まだ若すぎる ~Too young to go steady
#36
真新しい建物のペインセンターから、まぶしい太陽の下へと出るときに感じためまい。ずっと夜の暗がりに慣れてしまっていた一樹には、健全すぎるほど健全な真昼が苦手だった。
タバコの煙が充満するライブハウスと、いくら晴天でも窓一つないコンサートホールに詰め続けるツアーサポート。そして…かすかな音さえ出ていくことの許されない密閉した録音スタジオ。
…おれがいる場所は、ここじゃない…
どんなに思っても、今の彼にはトランペットがない。肩から外したことなんかない革ケースの重みの無さが、一樹を不安で包んでいた。
「悪性腫瘍の再発兆候は見られません。骨折部位も完治しています」
何度も伝えられる判で押したような医師の言葉。しかし、と前置きしてペインセンターの担当医は穏やかな視線を一樹に向けた。
「あなたが痛みを感じてるのは事実です。我々はそれを認めます。ですから症状の緩和を図っていきましょう」
難しい英単語は紙で示してくれた。持って行った電子辞書など全く役に立たないし、アジア系米国人の看護師が医学用語の辞典を開いてくれた。移民や留学生用に優しい言葉で説明してくれたものを。
それでも、長いこと待たせられたあげくにもらった薬はいったい何なのか、考えることも一樹には負担だった。
とにかく飲めばいいんだろう。痛み止めか何かなんだろう。それで腕が動くならいい。楽器が吹ければ…それでいい。
彼はあえて梨香へ連絡を取らなかった。合い鍵は返した。もう逢わずに済むだろうか。一樹の心に空洞ができてしまったら、今度はきちんと聡子へと寂しいと伝えられるんだろうか。言葉では思いでは満たされない。じかに伝わる体温だけが一樹を蝕む数え切れないほどの隙間を埋めてくれるとしか、今は思えないのに。
それでも今のままが良いはずない。一樹は目を細めて空を見上げる。
健全すぎるほど健全な青い空を。
「ちょ、ちょっとお!!そんだけで足りんの!?大食いのカズが!!」
音大のオープンカフェにすっとんきょうな声が響く。もちろんボントロの尚子だった。
一樹の目の前には水と果物、それだけしか置かれていない。金欠カネコマなら貸してやっから!という尚子の言葉に、一樹は首を横に振った。
「食欲ねえから。これでも精いっぱい。新しい薬飲み始めてから気持ち悪さ半端なくて」
言うそばから自由の利く右手で口元を押さえる。一日中このイヤな吐き気に悩まされているせいで、とても食い物を口に入れるだけの気力がわかない。
もしこれが化学療法の薬だとしたら…この感覚は慣れている。本当のところはとっくに再発していて、おれに内緒でなのか自分の英語力の無さからなのか、勝手に抗ガン剤を飲まされてるんじゃないんだろうか。想像もしたくない。ぬぐいきれない不安と不信感が募るばかりで、次の診察なんかサボってやろうかと思っているくらいなんだから。
「ゼリーとかそういうものではダメですか?少しでも栄養取らないと心配だし。だいたいあれだけ大食いのカズがそれだけなんて」
思わず横から洋輔も声を掛ける。大食いで悪かったな、と一樹が逆ギレる。
「でさ、ちょっとは効いてるの?」
さっさとチキン主体のランチを平らげた尚子は、ケーキにフォークを突き刺しつつ一樹へと訊く。
彼はもう一度、力なく首を振った。
「全然。痛みも治まらないし腕も動きゃしない。医者が言ってたのは二週間とにかく我慢して飲めって。それでも効かなきゃ薬を変えるってさ。合う薬を見つけるまで二週間実験動物扱いかよ。てか、そんな行き当たりばったりの治療って有りか?」
そこだけは薬局でしつこく説明された。吐き気止めも出すからあきらめず続けろと念を押された。もしこれが…。ただの痛み止めだと信じていたい自分の弱さが、薬の名前さえ確かめられずにいるのに。
