冷たくされるのも、桃子のように大人と同等の階層に立たされるのを無理強いされるのも、全部違うよ!
一樹には到底うまく言い表せなかった。ましてや英語でそれをロマーノに話せるはずもなかった。
でも違うんだ!大人の問題には関係ないと切り捨てるなよ!だからって、大人扱いするなよ!
都合がよすぎるって?ありきたりのガキ扱いでよかったのに。ただ…それだけなのに。
「私は君に、余計なことを伝えてしまったかな」
同じように腰を落とし、一樹と同じ目線の高さでロマーノは静かに言った。力なく首を振る。教えてくださって…ありがとうございます。それだけを何とか呟く。
「僕は……無い物ねだりばっかりしてるんでしょう…か」
一介の音楽教官であるロマーノに言うことじゃないだろう。それはわかる。でも今は、父の友人としての彼に問いたかった。事情もよく飲み込めてはいないだろう彼に。
「コウイチロウが辛さを君に悟られまいとしたのは、みな精いっぱい君を守ろうとしたからじゃないのかな。部外者の勝手な言いぐさだから、気にしないでくれよ」
大きな手が、そっと一樹の頭に置かれる。
この手だけでも、誰かがくれればよかったのにね。今ではなくあの頃にさ。
何も言わなくても伝わるだろうというのが家族の甘えと驕りならば、キミエのような「すべてを言葉にしてはっきり伝えるのが家族という名の同志への正しい姿」というのは頭でっかちの思いこみ。
どちらも不器用で、いびつだ。
哀しいね。お互い哀しい思いを抱えた者たちが、疑似家族で笑い合っていた。それもとっても…哀しいことだね。
「いつかは君も、コウイチロウの思いを理解できるようになるさ」
純粋な善意から発せられたロマーノの言葉に、そうですねと返す。建前くらいは言えるようになった。それくらいは大人になった。そう思いたかった。
あの頃の桃子はどんな思いで一樹を見ていたんだろうか。ガキそのものの感情をぶつけ、愛してくれとわめくだけのおれを。
息を整えると一樹は立ち上がった。ロマーノに笑顔を返すのを忘れなかった。感謝の言葉とともに。
心配げに外で待っていただろう友人らにも、ありがとうと笑いかける。ため息を一つ。それから「いろいろわかってよかった」と付け加えて。
「ブライアン様のおかげだな。余計なことをべらべら言ってくれたせいで、悩みごとが一つ消えたかもな」
いつもの口調に周りがほっとする。
けれど、一樹の周りから色彩は消えていた。すべてがモノトーンにしか見えない。ピアノソロもヴァイオリンソロも要らない。極彩色のフルバンドの音が欲しい。その不協和音のまっただ中に身を置きたい。
美しく調和の取れたオーケストラなんか消えろ!
心の中で叫んだ一樹に、突然なだれ込んできた音は…スィート・オブ・トキオ…。
皆から離れて一人になった彼は、口元を押さえて苦しさに耐え続けていた。
(つづく)
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