捧ぐるは愛のみ ~I Can't Give You Anything But Love
#35
吹き込む風は少しばかり寂しさを増し、季節が移りつつあることを示していた。いや現実は、一樹の心を凍りつかせようとしていたのかも知れない。
「子ども、とは思わない?」
多分に青ざめていたのだろう。怒りからか哀しさからか定かではないけれど。
「誤解されやすいとはよく言われるわ。特に日本へ住んでいた頃はね」
当のキミエ自身は、彼の反応すら想定内であったかのように、まっすぐ前のステージを見続けていた。今は誰もいない舞台を。
「生まれたときから、彼女は別の自我を持つ一人の人間。そう思うことが私たちにとっては自然だったし、親子・家族という名に縛られない、共同生活者として対等な立場としての同志…」
「大人の勝手を押しつけんなよ!!」
たまりかねて一樹はキミエの言葉をさえぎった。しかし彼女は表情一つ変えやしない。
「じゃあ桃子さんは、いつ、誰に甘えれば良かったんだ!?何の計算もなく無邪気にさ!!」
あなたもそうしたかったとでも言うの?冷たい響きさえ含むセリフに、一樹は唇を噛む。
「おれは…桃子さんの話をしている…んだ」
「あなたは桃子ではないし、彼女の気持ちは知るよしもないでしょう?」
出逢ったときの桃子の歳を、自分はもう越えてしまった。なのにあの頃の彼女は、一樹にとって既に姉であり保護者だった。守る者であって守られる者じゃない。ごく普通の子どもとして扱われずに、幼い者として愛されたストックのない桃子から、自分は親代わりの愛情をむさぼり奪う存在だったのか。
おれはまだ、欲しいとしか叫ぶことしかできない。できないのに。
ほうっ、とキミエは長いため息をついた。感情を波立てることもなく。
「愛情の形は一つではないのよ」
まるで自分に言い聞かせるかのように、彼女の声が静かに響く。
「子どもは大人の縮小コピーじゃない。大人の言い分なんかわからない。どんなに桃子さんが大人っぽく見えてたって、傷ついてるのを隠してたかも知れないとは思わなかったんですか」
「思いは言葉にしなければわからない。だからこそ私たちは、この先の生き方を相談するときにはいつも三人で話し合ってきたわ」
意見の相違も、家庭の外にいる恋人の存在も、正式に別れると決めたときも…。
それをすべて冷静に聞いている桃子を想った。子ども時代を子どもとして生きさせてもらえず、大人と扱われた彼女を想った。
最初から大人として生きるか、自分のように未だになかったものにしがみつこうとするか。
頭でっかちな目の前のキミエにはわからないだろう。マスターは、勇次はどう思っていたんだろうか。
ジャムズの音があふれる中で、勇次に会いたいと不意に思いがこみ上げる。淡々と温かな目を向けてくれた彼は、おれが他人だからこそ優しくしてくれたのか。
親子という距離の近さと遠さが、一樹の心を惑わせる。
子どもと思わずに一人の人間として尊重するという扱いを「対等な関係」と信じていた神原の家は、やっぱり見えない歪みがあったとしか思えない。
そう…思い込みたいだけなのかも知れないけれど。
「…ピアノ」
ふとついて出た言葉に、一樹自身が驚いた。案の定、キミエは聞き返すか聞き咎めるかのような表情を浮かべる。
「あなたのピアノを聴かせてもらえませんか」
言い出した思いは止めることはできない。家族を桃子を日本に置いてまで追及したかったという彼女の音楽は、どんな音を奏でるのだろう、と。
「本来なら、ここだとて使用許可が要るのだけれど」
うっすらと苦く笑いながら、それでもキミエは席を立った。ゆっくりとステージに上がりピアノの蓋を開ける。指を組み、そっと目を閉じる。
しばらく静寂の時間が過ぎ、流れ出したのは…「スィート・オブ・トキオ」のピアノ編曲版だった。
激しい冒頭の主題ではなく、緩やかな第二主題。それを基にした変奏曲。あれから何度も聴き返した孝一郎の代表曲は、一樹の耳の中で常に鳴っているかのように住み続けている。落ち着いたと言うよりも冷静な、冷酷すぎるまで研ぎ澄まされたソリッドな音。その刃のような音色が小さなホールを切り裂いてゆく。
音はだんだんと激しさを増すのに、使われる音は複雑で不協和なものへと変わってゆくのに、すべてがクリアで透明なガラス。
そのガラスに覆われて息ができない。曲の途中にもかかわらず、一樹はドアまで走りよった。人一人が出られるほどの隙間を作って…逃げ出す。
あの曲は誰をも拒絶はしまい。けれど、誰をも近づけまいとする。
真っ向から勝負を挑むのなら受けて立とうというほどの厳しさで、己の心を見つめなおせと迫り来る透明な鏡。
光をみな透過させてしまえば、何も映らないはずなのに。どうして醜い自分の心までもが全部見えてしまうんだろう。
おそらくキミエは、誰に聴かせる為でもなくピアノを弾き続けるんだろう。演奏者としての名声も地位も、それによってメシを食うということさえも関係なんかなく。
孝一郎も真理子も、俗な計算なんかしたくでもできやしない。純粋に音楽を追い求めている。世界的に有名な…なんて言葉はあとからついてくるだけ。
