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月光値千金 ~Get Out and Get Under the Moon

#33


早朝のチャイナ・タウンには意外にも人があふれ、甲高い声までもがセットでついてきた。ほとんど眠ってなんかない。身体も重いけれど…心はもう全てが鉛に置き換わってしまったかのようで。


姉のコンサート会場からそのまま来てしまった一樹は、身を守る何一つ持ってはいなかった。薄いジャケットに、コットンのボトムズ。楽器さえあればそれでも少しは…。

そう思いながら曇ったままのニューヨークの空を見上げる。



音楽なんかやめてしまおう。


初めて、本当に初めて彼はそう思った。いつまでも見えない壁に阻まれて、勝てるはずもない闘いを強いられて、しんどい思いばかり味わうのならばやめればいい。

誰も止めない。逆だ。さっさとやめろとみんなは言っていたじゃないか。


じゃあ、おれに何ができるんだろうな。こみ上げるのは苦い思いだけ。何一つできやしないのに。

言葉もろくに話せない。頭悪いしスキルもないし、第一この腕じゃバイトもできないってのに。


音楽しかやってこなかった。それも吹くことしか知らなかった。おれからトランペットを取り上げられたら、何も残らないのだと…自分が情けなくなった。

いつかは吹けなくなると覚悟しておけよ。心のどこかで必死に呼びかける自分自身の声を、敢えて聴こうとはしなかったんだ、おれは。



英語ではない言葉に囲まれ、喧噪はどんどん酷くなる。ようやく周りを見回す余裕ができた一樹は、屋台に群がる人々の生命力に圧倒されそうになった。

異国で暮らす東洋人。彼らはどこにいても我流を押し通す。自国の文化を持ち込み、コミュニティーを作り上げる。


日本人だってやってるじゃないか。やったっていいじゃないか。でもおれがそれをすれば逃げだと非難されるんだ。

こうやって、堂々と開き直れば生きていける。英語なんて話せなくても何の問題もない。ここに紛れ込んで一生を過ごしてしまおうか。そんな思いさえ浮かんでくる。


どうやって?何の職にありつけるって言うんだろうか。彼の心がバラバラになり、考えなんてまとまらない。


もう、高橋の音楽からは逃げ出したかった。カズでいることも許されないのなら、おれはただの放浪者でいい。その日をやり過ごし、いつかその辺で動けなくなる方が似合ってる。



死にたいのか。自分に問いかける。怖いくせに。生きたくてあがいてしがみついているくせに。

死ぬ勇気だって有りもしないくせに。



血も通ってないような冷たい腕を押さえる。ただ一人立ちすくむ一樹を誰も気にさえ留めない。


時が止まる。


ざわめきは意味をなさないノイズになって、一樹の聴覚を遮断する。世界は色を失って無彩色に変わってゆく。生きている人間は自分とは全く無関係で、おれは本当にたった一人で、存在していることさえ忘れられている。


ここに立つのが姉だったら、父だったら…人は振り向くのだろうか。

クラシック音楽に一生縁のない人々は大勢いるというのに。この街では、いやどこにいたって、誰もが自分から求めなければあっという間に孤独へと墜とされていくんだ。

笑い合う人々と自分は違う。無関係の他人に人は関心を持たない。壁の一つと変わらない。生きているのに、おれは…ここでちゃんと息をしているのに。



空を見続けていた目が痛む。そっとまぶたを閉じ、泣くまいと歯を食いしばる。

ガキじゃないんだから、いい加減自分の居場所くらい作れよ。また心のどこからか声がする。弱々しい反論を試みる。作ってるんだ。だけどそれは、すぐに壊されてしまうんだ。何度も何度も何度も。みんな、取り上げられてしまうんだ。


姉がもし、ここでサラサーテを弾き出したらどうなんだろう。道行く人は足を止め、歓声を上げるだろうか。うるせえと罵声を浴びせるんだろうか。


おれのラッパは、確実に騒音だね。自虐めいた苦笑い。音の大きさじゃない。自分の音楽が輝くのは、ステージという枠があってこそということを一樹は自覚していた。聴く耳を持ち、聴こうとする者だけが興味を持ってくれる音。


高橋真理子の音は違う。たぶん…違う。今までクラシックなど何一つ知らない階層の人でさえ、彼女の音には引き込まれるだろう。そう想像するのは難しいことじゃなかった。


それが何という題名でどんなジャンルかなんてきっと関係なく、姉の音は人々を魅了する。その魅力を持つ者だけが表現者と呼ばれるんだろう。ミューズの神に愛された永遠の少女。



