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やさしく歌って ~Killing Me Softly with His Song

#31


一樹は借りている姉の部屋で時計だけを見つめていた。


病院の予約は十時、そして聡子の帰国を見送るタイムリミットも……十時。

どちらを選べばいいのか、どちらを選んだら自分はこれから先、生きてゆけるのか。何度自分に問いかけても答えの出ないこと。



フィリスは淡々と、契約解除を告げた。身体を治してからまたオーディションしてやると、そっと付け加えられる。みっともなくあがき、次のステージは完璧に仕上げると叫ぶ一樹に、向けられるのは寂しげな視線。


「ビジネスの話をしよう。客はカネを払って演奏を聴きに来る。非日常という空間を味わいに来る。ここには他国からの観光客も多い。彼らに…次はない。質を落とした演奏を聴かせる訳にはいかんよ」


次がないのは、自分も同じ。いつまで吹けるのか。そもそもこの痛みからいつ解放されるのか。だからこそしがみつきたかった場所だった。


「…質は落としてない!」


ミスの回数をここで数えさせるつもりか?あくまでもシビアな経営者という役どころを、フィリスは演じることに決めたようだった。一樹があきらめて荷物をまとめて逃げ帰るまで。



大学でも吹く場所はない。おれはただ五線紙かパソコンのディスプレイに向かい、過去の名曲をなぞった習作ばかりを書き殴る。コウイチロウの息子は、作曲の才能を受け継いではいないようだと周りが認識するまでにそう時間は掛からなかった。

おれはただ、トランペットというおもちゃで遊んでいたかっただけなのに。



聡子は一度も責めなかった。花束に挟まれたカードには「真理子が感激していました」と他人事のようなメッセージが残されていただけ。

君はどう感じたんだろう。それを訊かないまま何も触れ合わないまま、おれたちは終わるのか。





もう動かないと、どちらにも間に合わない。それだっていい。誰からも必要とされないおれは、ここでこうしてうずくまっていればいい。

アナログウォッチの針の音が、神経を刺す。責め立てるんだ、おれを。動け動けと言い続けるんだ。どこからも燃料補給のないまま、全てのエネルギーが枯渇するまで走っていればいいのだと。そのうち、行き倒れるだろう。そうしろとみな、望んでいるんだ。


一樹は決めかねたままでゆっくりと立ち上がると、左腕に触らないようにジャケットを羽織った。









ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港から日本への直行便はない。姉と戸田は演奏会の準備の為に残り、聡子だけが帰ると聞かされていた。海外の経験も多い彼女なら困ることもないだろう。姉がコンサートへ向けて練習に没頭し始めれば、どのみち周りは放って置かれるのだから。


この空港に初めて降り立った日は、まだそう遠くない過去。もしここで彼女と一緒に帰国すれば、日本で穏やかな生活が送れる。それはわかってはいた。ただ、透明な檻が自分を閉じこめるだけ。何もせず何もできず、もう二度と細々としたスタジオやサポートの仕事さえさせてもらえず、時間だけを消費するだけの生活だとしても。



姉は言う。あなたもお父様も不器用なだけよ、と。愛情が見えないだけ、見ようとしないだけ。それはお母様も同じ。


家族なんだから、本音で話してみればいいのよ。


屈託のない素直で眩しすぎる真理子の言葉は、どれだけ一樹の心を抉れば気が済むのだろう。家族からの愛が本物なら、それを受け取れない自分こそが悪いってことなのに…彼女には永遠にわからないだろうね。



空港への道路が思いのほか渋滞していて、見送り客が入れる最終エリアへと一樹がたどり着けたときには息が切れていた。ジャケットの下の腕が重い。


「聡子さん!」


大声ではなかったと思う。けれども彼女は静かに振り向いた。あわてたり動揺したり、そういう姿を見せることなんてあるんだろうか。いつでも穏やかに微笑むだけの彼女に。

少しだけ目を見開いて驚きを表したのは、聡子にとっても一樹がここへ来ることは想定外だったんだろうか。ゲートへ向かう時刻にはまだ間があるはずだ。立って会話する程度の余裕だけは。


