想い出はいつも真夜中に ~'Round midnight
#30
夜の暗さは優しい。
どんなに孤独を感じていても、夜どおし騒ぐ店に行けば人と繋がれる。それがたとえ…うたかたの夢であっても。
この時間がずっと続けばいい。ライブが始まるまでの喧噪の中、いつも一樹の胸に宿る想い。
今日はこの音から攻めてやろうか、どんな色で飾り立ててやろうか。想いは言葉ではなく音色となって彼の頭に鳴り響く。もっとも演奏が始まれば何も関係なく、その場の激しい音楽のやり取りが繰り広げられるばかりなんだけど。
彼は最近、左腕の肩近くにラバーを巻くようになった。ある程度なら腕は持ち上がる、だったらそこにすべらないように楽器を固定すればいい。
セッティングを免除してもらい、手持ち無沙汰の一樹はバズィングをしながら客席を見やる。
後方のやや高めの席が、実は内緒のVIP席。内緒とは言いながら常連は誰でも知っていることだ。今夜はそこへ置かれたメニューに、一樹のネームカードが差してある。
ちらりと視線を向けると、キャップとサングラスで顔を隠し、着慣れぬTシャツにダメージデニム姿の姉が心地悪そうに座っていた。
…あの姉ちゃんが、またムリしちゃって…
自分から頼んでおきながら、一樹は忍び笑いをもらす。姉の真理子が聴きに来ていることはフィリスにしか伝えてない。他の客にばれたら「ボストンでもっとも愛されている日本人の一人」の彼女のことだ、放っては置かれないだろう。
そして…おれの演奏も差っ引かれるんだ。何度となく繰り返されてきたこと。
わずかな笑顔は苦痛に耐える表情へと変わった。楽器をスタンドに乱暴に差し込むと、黙ったまま左腕を押さえる。
痛むはずがない、傷も骨折も完治している。医師から告げられ、治療の場はペインセンターへと変わった。痛みの原因はわからなくても、実際に感じているのなら治療は必要だ、と。アメリカらしい合理的な考えなんだろうね。
明日にはその、新しい科へ行かなきゃならない。気が重い。逃げ出せるなら逃げ出したい。
けれどその前に、おれは一つの感情を手放すんだ。
聡子への依存という感情を。
そこまで思って、真逆だそれ、と一樹は唇を噛んだ。おれが手放すんじゃない、こっちが見放されるのだという事実を受け止めようとする。
責める言葉一つある訳でもなく、聡子は「演奏が聴きたい」と言った。意図なんかわからない。仕事が決まったときに知らせたいと思った自分の感情は本物だった。そう信じたかった。けれど、結局彼女にはきちんと伝えられぬまま。穏やかに微笑む聡子にはかなわない、そんな気がしてならないから。
姉と戸田の間に挟まれるように、静かに座っているはずの聡子に、一樹はとうとう目を向けることができなかった。
彼女…恋人。それはどういうものなんだろう。付き合う意味って何だろう。誰かと付き合わずにいたときなどほとんど無いくせに、実のところ一樹にはわからなかった。
一番大切なことさえ、口にしない方がいいと思える相手。
見捨てられることには慣れている。また…携帯のアドレス帳から一つ登録情報が消えるだけ。
「呑気そうにしてるけど、スタンバイできてるんでしょうね!?」
不意に声を掛けられ、びくっと彼は振り向いた。
ピアノのシンシアが険しい顔で一樹を睨んでいる。なぜだか彼はひどくあわてた。
「なんで?何で急に?準備ならもうとっくにできてるよ。今すぐにカウント出してもらったって…」
