残されし恋には ~I Wish You Love
#3
「おれは姉ちゃんと違う。まともに演奏できる実力も才能もない。わかってるんだ、そんなこと」
言うともなしにつぶやく。卑下するわけでもなく、自暴自棄になっているわけでもなく。
それは単に純然たる事実として、一樹の前に立ちはだかっていた。
比べることじゃない。確かにそうだろう。けれど父親の言うとおり、彼は一生言われ続けなければならないのだ。
「孝一郎の息子、そして高橋真理子の弟」と。
音楽という隔離された空間にいる限り、おれはこの呪縛からは逃れられない。日本などイヤだ。誰もおれを知らぬところに行きたい。いやそうじゃない、おれと彼らとの関係を知らぬところに。
黙ったままうつむく一樹に、真理子は優しげに言葉を紡いだ。ほんの少しいたずらめいて笑う。
「私ね、ジュリアード(アメリカにある音楽院)にいたとき、ずいぶんアンサンブルの先生に嘆かれたわ。マリコは絶対にオーケストラのヴァイオリン・パートには受からないわねえって」
ふんわりとした笑顔はそのままだ。一樹はなかば呆れて彼女を見返した。…姉ちゃんをオケに入れようなんて無謀なこと、誰がするかよ。
「あら、憧れだったのよ?ボストンシティフィルハーモニー管弦楽団で、モーツァルトのセカンド・パートを気持ちよく弾くのが」
姉の個性の強い、とても外見からは想像もつかないほどの情熱的なヴァイオリン。その音色が他の凡庸な奏者と合わせられるはずもない。
「姉ちゃんはソリストしかできないよ。あんなすごい音…」
すごいって何よ!真理子は少しふくれて見せた。
小柄で童顔の綿菓子のような永遠の少女は、ひとたびグァルネリ・デル・ジェスを手にした途端、その圧倒的な存在感ですべての者を魅了する。彼女が変わるのではない。名器と呼ばれるグァルネリのせいだけではない。その場の空間も満たされている空気すらも、彼女の奏でる音によって別の物質へと変換されてしまうかのように。
それはまあ、変わった音だとはよく言われるけど…、不服そうな姉の表情。ほら、本人だけは全く気付いてもいない。そこがまた彼女の魅力の一つでもあるのだろうが。
「でもそうね、私にはソリストしかできないのよね。だからオーケストラには入らないし入れない。それが私には一番似合っているからよ。ねえ一樹?」
そう言うと、彼女は最愛の弟の顔をのぞき込んだ。温かい眼差し。彼女に見つめられて、微笑まずにいられる人間などいるのだろうか。
一樹は素のままの自分を引き出されてゆくような、不思議な感覚にとらわれていた。
「あなたはどんな奏者になりたいの?」
まっすぐに訊かれる。どんな…。おれは何者になりたいんだろう。おれはただ何も考えずに、吹いていられたらいいのにと願うばかり。姉にも父にも通じないたわいのない夢。
「一樹のトランペットの音、私は好きよ。とても素直でのびやかでクセがないから。きっといいアンサンブルの一員になれるわ。それは私にできないことだから、本当にうらやましいの。ソリストをもり立ててくれる大事なパートナーね」
ニッコリと微笑む。この人は全く…。
「ただの引き立て役って訳?姉ちゃんあのさあ、それってちっともフォローになってねえよ」
思わず一樹は苦笑いした。そうさ、どうあがいてもおれはセンターには立てない。立とうとも思わない。個性のない音、凡庸と切り捨てられた…音。
だが真理子はベッドに座り直すと、真剣な表情で彼にもう一度向きあった。
「大切なことよ!人にはそれぞれちゃんと役割があるのだわ。誰もがソリストになる必要なんてない。そうでしょう?協奏曲一曲にソロを弾くのは一人で十分。でもアンサンブルのメンバーはそうではないわ。大勢との調和が取れる素晴らしい人たちが必要とされているの。それとも、あなたはどうしてもソリストを目指したいの?」