それでも一樹は口を開くことができなかった。謝ればいいのか、自分から別れを告げればいいのか、考えあぐねてどうしたらいいかわからなくなっていたから。

そんな彼を、柔らかい瞳で見つめる聡子は「来てくれてありがとう」と微笑んだ。


「いやあの、ほら逆にこっちこそ…聴きに来てくれてお礼も言えなくて…」


もうあの場所で演奏することもないのに、小さなプライドがそれを言えずにいた。

この人の前では自分は無力な子ども。わざと視線を外す。



「…どうして怒鳴らないのさ。姉ちゃんみたいに殴ればいいのに」


一樹が言うにはあまりにも筋違いの、ふてくされた文句にさえ、笑顔を向けるふわりとした気配を感じた。


「真理子って案外、力があるから、痛かったでしょ。バイオリニストは鍛えてるものよ」


何でここで普通の会話が成立するのかがわからない。今までの元カノたちは逆ギレして一樹を責め立てたのに。それで…ある意味ホッとして痛みを再確認していたのに。その儀式さえさせてもらえない。宙に浮いた自責感を、どうしてくれるんだ。



思い切って彼女の顔を見つめる。きっと泣きそうな顔をしてたんだろう、おれは。一樹は自分の幼さに辟易した。彼女には聡子にはかなわない。いつでもいつまでも。


「謝る気なんかない。日本にも帰らない。見捨てるんだったら、今この場ではっきりさせてよ」


確かに捉えたはずの視線は、今度は聡子の方でかわされた。わずかに横へと意識をただよわせてから、慈しむように一樹を見つめ返す。



「信じているから、私は。それが重いのなら言ってね。ただ、私ができるのは日本であなたを待っているだけ。それが恋人としてでも大切な友人としてでもいい。心からあなたを心配している私がいることを、憶えていてもらえたら嬉しい」


ゆっくりとしたいらえ。さりげなくよどみなく紡がれる温かな言葉。



…信じているから…



それを聞いた途端、一樹は後ろを向いて右手で顔を覆った。こみ上げてくる吐き気を必死に抑える。


違う!おれが欲しいのはそんな言葉じゃない!!そんな、そんなキレイな言葉なんか要らない!!


何か声を掛けられた気がした。名前を呼ばれたんだろうか。でも、いたたまれなくなった一樹は振り返ることなくその場を離れた。


勝てない!眩しさに!!温かな感情になんか、どうやったって勝てやしない!!


そのままロビーを駆け抜け、エスカレーターを横目に階段を一段とばしで必死に走り降り、多くの搭乗客らにぶつかりながらタクシー乗り場に向かう。



どうして!?どうして、どう…し…て。何で聡子はおれを責めない?罵倒されることを半ば期待しながらこちらを選んだのに、思いがけない言葉を返されておれはどうしたらいいんだ!?



吐き気は止まらない。全身の震えも。なじみになった痛みは、今はそれを感じる暇さえなく。

今からペインセンターへかけ込めば、治療してくれるんだろうか。予約時間にだけはシビアなアメリカの病院が、それをしてくれるとも思えない。キャンセルはキャンセル。それも最低なドタキャン。もう診てもらえないかも知れない。それでいい。どうにでもなってしまえ。


車内で一言もしゃべらず、顔を覆い続けた。息が吸えない。もっともっとたっぷり吸わないと、ワンフレーズ持たないよ。







姉の部屋に戻り、ドアを乱暴に閉める。ベッドに倒れこんで携帯を開ける。ためらうことなく一つの番号を選び出す。


出てはくれないだろう。それでももし、タイミングが合えば。かけらほどの期待はつながってしまったときの動揺を呼び込んだ。


「カズ!?カズでしょう?あんた、診察すっぽかしったってこっちに問い合わせが!!ちょっと、もしもし!?」


日本語…。乱暴できつい口調で叱られて、戸惑いは安堵へと変わる。


「…ねえ、今すぐ来てよ。今じゃなきゃダメなんだ。お願いだから部屋に来て。いつまでも……待ってる」


信じて待っている人は別にいる。なのにそれが辛い。待っていてもらったことなんかないから。いつでもおれは、文字通り捨てられた子犬のように、気まぐれな誰かが拾ってくれるのを待つだけだったから。


電話の向こうで大きなため息が聞こえる。忙しいのはわかってる。その前におれの願いを聞き入れる義理も理由も、あちらには何一つないのに。


それでも…彼女は…あと二時間待てと言った。


「何とかケリをつけてそっち行くから!センターの方、あたしが勝手に予約入れておくわよ!?それでいい!?」


強引に怒鳴られ、一樹は素直に「お願い」と呟く。来てくれるのなら何でもする。一人でいるには辛すぎる。



切れた携帯電話をぎゅっと握りしめ、一樹は梨香を待ち続けた。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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