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さよならを言う時は ~Everytime we say goodbye

#29



冷静で誠実な姉のマネージャーは、十も若い一樹を支えると自室へと運び込んだ。上背に比べて軽すぎるその身体が、戸田らへ彼の状況を伝えていた。


「食事はきちんと摂られているのですか、一樹さん」


彼の声が聞こえているのかどうか、一樹は無言でうつむいたまま唇を噛みしめていた。


「その腕、酷く痛むのね?病院には行っているの?大学は?授業は…」


「全部姉ちゃんに報告しなきゃならない訳?放って置いてくれよ!!」


「放っておける訳ないじゃない!!どうして一言も言ってくれなかったの?聡子にさえ!家族や恋人にくらい、今のあなたが何をしていてどんなふうに苦しんでいるのか伝えてくれたって!!」


「……今さら?」


押し出すように呟く一樹の暗い声に、真理子までもが言葉を失う。


「何で今さらそれを姉ちゃんが言うんだよ!?一番伝えたかったときには家族の誰一人、おれに興味すら持っていなかったくせに!!伝えたら何をしてくれるんだ?生あったかいメールでも来るのか?電話で心配だわと声を掛けるだけか?それが何になる!?」


…一樹。怒るべきなのか悲しむべきなのか、自分の感情さえ扱いかねたような複雑な想いで真理子は弟を見つめている。


「十五で病気にかかったとき、病室でずっと付き添ってくれたのは赤の他人の桃子さんだ。飯と風呂と安心して眠る場所と、家族みたいな会話と温かな居場所を用意してくれたのはマスターたちだ。あんたたちじゃない!!」


だから…それを今、必死で取り戻そうとしているんじゃない…。真理子の声が小さくなる。涙だけは流すまいと必死に耐えながら。


「だから!ちゃんと家族をやり直したいって私たちは!!」


「姉ちゃんだけだろ!?暴走してんのは!!お父様もお母様もそんなことは何一つ望んじゃいない!もう…遅いんだよ」


「みんなあなたを心から心配して!!」


「口先だけなら何とでも言える!!その…言葉すら無かったけどな」


ぎりっと歯を食いしばるのは痛みをこらえているからなんだろうか。どこが痛いんだろう。腕か…心か。それは一樹本人でさえわからなかった。


「あの頃、お父様は」


「忙しかったんだろ?自分の指揮者としてのキャリアと姉ちゃんのコンクールと。大事なのは音楽で、生活のすべてもみな音楽で!!おれの入る隙間なんか最初から無い!!」


いい歳したくせにガキが拗ねてるだけだ。嗤いたきゃ嗤えよ。バカにしたいんだったらいくらでもバカにしろよ!!

一樹にもわかっていた。問題をすり替えているだけだ。自分だけで生きようとしたところで何一つできない。その無力さとふがいなさをぶつけているだけだ。それでもなお、口にし始めた言葉は止まらない。


「…そうやって、逃げ続けるの?」


目を背け続けるの?真理子の声は柔らかく優しいのに、責められているという感覚が抜けない。一樹の脆い心が抉られてゆく。


「逃げらんないよ、どこへ行ったって。大げさでも何でもなく、世界のどこへ行っても逃げらんない。思い知ったよ」


一樹のセリフに、いぶかしげに首をかしげる様も優雅なお嬢様。これが実の姉。


「この街にはマリコが溢れている。どこで演奏しようがどの店に行こうが、学校じゃあもちろん、何だ…マリコの弟か、とね。その割には大したことがないと続くか、逆にどれだけ評価されようが、タカハシならそれくらい当然だろうと言われて」


「あなたはあなただわ。一樹はあなた自身の実力で評価されているのよ?」


「姉ちゃんには一生わかんねえよ!!目の前で何度も現実に言われてみろよ!!何の関係もないはずの病院でだって、マリコの弟なのに治療費も払えないのかって叱られて!」


病院には行っているのね…。ぽつりと姉が呟く。これ以上、一樹の荒れた言葉を聞きたくはなかったのだろう。


「行ってるよ。もう治療費のめども立ったから心配しなくていいよ。それに、さっきの女の人は…おれの担当医だ」


姉が小さく息を飲む。


「日本から留学している研修医で、言葉もよくわからないおれに声を掛けてくれて、ここまで送ってくれただけ。なのに誤解されてぶん殴られて、やってらんないよ」


ごめんなさい、とささやく真理子の言葉はピアニシモ。あんな露出度の高い私服で、わざわざ一患者の自宅まで送ってくれる医者がどこにいる?そんな嘘を信じられるのは、世間知らずでお人好しの姉ちゃんくらいなもんだ。


