たった二人で ~Alone Together
#32
合い鍵は渡してある。ベッドサイドで立ち上がることもせずに座り込んだままの一樹は、かなり乱暴に開けられたドアの音で目を覚ました。
いつの間にかうとうととしていたらしい。身体が重い。何もかもがずしりと重い。
「カズ!!」
飛び込んできた梨香の顔を、小動物のような目で見上げる。捨てられた子犬…何も言えない。
「ちょっと!どこが痛むの!?ショック症状起こしてないでしょうね、顔色が」
梨香がてきぱきと触診をしようとするのを、右手で抑える。大丈夫だからと。
「何が大丈夫よ!!あんな心細そうな声で電話してきて!!」
何度も口を開きかけた。言葉を紡ごうとした。けれどどれも上手くいかなくて、一樹はただ梨香の肩に顔を押しつけた。痛みをかばい続けていた右手をそっと離し、彼女の首筋へとまわす。
「…カズ」
黙ったまま、頬をつけて体温を感じる。顔へも唇へも近づこうとせず、ただただ…泣くまいとこらえていた。
身体の疼きをあえて無視した。欲しいものはそれじゃない。息が荒いのは嗚咽を必死に抑えていたから。一樹が梨香をいだく手に力がこもる。
彼女は、そうっと一樹の頭を抱え込むと自分の喉元へと抱き寄せた。彼のつむられていたまぶたがわずかに開く。
「ねえ」
彼女らしくもない慈しむような声。
「一樹は誰から愛されたいの?」
壊れ物に触れるかのような、柔らかなその言葉に…一樹は視線をそらせて問い返した。
「梨香は……誰を愛したいの?」
その答えはきっと、お互い目の前にいる相手じゃない。知っていてもなお、二人はそのままでいた。
ベッドマットの端に身体をくっつけ、何も言わずにじっと時が過ぎるのを待つ。痛みが治まるまで。それは身体の痛みじゃない。心の奥の癒えない傷が、いっとき痛みを忘れるまで。
一樹は梨香の胸元に顔を寄せる。ただ、それだけ。さっきよりもっと直に温かさを感じたかったから。梨香もまた、抱えていた頭から背中へと手をまわし、包み込むように一樹を抱きしめた。
辺りが暗くなり、夜が来てもまだ、二人は動けずに身を寄せ合っていた。
床で眠り込んでしまった長身の男をベッドに持ち上げて寝かせるだけの優しさは、梨香が持ち合わせているはずもなかった。硬いフロアのせいで背中までもが痛む。
「つう」
飲んでもいないのに頭がずきずきする。メガネだけは外してくれたようだ。顔を押さえる一樹の手のひらに、わずかに感じるザラリとした涙の跡。
泣くのだけは避けたかったのに。ざまあないな。
とうに朝になっていて、部屋には独り残されていた。ただ本当にいだかれて眠っただけ、か。彼女は誰を想って、おれを抱きしめ続けたんだろう。
髪をかき上げながらテーブルに目をやると、何かが置いてある。優しさの含まれたメッセージでも残っているのか、冷静で合理的な彼女にしたら珍しい。
「……」
実際に置かれたテーブルの上のものを見て、一樹は押し黙った。次回のペインセンターの予約票と、しまい込んでおいた痛み止め。直筆のメモ一つありはしない。
苦笑いで下を向く。ああそうだね、ホントにこの方が梨香らしいね。
昨夜よりずっと、痛みは和らいでいた。それでも薬を口に投げ入れ、ミネラルウォーターで流し込む。人の親切は素直に受け取るべきだ。特に元担当医の指示ともあれば。
そう広くもないテーブルの端には、ビジネスライクな封筒までもが置かれていた。これも梨香?そっと手に取った一樹は、そうだった、と思わずため息をついた。
不自由な片手でわざわざ中を開けなくてもわかる。すっかり思い出した。これは「どうせステージの準備で行けないから」と断るはずだった、姉のコンサートチケット。
ステージなんか、もうない。おれにはこれに行かないで済む理由なんか一つもなくなった。
ボストンシティフィルとの共演。指揮者は新進気鋭のパク・ヒョンウが務める。演目は…。聞いてもどうせすぐ忘れる。一瞬でも顔を出せば義理は果たせるだろう。
姉ちゃんも、あれだけムリな格好をしてまでウォーリーズへと来てくれたのだから。
……おれのラストステージに。
口の中が苦いのは、今飲んだ薬のせい。胸がざわつくのは他に何も口にしていなかったせい。
花を買っていかなきゃならないんだろうか。カード?そんなもの要らない。封筒を乱暴にテーブルへと投げ出すと、一樹はもう一度髪をかき上げた。
ボストンシティフィルは自前のホールを持っている。歴史を感じさせるそのホームグラウンドには、すでに多くの客らがロビーに溢れていた。
あの波がおさまったらにしよう。知った顔がいないとも限らない。
少し離れたスタンドで、一樹はぼうっと人の流れを見るとはなしに眺める。花は買わなかった。観に来たことを知られるのもシャクだ。そもそも、姉の演奏をコンサートホールで聴くなんて、いったい何年ぶりになるだろうか。
ヴァイオリンの天才少女、という名を欲しいままにしてきた彼女は、それに驕ることも鼻に掛けることもなく、淡々と演奏活動を続けていた。高まる評価をも気にすることなく。
…てかあれは、ただのド天然で自分の凄さもわかってないだけだ…
周りに気づかれないくらいの小さなため息。競争したい訳じゃない。見下したりもしない。ただ好きな楽器をずっと弾き続けていたら、それはいつしか名指揮者たちがこぞって指名するほどの世界で通用する奏者になっていたというだけ。