「…なら、いいわよ!」
靴音も高くステージへと向かってゆく彼女に、なんだあれ、と呟く。ベースもドラムも一樹の顔を一瞥すると、複雑な表情を浮かべた。
「何?みんなして…何かあったの?」
真理子のことがばれたのでは、と内心ひやりとしながら問いかける。いつも明るいドラムのザックが、珍しく真剣な顔で一樹の頭に手をやる。日本では長身の彼も、ここでは見下げられることさえある。ザックはそのまま、彼のさらさらな髪をぐしゃりと掴んだ。
「大丈夫なのか、おまえ」
「だから…何が?」
「いつんなったら、その…」
後半の言葉を言い終わらないうちに、ステージマネージャーから声が掛かる。早く出ろとの合図だ。ザックはため息をつき、軽く一樹の頭をこづいてからドラムセットへと向かっていった。
一樹たちの、正確にはシンシアグループが登場すると客席は一斉に沸いた。みな、このバンドの若さゆえの勢いと新しい響きを知っているからだ。
複雑なメロディをさらりと聴かせてしまうオリジナルは、そのほとんどをシンシアが手がける。そしてスタンダードに斬新な解釈を試みようとするのは…トランペッターのカズだ。
リズム隊がテンションコードを多くひっつけた循環のパターンを鳴らす。カズはゆっくりとセンターに備えられたマイクへと向かう。振りがある訳でもない、正統派のジャズをやる老舗の店には、スタンド付きのマイクがお似合いだ。クリップオンマイクではなく。
一樹は息を整えると自分の愛器を構えた。ずっと使い続けている特注のバック。銀色のベルが照明を反射して目に眩しい。
身体を右にかたむけ、左腕をねじった状態で楽器を固定する。常連客には見慣れた光景だが、あのテーブルの客らは…驚くだろう。
それでもおれは吹く。何があろうとも楽器を手放さない。他に望みなんかない。カズの準備が整ったのを見てとると、ザックは引っかけのフィルインを入れた。
live for the moment ~今を生きる…シンシアのオリジナルが激しく鳴り出す。まるで本当にこの瞬間を生ききるかのように。
キーボーティストの書くメロディは、B♭管のラッパの指遣いなんぞに配慮してくれやしない。一樹のフィンガリングは、右の親指と小指だけで楽器を構えているとは思えないほどの速さで、軽々と正確に音を捉えてゆく。
曲芸のようだと桃子に揶揄された、あの日の出逢いを思い出す。ああそうだろう、客の中に音楽など聴いたこともない観光客がいたとすれば、一樹の指から目を離せないだろう。
頼むから音を聴いてくれ!おれを気の毒そうな顔で見ないでくれ!
そして…形ばかり落とした客席の照明は、リザーブシートを隠しきることはできずにいた。いやでも見てしまう……聡子の表情に一樹の思いは揺れた。
祈るように手を組み、息を止めているのか動くこともしない。
これが見たかったのか。おれの音ではなく、しがみつくように音楽から離れられない無様な姿を。
被害妄想的な自分の言葉に傷つく。それはたぶんに勝手な自虐にすぎないのに。
彼の腕がわずかにぶれた。ヒヤリとしたのはおそらく、一樹本人とメンバーと、おれを責める三人だけ。
責めるなら姉のようにその場で殴ってくれればよかったのに。泣き喚いておれを罵ってくれればよかったんだ。最低なヤツと、その場で切り捨ててくれよ。こんなふうに晒し者にされたおれを、哀れむように見るのが一番効果的な罰の与え方なのか!?