力なく一樹はかぶりを振った。サポートメンバーだってスタジオワークだって一向に構わない。アルバムのクレジットに載ることさえ、どうだっていい。
おれはただ、あの狭っ苦しいジャムズのステージが…忘れられないだけなんだ。
スポットを浴びてハーモニーとリズムの洪水の中に身を置く。相手の出方を伺いながら、自分の信じる音だけで勝負を挑む。あの瞬間を味わってしまえば、もうそこからは抜け出せない。
「あなたはあなたなりの演奏家になればいいの。才能なんて曖昧な言葉、私は嫌いよ」
姉ちゃんに言われても、説得力ねえよ。口ではそう反発しながらも温かい姉の言葉は、少しずつ一樹の心を満たしていった。
「お父様はあまりお話しされない方だからあんなふうに黙ってしまわれたけれど、あれでも一樹が音楽の勉強をすることに賛成してくださったのでしょう?楽しんでらっしゃいよ。将来どうするかなんて、向こうでゆっくり考えればいいわ」
将来。おれにこの先の未来があるのだろうか。あと何年、いやあと何回…おれは楽器を吹けるのだろう。ステージを踏めるのだろう。姉にも誰にも言えぬ想い。
自分の左手に残る傷を見つめる。半日も楽器を持っていれば、今でさえ腕が痺れてくる。大学に行くと言ってはみたものの、この手でこの身体で授業についてゆけるかさえわからない。神経が通っていないはずの細く長い指がひりひりとした痛みを伝え、傷口は未だに疼く。革製のプロテクターは手に馴染んでいるとはいえ、軽いとは言えない楽器の重量を長時間支えきれるだけの耐性はない。何度も何度も、ステージの上で腕を抱える。痛みをのがす。メンバーへは知られぬようにと無理にでも笑いながら。
そして…この先とだえることのない再発への不安。一つため息をついて、一樹はそれらの思いを飲み込んだ。
「おれだって、もう23なんだよ。姉ちゃんはその頃には、がんがん世界を飛び回ってて…」
「まだ23歳よ。これから何にでもなれるわ」
今のときが永劫に続くと信じる者の強さ。十年後の未来を、二十年後の自分を思い描ける幸せ。どれほどの人間がそれを理解しているというのだろう。
明日倒れるかも知れない。この腕が動かなくなるのは、本当はもっとずっと先のことかも知れない。
それは誰にもわからない。皆同じだと人は言う。でも確実におれとは違う。
確約された呪縛。約束された負の契約。おまえの手は腕は動かなくなり、音楽も日常も生命さえもすべて奪ってゆくだろう。
呪いの言葉からおれを解放してくれ!誰でもいい!頼むから明日も明後日も、一年後もその先の未来も、おれにはあるのだと証明してくれ!!
姉には病気のことなど、詳しく話してもいなかった。言うつもりもない。それなのに現代の見目麗しき巫女は、一樹の左手にそっと触れ、両手で包み込むようにかき抱いた。そして自分の頬に押し当てると愛おしむように優しくなでた。
「あなたは頑張り屋さんで素敵な、私の自慢の弟よ。世界中を連れて歩いてみんなに紹介したいくらい。そしてたくさんの人びとにあなたのトランペットを聴かせてあげるの。みんながあなたの音に振り向くわ。温かい音色に心を癒されるのよ。あなたは私とは違う。当たり前よ。一人ひとり音楽は違うものだもの。あなたが私になれないのと同じように、私も決して一樹のようには演奏できない。あなたはあなたでいいのよ。あなただけの音楽を奏でればいいの」
あたたかな雫がまた一粒、彼の手に落ちた。一樹もまた、固く目を閉じ、気付かぬうちにあふれた涙で頬を濡らしていた。
(つづく)
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