欲すらもない。ホントに頭に来る。肩に軽く掛けただけのジャケットを引っ張り直し、一樹はゆっくりとホールのロビーへと向かった。
受付で客席の変更を申し出る。招待券に書かれた席は当然ながらファースト・シート。それを出入り口付近の末席へと変えろというのだから、受付の女性は困惑顔を隠そうとはしなかった。
「Do you speak English?」
丁寧だが、あきらかにこのチケットの価値もわからないのかという顔で訊かれる。おれみたいなろくすっぽ英語も読めなそうな東洋人が実はソリストの弟だと伝えたら、事務的に仕事をこなしているだけの係員はどんな顔をするんだろう。
ほんの少しだけ口元を歪めて、一樹は「体調がすぐれないので、すぐ退席できる場所へ」とだけ告げた。ようやく納得したのか、彼女が端末を操作してさっと席を変えてくれる。このプレミアチケットは、運の良いキャンセル待ち客へと渡るんだろう。一目でもマリコタカハシの演奏を見たいというクラシックファンへと。
ホール内はほぼ客は席に着いていて、オケの連中までもがスタンバイを始めていた。天井はそう高くはないが、なんて広い会場だろう。狭くてタバコの煙だらけのライブハウスとは違う。ましてや、東京の片隅にある小さなバーとは比べものにならない。
ここの客席を埋めるのは、マリコタカハシの実力。彼女のアパショナート(熱情的)な演奏を好むクラシック愛好家は多い。いや、好むなんて言葉じゃ足りない。惹きつけられ、とりつかれる。目が離せなくなる。
少女のような愛らしい童顔と小柄な体躯からは想像できないくらいの、激しさ。
ずるい、とまで一樹は思う。姉ちゃんは何も計算なんかしてないし、できない。けれどそのギャップは、一種の相乗作用まで生み出す。まあ、元の凄さが凄さなんだけどさ。
パンフレットもいわゆるフライヤーも受け取らなかった。周りの客のざわめきが既に音楽を奏でている。それに身を委ねて。
クラシック・コンサート。それさえ久しぶりに聴く。ジャズライブとは全く違う空間がそこにはある。
華やかなパステルカラーのドレスをまとったマリコが、韓国の若き指揮者・パクに手を引かれて登場すると、拍手が一斉にわき起こった。気の早い客は席を立つ者さえいる。スタンディングのライブでも始める気か?ふっと笑うと、一樹はクセになったかのように左腕を押さえた。
素晴らしき才能に敬意を表して。そして、このボストンへお帰りという歓迎の意を込めて。
胸の前へ楽器を掲げた姉は、一度客席を見渡すとにっこりと微笑んでみせた。
ズキッとした痛みが走る。一樹は思わず顔をしかめた。子どもが拗ねている訳じゃない。一曲くらい付き合って聴いてやってもいい。彼の強がりはけれど、増す痛みに打ち消されそうになってゆく。
いいから何でも早く始まれ!見当違いの八つ当たりでステージを睨む。
広い。そして…なんて遠い。姉が、あまりにも遠い。同じ高橋の家に生まれた姉弟。音楽の道を選び、楽器を演奏し、でもその違いはあまりにも大きくて。
…そうして、一生おまえは高橋真理子と比べ続けられるのか。それでも耐えられるというのか…
不意に思い出される父親の言葉。演奏の質はステージの大きさで決まるもんじゃない!!
そんな一樹の悲痛な心の叫びは、オーケストラのトゥッティと直後の荒々しいほどのヴァイオリンの音色にかき消された。
サラサーテの『カルメン幻想曲』。最初の太く低い弦の音がこの場を支配する。豊かな響きは高音部へと駆け上がり、そのままマリコは自在に音を操り舞い続ける。複数の弦が紡ぎ出す重なりは、時に絶望を時に祈りを思わせるように人々へと伝えられる。
細い身体のどこからこんな音が出せるのか。違う。そんなささいなことじゃない。ステージの姉は…おれの知るどの姉とも違う。
アパショナートな音を奏で続けるヴァルネリ。一樹の意識がかすみ出す。
もういい…。もう十分だ。あんたには一生勝てっこないよ。それで……いいよ。
腕の痛みが増してゆく。目を開けているのも辛い。逃げ帰るのか、ここから。おれは一生、姉からも父からも音楽からも逃げ回るのか。
客席は暗く、誰もが演奏に夢中になっていることが幸いして、一樹の異変に気づく者はいなかった。彼は耐えきれずにそっと席を立つと、扉へと向かう。姉に背を向けて。
咎めるような係員の視線は、苦痛にゆがむ一樹の顔を見るなり驚きと焦りに変わった。音を立てぬようにドアを開けると、彼を支えるようにしてロビーへと付き添ってくれた。
「… thank…… you, so much…」
それだけを絞り出して言うと、一樹は唇を噛んで全てをこらえる。かの受付嬢が車を回すからと彼を促す。
立つだけの気力も彼にはなかった。ロビーにいたってイヤでも聴こえてくる、姉の激しい音と澄み渡る繊細な旋律。その表現力に息を飲む客の様子までありありと浮かぶように思える。
勝てない、勝てない!勝てる訳ない!!
やっとの思いでタクシーへと乗り込んだ一樹は、姉の部屋ではなくチャイナ・バスの停留所へ行くよう運転手へと告げた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2011 keikitagawa All Rights Reserved