神よめぐみを ~ God Bless' The Child
#34
数年前に新装されたという音楽院、正式には芸術総合教育機関なんだろうけれど誰もがジュリアード音楽院と口にする建物は、来るものを拒むかのような雰囲気を醸し出していた。ボストンののどかさとはまた違った、身の引き締まる思い。
姉が学んだ…そして桃子の母が今も教えるという音楽院を見てみたい。できるなら音を聴きたい。それだけの単なる好奇心でここまで来てしまった。
部外者の一樹にとって、ここはただの観光名所の一つに過ぎないのに。
中庭辺りで何か音でもしないだろうか。日本でもどこへ出掛けようが、立ち寄るところは楽器屋か音の鳴る場所。それが演奏家の習性なんだろう、きっと。
心細い顔つきで正面入り口から見学者コースを探そうとした一樹は、体格のいい黒人の警備員にいきなり押し返された。
「ここからは立ち入り禁止だ」
むすっと言われ、観光したいだけだと言い返す。どこの案内パンフにも売店くらいは入れると書いてあったから。
「残念だな、ボウズ。今日は入れない」
「何でだよ!?別に学院の中まで入れろとは言ってない!」
ニューヨークならある程度警備も厳しいのはわかる。けれどアジア人だからと足元を見られたんだとしたら…。
「入れるはずだ!ここを通してくれ!案内にだってツアー客受け入れって書いてある!!」
丸っこい目をぎょろりとむいた職務熱心な警備員は、低い声でさらに言い返してきた。
「だから残念だなと言ったんだ。先週までは入れた。今週はダメだ!」
こう言われて完全に舐められたと感じた一樹は、ムキになってふざけるなと怒鳴る。
「人を見てアンタが入れる入れないを決めてるんだろ!?冗談じゃねえ!!こうなったら意地でも音を聴くまでは帰らねえからな!!」
ふう、とわざとらしくため息をつくと、黒人は吐き捨てた。
「オレにそんな権限があるもんか。ここのところニューヨークだけじゃなく国内で大学なんかの無差別襲撃事件が多発してるあおりを食らったんだ。今週から入れないってのはウソじゃない。急に厳しくなったんだからあきらめろ」
ダメだと言われれば何が何でも潜り込んでやる。どこかにこの鬱積した気持ちをぶつけたかったのかも知れない。一樹は食い下がった。
「僕は高橋孝一郎の息子だ!!」
こんなときばかり…自分でもおかしいとは思うが、はったりかますには使わせてもらおう。しかし相手は、それは誰だ、とにべもない。
「はあ!?ジュリアードで働くヤツが高橋を知らないのか?」
「ニホンの有名な政治家か?それとも俳優か?」
たとえおまえが大統領の甥だとしても、ここは通さない…と。どうやら彼も意地っぱりでは負けてないようだ。規則を曲げないと突っぱねてきた。
…同じセリフを言われて、凹んだのはいつだったっけ…
言った相手は桃子、何のフォローにもならないなぐさめをくれたのは篠原。一樹にとっては遠い遠い過去の思い出。
「タカハシマリコくらい、アンタだって知ってるだろう!?」
一族の名の売れたヤツを総動員するつもりか?自分は通用しないくせに。笑いと苦さが心に押し寄せる。
だが、警備員は本気でこの名を知らないらしい。言い返すこともせず睨むばかり。
クラシック音楽には縁がなくたってジュリアードの警備員は勤まるし、日々の生活を送る上で音楽が要らない人たちはいくらでもいる。
そうだよな、おれはいつだってそれを忘れそうになる。自分が属する狭い狭い特殊な世界のことを。
はん、そんな狭いカゴの中で何をやっているんだろう。重くて仕方がない高橋の名が通用しないことの悔しさを、自分でもどう扱っていいか持て余す。
「その子はバークリーの留学生よ。私がレッスンをすることになっていたの。職員用カードでもいいかしら」
不意に背後から声を掛けられ、警備員はハッと振り向いた。あくまでも職務に忠実な彼は、ここの職員の顔名前は頭に入れてあるのだろう。
「プロフェッサー、ならきちんと事前に許可を取ってください」
「ごめんなさい、こちらのミスね。ねえカズ、バークリーのIDカードは持っているのでしょう?」
階段の上で微笑むのは、ピアノ科講師のキミエだった。口論の声を聞きつけたのか、通りかかってくれて良かったのかどうか。一樹は複雑な感情をとりあえず押し込め、カードの入っているはずの財布を取り出そうとした。
なくすなと言われてからしっかりとしまい込んであるそれは、片腕ではうまく取り出せそうになかった。
いい?とささやかれ、一樹は言われるがままに財布ごとキミエに渡す。たいして入っていない現金とクレジットカード、そしてIDカードと。
「あっ…」
そこには、一枚の写真を入れておいたことさえ一樹は忘れていた。ジャムズでふざけて撮った、常連どもと店のスタッフみんなが写っている集合写真。もちろんそこには、笑顔の桃子も。
ちらりとそれに目をやるキミエに笑みが浮かぶ。違う、浮かんで欲しいと一樹は願った。それほど顔色一つ変えない、桃子そっくりの母親のキミエ。
「これは預かっておく。最初からそう言えばいいものを」
ふんぞり返りながら偉そうに警備員が吐き捨てる。ああ悪かったな、言わなくて。おれだって今の今まで知らなかったんだ、キミエにレッスンを受けることになってたなんて!