音楽などやらせるのではなかった。そうだね、お父様の言葉は正しいよ。おれは楽器を手にするべきじゃなかったんだ。

どうせ、こうやって取り上げられてしまうのなら。それも才能という化け物の前にどうしようもなく屈するしかないんなら。






ぼうっと突っ立っていた一樹に、不意に何かが当たった。急に方向を変えようとした中年の女性がもろにぶつかってきたようだ。


「いてっ!!」


日本語で思わず叫ぶ。夢から覚めるだなんて生やさしいもんじゃない。せっかく痛みの治まっていた左腕に酷いしびれが走り抜ける。一樹は思わずしゃがみ込んでしまった。

頭の上からはギャンギャン吠え立てるような女性の声。意味もわからないけれど、大げさなと怒っているのだろう。


「ケガして…るん…だ。ホント…に…」


言葉が続かない。その様子を見ていた女性はわざとじゃない、と片言の英語でまくし立てる。

わかってるよ、ぼけっと立ってたおれが悪いことくらい。けど、立ち上がることだってできやしない。


騒ぎを聞きつけた辺りの住人どもが集まってくる。見せ物じゃない!野次馬は来るな!怒鳴りたかったのにその元気さえ出ない。


ぶつかってしまった不運な当の彼女は、おろおろとし始めた。周りが今度は彼女を責め立てていると言うんだろうか。一樹には訛りのきつい英語も中国語もわからない。


何を思ったのか、彼女は一つの屋台へ向かっていくと、並んでいた他の連中をかき分けて大声を出し始めた。一樹ですら、痛みでしかめた目で思わずそちらを向く。


交渉は成立したらしい。急いで戻ってきた彼女の手には湯気の立つポーク・バン。それを座り込んだ一樹の目の前に差し出す。

押さえた手なんて離せない。美味そうなニオイに腹は正直に鳴るけれど、痛いものは痛いんだ!

どうやら状況を見てとった彼女は、やおらそのバンズを一樹の口へと押しつけた。


はあ!?これを食えってか?この状態で!?

よくよく考えたら、コンサート前から何も口にしていない。ヤケになってかぶりつく。


「なんだこれ…うめえ」


隣に座り込んでくれたくだんの女性は、ほらこぼすなだとか慌てるなとか、熱いから気をつけろだとか、ゆっくりとした発音で話しかけながら手を添え続けた。


…これじゃまるっきり、餌付けされてる野良犬だ…


自分のふがいなさに笑えてくる。開き直って丸ごと平らげた。何が入っていようが、ここでぶっ倒れて身ぐるみはがされようが構うもんか。


だが、運良くその女性も飲み物をくれたオヤジも善意で接してくれ、がっつく一樹を微笑ましそうに見守っていた。周りの見物人らにも笑顔が広がる。


「シェラー」


片言でありがとうと言ってみる。満面の笑みを浮かべ、彼女も近くの人らもまた大声で何やら騒ぎ始める。

だから、中国語なんて知らねえよ。仕方なくこちらも笑うしかない。


ほんの少し壁に触れさえすれば、こうやってあっけなく崩壊するのに。例えそれがひとときの通りすがりの優しさだとしてももらえるのに。一番近いはずの家族とは、どうしてそれができないんだろうね。


照れ笑いを浮かべながら一樹は立ち上がった。温かさは身も心も満たしてくれる。ほんの少しでいいのに…ね。


ちゃんとした発音を丁寧に教わりながら、何度も「ありがとう」を繰り返した。わずかながら街が色を取り戻す。

ぶつかったお詫びだと、彼女は一ドルもしないポーク・バンをおごってくれた。温かなお茶はおまけらしい。

それよりも、もっと温かさをもらえた気がした。


「グー!」


ちょっとお兄さん!のような呼びかけなんだろうか。歩き出した一樹が振り向くと、彼女は持っていたタオルで一樹の口元をぬぐった。


「OK、オニサンイイオトコ」


そこだけは日本語かよ。苦笑いしつつシェラーともう一度伝える。彼女も微笑みながら、その発音でいいとばかりに深く頷く。

ボストンから逃げるように来てしまったニューヨークの街並みを、一樹はあてもなく歩き出した。






せっかくならお上りさんよろしく観光をしてやろう。適当にバスを乗り継ぎ、セントラルパークを目指す。その程度の知識しかない。そもそもボストンへ留学したとはいえ、他の都市を観光する暇さえなかったんだから。


他の家族は皆、ずっと以前から世界を駆け回る生活をしているっていうのに。苦い思いを無理やり抑え込む。



だだっ広い公園というよりは、ちょっとした森の緑を見るとはなしに見る。その眩しさが自分には似合わない気がして、目を細める。

腰を下ろせるようなベンチがあるんだろうか。そもそもここへ来て、何をすればいいのだろうか。


ちょっとした壁により掛かり、手に入れたばかりの市内案内図に目をやる。マンハッタンは広いとは言えないかも知れないが、目的も無しに歩き回る街でもない。こんな健康的に明るい時間からライブハウスは開いてなんかいない。



どこへ行っても、居場所なんかないのだろうか。朝のささやかな幸福の効き目が切れていきそうで、一樹は小さくため息をついた。


誰も知らないところに行きたい。けれどそれは同時に、本当に孤独なのだという事実を受け入れること。新しい人間関係を作って行くには、自分には何一つ力なんかない。それを思い知らされること。


街には人が溢れているのに、たった一人。音さえあればおれはいつだって居場所を作ってこられた。その大切な武器さえ今はない。



トランペット。



手放したらもう二度と自分には戻っては来ないのだろうか。しんどさを振り切るように地図を見やる。





ふと、ある英文に目を留めた。The Juilliard School…ここからは近いのか。

車を拾うかバス路線を探すか、歩くか。眩しすぎるセントラルパークに背を向けて、一樹は再び歩き始めた。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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