一樹は意地になって体勢を立て直すと、一気に技巧的なアドリブを吹き始めた。主題よりもっと難解で、ピストンが戻る前に次の音を鳴らそうとするほどの速さで。そのまま高音域に駆け上がる。歓声は大きくなり、立ち上がる客さえ出始めた。
ハイトーンは全身の力を要する。痛みを通り越して痺れた腕は、もう感覚も消えた。
おれはどこへ行こうとしているんだろう。
何とか自分のパートを吹き終わると、もぎ取るように楽器をスタンドに放り込む。客にできるだけ見えないようにと、ドラムの横で後ろを向きながら腕を抱える。顔をしかめて必死に耐える一樹に、上から注がれるザックの視線。
……いつんなったら、いつになったら。彼はその先になんて言葉をつなげたかったんだろう。さっとよぎる思考をぶった切って、一樹は楽器を構え直した。
メロに戻るんだ。おれも吹くんだから。息を吸った彼はしかし、その主題に入り損ねた。ブレスの場所さえ探せない複雑きわまりない旋律のどこにも、途中から入り込める隙はない。
主旋律を奏でるのはピアノのみ。とっさにシンシアはテンポをぐっと落とした。他のリズム隊もすぐさま応じる。まるで最初から計算されていたかのようにルバートに持って行くと、アイコンタクトを取ろうとする。
冷や汗で楽器を押さえるのがやっとの一樹は、ようやく目の端でそれを感じると大きくラッパを振った。いつもはすぱっと断ち切られる形で迎えるはずのエンディングに、トランペットのカデンツァが付け加えられ、ドラムの細かなシンバルが静かに曲を閉じた。
聴き慣れた客には逆に新鮮に、初めて聴いた者にはこういう形なのだろうと思わせる自然なラスト。
しかし、一樹の異変にメンバーとスタッフらは瞬時に気づいた。
懸命に息を整えると、だが彼はにこやかに楽器を振り、客に向かってシンシアの曲であることを話し始め、いかにそれが管楽器にとって過酷かをこぼし、片言の英語で笑いを誘うように場を盛り上げた。
おれは変わらない。いつもと同じように吹ける。必死にアピールするかのように。
彼が話している途中で、ピアノがイントロを弾き出す。セットリストでは確か、ドナ・リーをアップテンポでやるはずだった。しかし、聴こえてきたのはスローバラード。一樹は仕方なく、その甘ったるいメロディを出しやすい中間音域でゆったりと吹き出した。
『マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ』誰を想って吹けばいいのか。
テーマを吹き終わると彼は、そっと楽器を下ろした。この曲にはピアノが似合う。あとをシンシアに任せて、メンバーらも皆その音に酔う。
今夜のステージも悪くない出来だった。客観的に見てもそう思える。一樹はただの演奏者として冷静に評価しようとした。だが、アンコールに応えてからステージ袖に引っ込む頃には、もう…一人で立っていることさえできなかった。壁にもたれ息を荒げる。
真理子も戸田も、聡子もラスト曲の前には席を立っていた。おそらくは終演後にマリコと気づかれて混乱を招かないようにとの戸田の配慮。
よかった、と彼らに感謝する。これで楽屋にでも寄られたら知られてしまう、この状態を。
抑えても抑えても、痛みをこらえることができない。とうとう狭い通路に座り込み、歯を食いしばる。
見かねたザックが声を掛けるより早く、シンシアが冷たく言い放つ。
「最低よ、カズ!体調管理も…プロの仕事のうちだわ!!」
おい待てよ!シンシア!!ザックは焦って彼女の背中に呼びかけるが反応はない。
一度も振り返らず、彼女は足音を立てて楽屋へと向かう。その言葉が一樹の胸を抉る。陽気なザックの顔が曇り、どう言葉を掛けようかと言いあぐねていた。
「シンシアの言うことは正しい。今日のステージはおれのせいで」
「そうじゃないんだよ、カズ。あいつは、シンシアは悔しくて仕方がないんだ。わかってやってくれ」
意味を取りかねて、一樹は顔を上げる。ザックは何が言いたいのか、おれのヒヤリングが悪いのか、何度も何度も受け取り損ねる彼の言葉。
「彼女もおれたちも、あんたと同じステージがやりたい。続けたい。それだけは本当の気持ちだ、わかってくれるよな?」
身振り手振りで、ザックも何とか一樹に伝えようとしている思いが上っ面をすべってゆく。痛みが、言葉を捉えようとする意識を遠のかせる。
「骨はくっついたんだろ?その腕はすぐに動くんだよな?だから大丈夫だと、おれたちは信じていていいんだよな」
なおも言いかけるザックの肩に、大きな手が置かれた。オーナーのフィリスだった。
「フィリス、今日は…」
か細い声でようやく絞り出した一樹の言葉は、フィリスにさえぎられた。
「君の招待客は無事に帰ったよ。よろしく伝えてくれとのことだ。メッセージカードと花を預かっている。あとで渡す…話が終わったらな」
は…なし…?一樹のげげんそうな顔を見てとったのだろう、フィリスは静かに言い添えた。
「別の部屋で話そう。これからのことを」
一樹は身を硬くして、痛む腕をさらに抱え込むように押さえ続けた。
(つづく)
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