「何だ!!ウォーリーズを降板させられたプロのミュージシャン様は、こちらで怪しいクスリに手を染めていると!!」
脳天を突き刺すような気に障る声の持ち主なんて、振り向かなくてもわかる。まるでワンセットのようについてくるシェリルの叱責も想定内だ。
「いい加減にしなさいよ!ブライアン!!言っていいことと悪いことがあるでしょ!?」
さすがに厳しい彼女の声色に、ブライアンは鼻白んだ。一樹がその前にむすっとした顔で睨みつけたせいでもあるだろう。
「悪いけどさ、あんたらの相手してる状態じゃねえの。機嫌悪いんだよね、おれ。視界から消えてくんない?」
ちょっと!こいつと一緒にするの止めてよね!シェリルが慌ててまくし立てる。それから一樹のそばの椅子へと座り込み、大丈夫なの?と表情を曇らせる。
「当分吹けそうにないのは変わんないし、作曲科でも落ちこぼれの状態で単位をかき集めてるだけだし。何やってんだろうね、おれって。ホントにさ」
口の中が苦い。吐き気だけのせいじゃない。何のためにここへ来たのだろう。ただ…何もかもから逃げ回っているだけなんだろうか。それでも無理に作り笑いを浮かべてみせる。ブライアンはともかく、せっかくできた友人らにこれ以上心配は掛けられない。
当のブライアンも決まり悪そうに空いた席に腰を下ろす。根っから悪い男じゃないことは見ればわかる。性根の悪いヤツがこんな、どピンクのブーツカットパンツにこれもショッキングピンクのシャツなんか合わせて着ないだろう。羽織ったジレには虹色のフリンジまでついている。八十年代のアイドルならこんな衣装を着ることもあるかも知れない。まあ、想像でしかないけれど。
作り笑いは苦笑へと変わる。こんなときでも、ああそうだ。おれは笑えるんだ。きっとね。
黙って目を泳がせているブライアンは、本気で一樹になんて声を掛ければいいのかわからないのだろう。一度視線を外してから、わざと一樹はブライアンを挑発する。
「せっかくのチャンスができたんだ。あんたがシンシア・グループに入ればいいのに。オーディションを受けたいんだったら伝えてやるよ。ラッパのレパも増やしたとこだし、バークリーの天才首席奏者が入りたがっているってね。たぶんきっと、シンシアもフィリスも喜ぶんじゃね?」
にやにや自虐的に吐き捨てる一樹に、周りはどう反応していいのか戸惑っている。
しかしブライアンは、珍しく真剣な瞳を一樹へと向けた。
「ボクは確かに天才奏者だ。その点では君と意見が一致して嬉しいよ。けれどね、天才は自分の力量を十分知っているものだよ。ボクは自意識過剰の自惚れ屋ではないし」
このセリフに、シェリルが何かをこらえるように横を向く。肩が震えていたかも知れない。洋輔は一樹とブライアンの顔を交互に見やっておろおろするばかりだし、尚子に至っては遠慮など何もないように後ろを向いて笑い転げている。
気にもしない様子でしれっとブライアンは言葉を続けた。
「現在のボクにはセッションナイト辺りがベストな選択だ。自分で満足するほどの使える技術と音が伴わない今のままでレギュラー入りし、人気が爆発して売れてしまったらどうなる?すぐ潰されるだろう?ボクはそんな愚かな真似はしたくないからね」
真面目な彼に一樹もまっすぐ見返す。睨み返すと言った方がいいかもしれない。どういう意味だ、と。
「もっと易しい英語で話してやりなさいよ、ブライアン。というよりもっと素直にね」
シェリルの柔らかい声。つまりね、カズ。耳元で鳴るベルベット・トーン。
「この自意識過剰の自惚れ屋も、あなたの才能は認めてるって言いたいのよ。来たばかりなのに実力で老舗のライブハウスのレギュラーをもぎ取ったあなたを、ね」
一樹の目が見開かれる。おれの、実力?