おれは。
もう日もだいぶ高くなった。眩しい空に顔を上げて、一樹は固く目をつぶった。
あの厳しいまでの美しさを手に入れる為に、桃子は手放されたのか。もっとも彼女にしてみれば、選んだのは桃子自身だ。それがどれだけ酷な選択かを知りもせずに。
一番酷な選択を突き付けたのが実の母親であるという事実を、キミエは理解できないだろう。桃子は否定するだろう。勝手な憶測で勝手に傷ついているのは、おれだけだ。
深く深くため息をつく。息を吐ききってしまえば、空気は勝手に肺に入る。どんな種類の呼吸法でもいいけれど、かじったことのあるヤツなら誰でも知っている。
おれは何を吸い込みたいんだろう、これほどまで深くすべてを吐ききって。
ホールの内側からかすかに聴こえるラストのテーマ。キミエの美しいピアノは止まることなく続いている。観客が誰もいなくなってもなお。
たとえ吹くことができなくてもトランペットに触りたい。一樹はあのいかついガードマンのいる入り口に向かって歩き出した。
帰ろう。どこへ。どこかにあるはずの自分の居場所へ。
美術館も観光名所もライブハウスもブランドショップも、どこにも寄らないなんてね。せっかくここまで来たってのに。
苦笑いを浮かべて、何度もため息をつく。空気を吸い込みたいから。きちんとブレスをすればロングトーンができる。いつまでもどこまでも高らかに、音を響かせることができる。
何の為に吹くのかなんて、おれにはまだわかりもしないけれど。それでもなお。
「合い鍵、いちおう渡しはしたけどすぐ返してよ!?今日中にだから!!どうせペインセンターに行くんでしょう!?」
朝っぱらから金切り声で起こされ、一樹は頭を振った。記憶が定かじゃない。ここはどこだろう。姉ちゃんの部屋の香水が匂わない。レースのぴっらぴらのカーテンも揺れてない。頭だけが割れるように痛む。
うっすらと目を開けた彼に、のぞき込んで睨みを利かせたのは…梨香だった。
ああそうか、昨夜は確かこの部屋に転がり込んで。
「これから本格治療を受けようって人が、あれだけ飲んだくれてて良いわけないでしょうが!?挙げ句の果てにあたしの部屋を安いホテルか何かと勘違いしてるんじゃない!?」
でかい声が突き刺さる。顔をしかめて抗議しようとしたが、童顔のくせに精いっぱい怒りの表情を浮かべる梨香を見て、一樹は思わず笑い出した。
「あんたねえ!!」
「ね、おれ昨夜なんかした?それで怒ってんの?それとも…なんもしなかったから怒ってるの?」
一樹はにやっとしながら、自由の利く右手で頬杖をつき下から見上げる。怒りなのか恥ずかしさからか頬を赤らめた梨香がクッションを振り下ろす。
「…ってえ」
直撃を食らって頭を抱える一樹に、この鍵はたった今返してもらうからねっ!!と声を投げつける梨香。
酒を買って飲みながら歩き、独りはイヤだとこの部屋の前で梨香の帰りを待ち、驚く彼女にもたれかかるようにキスをした。そこまでは覚えてる。
慌ただしく出勤の準備を整えている彼女を、ただぼうっと眺めている。思考は停止。何一つ考えたくない。
「じゃ!あたしは仕事行くから!!ホントに今日中に返してよ!?」
鍵を取り上げられて放り出されるのだけは避けられたみたいだ。一樹は甘えた声を出す。病院行くなら一緒に行こうよ、と。
「あんたの着替えを待ってたら、あたしが遅刻すんの!!」
え?言われて初めて、一樹の服すべてが床に散乱していることに気づいた。酔っぱらって記憶のないまま脱いだんかなあ。ついやっちゃうんだよな。片腕でこれを全部着て、顔を洗って歯を磨いて…確かに待っててもらえそうにはないね。
自分の身体に残る気だるさが、悔しげに口を尖らせる梨香を愛おしいと思う理由なんだろう。今この瞬間は、確かに彼女のそばにいたいと願う。どれだけ身勝手な言い分かを知りつつも。
ベッドにもう一度寝ころびながら、梨香を見つめる。彼女の顔はもっと険しくなっていった。
「もう!!その顔すんの止めてよね!あたしはでっかい捨て犬を拾った訳じゃなーい!!」
「はん。照れてんだ、梨香。意外にじゅんじょー」
甘さを含んだ一樹のセリフに、返事代わりのクッションが飛んでくる。
「ってえ、女ってこええ」
「舐めた口を利くんじゃない!!二十代のガキが!!」
言い返そうと口を開きかけた一樹に、ぎゃあホントに遅刻だ!と叫びながら梨香は部屋を出て行こうとした。
ドアの前で振り返って一言。
「いい?今度こそちゃんと治療受けに来なさいよ!?ドタキャンしたらあたしが首根っこつかまえて引きずってってやるから!!」
首をすくめながら、遅刻するよとぼそっと呟く。腕時計と一樹の顔を交互に見た梨香は「覚えてろ、このガキ!」と顔に似合わぬ捨てゼリフ。ドアが閉まるのをしっかりと確認してから、一樹はくすくすと笑い声を上げた。
おれはまだ…笑えるよ。怖れも切なさも心の痛みさえもなかったかのようにね。
まるでテナーのサブトーンみたいな息を吐いて、彼は大きな手のひらで顔を覆った。
(つづく)
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