もちろんこれは、胸の内にしまい込んだ心の声。殊勝に頭を下げて、一樹はキミエの後を付いていきながら学院内に入っていった。
「来るなら来ると言ってくれれば、いつだって歓迎するのに」
穏やかにキミエが声を掛ける。ありがとうございますとだけどうにか答え、一樹は口をつぐんだ。
外側は閉じていても、中にはやはり音があふれている。防音はしっかりしているだろうが、いくつかの開け放たれた部屋からはピアノのきらびやかな音がこぼれ出す。
「…歴史の古い学校だから、もっと年代がかかってるかと思ってた」
ついそんな言葉が出てしまう。それほど壁も庭も全てが真新しい近代的な光を放っている。
「最近建て替えられたのよ。お姉さんが通ってらした頃は、まだ古い校舎だったと思うわ」
姉はここで、みっちりとクラシックの基礎を学んだ。プロとしての演奏活動と併行しながら。
小さいときは、自分もそうなるものだと漠然と思っていた。たとえその頃は落ちこぼれだとがっかりされようとも、管楽器ならすぐに追いつくと。何の根拠もない虚勢を張った精いっぱいの自信は、病気があっけなく奪っていってしまった。
どれだけの距離があるんだろう、姉と自分との間には。病気にならなかったとしても埋まるはずのない溝。それでも努力をするスタートラインにさえ立たせてもらえなかったんだ、おれは。
「歓迎するって言ったのは嘘じゃないのよ。でも、なぜいきなり来たりしたの?」
自宅の電話は知らせておいたわよね。非難めいた色は何も無しに、キミエは薄く笑って問うた。
「…観光でも、しようかと」
ニューヨークへは今朝着いたばかりだと、訊かれるままに正直に答えた。それで最初に観光しようとしたのがジュリアード?キミエの笑顔は苦笑に変わる。
「行くところなんて思いつかなかったから」
声が沈んでいたんだろうか。彼女はもうそれ以上何も訊かず、小さなホールへと一樹を案内した。
「入り口の彼が言っていたことは本当なのよ。先週まではこのホールでのミニコンサートに自由に入れたのに。今はセキュリティの問題だと言って、事前の届け出と身分証の提出と。なかなか難しい問題ね」
平和にしか見えない穏やかな異国の街が、実は生命の安全を保障しかねる場でもあることをかいま見せる。乱射事件はあとを絶たない。不運にも巻き込まれて、あるはずだった未来を奪われた若者は、何を思ったんだろう。
あるはずだった未来。それはどんな形で断ち切られるかなんてわからない。
でも、誰もがそんな不安さえ持たずに暮らす。あるかも知れないけれど自分には関係ないと信じ切って。
おれは…あるかどうかさえわからない未来を抱えたまま日々を怯える。再発の可能性なんて誰もはっきりしたことなんて言えないのに。確率はあくまでも確率で、起こってしまえば意味なんかない。起こらなくてもそれは同じ。
なのに、いつまで見えない敵に向かって一喜一憂しなきゃならないんだろう。
才能の壁と、生きることへの壁。この音楽院を守る外壁のようにそれは高くそびえ立っている。
乗り越えることなんてできるのか。今日のキミエのように、手を引いて確実な未来へと招き入れてくれる人がいるとでも言うのか。
難しいことを考えるのは性に合わない。感じるのはただ、切ない想い。
小さなステージには、ヴァイオリンを丁寧に演奏する若い女性がいた。客席はまばらで、おそらく校内の生徒同士でこうやって聴き合うのだろう。
現実のステージに立てるのは、実際にはほんの一握りの演奏家のみ。楽器を巧みに操れる人は多くいるのに。さらにその中で、ソリストとして聴く者の心に何かを残せるとしたらそれは本当にわずかなわずかな……選ばれし者。
その娘はとても上手だった。何が違うんだろう。少なくとも彼女はジュリアードに入り、こうして人前で演奏するだけの技量を持つ。
姉と、タカハシマリコとの違いは何だろう。