「シンシアのグループは今は全然、管を募集してないの。あなたのトランペットが入ったいい曲だってたくさんあったのに、それらは一切やるつもりもないって言ってたわ。カズが戻ってくるまではってね」
あれ以来、店のライブにもバンドの連中にも顔を見せに行っていない。フィリスとは電話でやり取りした。
待ってくれている?おれを?いつ戻れるかもわからないのに。
「そういうことよね?ブライアン」
ふいっと言葉を返すシェリルに、彼は照れたようにそっぽを向いた。
「治療が進めばまた吹けるようになる、そう信じていていいんでしょう?」
にっこりと微笑む彼女にあいまいなぎこちない笑顔で応える。そんなこと、自分自身でさえわからないから苦しんでる。信じたいのは誰よりもおれなのに。
「どうせ治療費をケチって、ろくでもないクスリをもらってきたんじゃないのか?」
照れ隠しなのか、憎まれ口とともにブライアンはテーブルの上に無造作に置かれた一樹のクスリをさっと手に取った。
「プライバシーの侵害よ!!無神経ないことしないの!!」
シェリルの声に首をすくめ、それでも彼は処方の説明書に目をやった。
「どうせ英語もろくにわからないんだろう?天才ブライアン様が懇切丁寧に教えてやろうとだね」
いいよ!とも止めろ!とも言えず、一樹は固まったまま動けない。どうか聞き覚えのある薬品名ではありませんように。知らないまでも、はっきりと痛み止めだと明記してありますように。
調べればいいことをそのままにしていた。ブライアンが教えてくれるってなら、それを受け止め受け入れろってことなのかも知れない。
一樹の顔が思わず歪む。が、ブライアンはげげんそうな表情を浮かべた。
「これって、アメリカではポピュラーな抗うつ剤だけれど。本当にこれでいいのかい?」
意味がわからない。こいつは何を言ってるんだ?戸惑う一樹に気づいているのかどうか、ブライアンは何度も説明書をひっくり返しては細かい文字を追い続ける。
「ああ、ここに書いてある。痛みが固定化された状態では中枢神経系用薬を用いて治療を行うのが一般的、なんだねえ。いくら博学のボクでもそれは知らなかった。処方の間違いというわけじゃなく、その中に抗うつ剤も入っているらしいよ。まあ君の場合は鬱病ではないのだろうし。親子とは言え、パリフィル時代のコウイチロウのような苦悩の人というイメージは君にはないからなあ。いてっ!!」
最後の叫び声は、尚子がブライアンに蹴りを入れたからだろう。余分なこと言わなくていいの!小声の怒りはだが、一樹の耳に確実に伝わってしまった。
コウイチロウのような…?何だそれ。
「待てよ。パリフィル時代のコウイチロウのようなってどういう意味だよ」
低く静かな一樹の問いに、息子なのに知らないわけないだろう?と声を上げたブライアンは「アウチ!!」と足を抱え込んだ。今度は蹴りでは済まなかったらしい。
一樹の視線が答えを探して皆を見回す。唇を噛むように黙っていた尚子は、ブライアンが再び口を開きかけたのを手で強引に制して、ただの噂よ、と呟いた。
父のパリフィル時代。それは一樹にとってたった一人で闘いを強いられた日々。姉は国際コンクールへの出場を掛け、家族三人はパリへと移り住み…横浜へ残されたのは一樹だけ。
今でも彼を苦しめる腕の病気を発症し、手術を受けて文字通り生命の危機さえあったのに、誰一人日本に帰ろうとも温かい声を掛けようともしなかったあの頃。
不安に押し潰されそうな一樹のそばにいてくれたのは……赤の他人の桃子だったのに。
「何があったんだよ!!みんな知ってるっての!?おれには大事なことなんだ!!教えてくれよ!!」
思わず立ち上がる一樹に、他のテーブル客の視線も集まる。構っていられない。何があったんだ、あの頃に。何故みんな知っているんだ。実の息子の自分が知らないってのに。
その真剣な様子に、尚子は言葉を選びつつ応える。
「本当にただの噂だから。クラシック畑のヤツらが耳にしたことがあるって程度のね。あの頃の高橋孝一郎は、パリフィルとのトラブルが続いて…精神的に疲れていたって」
いきなり駆け出す一樹の背中に、どこ行く気ですか!?と洋輔が叫ぶ。
息を整えてから、一樹は振り向いた。
「ロマーノ先生のところに。父の友人ならきっと、もっと詳しいことを教えてもらえるかも知れないし」
「カズ……」
精神的に疲れていたってどういうことだよ。はっきり言ってくれよ。死ぬか生きるかというほどの状態だった息子に思いを寄せることもできない何かがあったなら。それをおれにだけは伝えずにいたのだとしたら。
すべてを振り切れるのならと、一樹は教官室へと黙って歩き続けた。
(つづく)
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