ツキンとした痛みがまた走る。腕に、心に。
演奏が終わってまばらな拍手が消えると、一人また一人と客は消えていった。学内の施設だからか、そのまま座り込んだ一樹らを追い払う係員は誰も登場しなかった。
照明が消えた代わりに、窓のカーテンと扉が開け放たれる。自然光の中、静かにキミエと一樹は並んで座っていた。
「ミスター・バークレーは?」
破格のギャラという名目で治療費を負担してくれた恩人の名を問う。エリックと呼べばいいのに、とキミエが笑う。
「今頃はヨーロッパ・ツアーの最中よ。当分ニューヨークは静かね」
素晴らしいミュージシャンだと、悔しそうに言ってたわよ、あなたのことを。キミエの言葉をどう取っていいのか図りかねる。世辞を言いそうには見えない。でも、信じ切ることもできない。それに、今はあのときの演奏すら自分にはできはしない。
「離れていて不安じゃないんですか」
エリックと?笑みを含んだ声で彼女は静かに言う。最初から一緒にいる時間など少ないわ、お互いの仕事が忙しくて。付け足されたセリフに一樹は唇を噛む。
「それでも、マスターのそばじゃなくて彼を選んだんだ」
言うつもりもなかった言葉。言ってから激しく後悔したけれど、もう遅い。おれは何にそんなに苛立っているんだろう。皮肉でも何でもなく、不思議だったんだ。マスターだって穏やかで優しくて、そりゃカネもないし頼りがいもないけどさ。
それだけで、家族と住み慣れた土地を捨てられるものなんだろうかと。
「桃子さんを置いてくること、心配じゃなかったんですか」
いったん言い出した言葉は止まらない。本当は誰に言いたかったんだろう。いつだってそうだ、おれもおれの周りも。伝えるはずの相手には何も言えなくて、ぐるっと回って別の人間に思いをぶつけようとする。
「あの子は、強いから」
さらりと返されて、一樹は思わずキミエに向き直った。
「強くなんかない!!桃子さんは!!…とうこさん、は…」
寂しさを見せないように、と言いかけた一樹をキミエは止めた。あくまでも穏やかに。
「寂しくはなかったと思うの。これは私の身勝手な願望じゃなくて、あの子の本心だと思う。親だからこそわかるのかも知れないけれど」
「それが身勝手だっていう以外、何て言えばいいんだ…」
聞こえないほどの掠れた声。届かなければいい。こんな、他人の家族間へ土足でズカズカ踏み込むみたいな言葉は。
違う。それも違う。他人の家族じゃない、桃子とマスターは。ジャムズでの生活は、一樹を入れたあの三人は、あのとき確かに家族だったはずだ。
「私もあの子も神原も、寂しいという感情なんて持ち合わせてないのだもの。もともとそうかも知れないわ」
何を言われてもキミエは感情を乱さない。似ている。イヤと言うほど。
「でも、それが物足りないから…エリックの元に行ったんでしょう?」
ほとんど見知らぬ人と言っていい、目の前の女性。ぶしつけにも程がある。でも言わずにいられなかった。それこそ一樹の身勝手さからなんだろう。
ふう、と小さく息を吐くとキミエは真っ直ぐに一樹を見据えた。目元が似ている。その奥の瞳も。目を逸らさずにいるのがやっとだった。胸の方がずっと痛い。
「私はピアノが弾きたかった。クラシックを勉強したかった。誰に聴かせるでもなく、その音を追及したかった。神原は…店を続けたかった。道がたがえば一緒には居られない。神原のそばを選んだのは、桃子自身だわ」
中学生の女の子。桃子のそれを想像することなんてできないけれど、子どもにそんな重い決断をさせるなんて。努めて穏やかにゆっくり言葉を選び、一樹は問い続けた。
「私は、というよりも私も神原も、あの子を子どもだと思ったことはないわ」
一樹は目を見開いた。自由の利く右手をぎゅっと握りしめながら。
(つづく)
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