自分の吐き出した言葉に一樹は心から嫌気が差した。ごまかしたかった訳でもなく、この場を…そう、この場をとにかく逃れたかっただけ。



逃げている。目を逸らしている。それ以外、おれのできることって何だろう。



治療費はギャラから出した、とこれも嘘とは言えない嘘。実力で勝ち得た金額じゃない。たまたまエリックの妻がキミエという女性で、その人が桃子の母親だったというだけ。確かにステージは沸いたけれど、あんな反則技は二度はやれない。ド素人同然のおれがやったから目立ったけれど、それでさえマリコタカハシの名が出されれば…そこでデッドエンド。


作曲科に転科したことは伏せた。言える訳がない。ラッパの実技は逃れられても、今度はコウイチロウの名がついて回る。


何も感じないようにすべてのセンサーを切り、平然とした顔で単位だけをかき集める日々。

そうまでして取った学位に、何の意味があるんだろう。おれはただ、あの横浜の家から逃げ出したかっただけなのに。


目を逸らす母からも、射るように見られるだけで責められているようにしか思えない父からも。

そして、嘘偽りの家族ごっこを強いる善意の姉からも。



帰りたい。無性に一樹は帰りたいと思った。どこへ?それはきっとあの頃のジャムズへ。けれどそこに今は桃子もいない。二人が帰国したところで、おれの居場所はもう無い。マスターは変わらずに受け入れてくれるだろう。けれど、あの家にも店にもおれは行くことはできない。



おれの居場所なんかどこにもない。はん、二十歳越えた男の言うセリフか、これが。自分の思い浮かべた言葉に苦く嘲笑う。






気づくと、部屋の中央に置かれたテーブルには人数分のティーカップ。戸田が気を利かせて淹れてくれたのだろう。ステージママと揶揄された母の支配下を抜けて、あの姉でさえ一人で舞台に立っている。常にあの人の立つ場所はセンター。ソリスト以外の何者でもない。

それを陰で支えているのが、この控えめでも有能な、事務所の戸田だ。


「一息入れませんか」


優しげでさりげない気遣い。一樹以外の三人はカップを手にした。敢えて誰も彼には声を掛けず、思い思いの椅子に座る。


ツアースケジュールの確認から夕食の相談やら何やら。三人の雑談を聞くとはなしに聞いていた一樹は、今まで殆ど口を開かなかった聡子に視線を向けた。


痛ましささえ感じるほどの瞳に、聡子は気づいたらしく顔を一樹へと。それまで何とか微笑んでいた表情が凍り付く。


「呆れてんだろ?おれのこと。姉ちゃんや伸子おばちゃんに気を遣うことなんてないから、切ってくれよ。悪いと思ってる、勝手で」


そんなに広い部屋じゃない。彼の小さな声は聡子にも届いたのだろう。彼女はそっと言った。


「メール、迷惑だった?」


落ち着いた穏やかな声。おれじゃあ到底かなわない。この人みたいに大人になれない。


「そうじゃなくて…。見限るなら早くしてよ。変に期待したりさせたり、そういうの煩わしいんだ」


一樹!思わず声を上げる真理子を、聡子は目で止める。


「お店で演奏しているって、電話くれたわよね」


目を合わせられない。本当だったら日本に帰って真っ直ぐに聡子へと伝えようとしたのに。一度だけ酔った勢いで電話を掛けた。会話の内容は殆ど記憶にないけれど、偉そうなことをぐだぐだ並べたんだろ、おれのことだから。


寂しいから声を聞きたい。それは実のところ誰の声でもいい。そんな本音を甘ったるい砂糖菓子でコーティングして、虚勢を張った。そのときの自分を思うと一樹はいたたまれなかった。状況は良くなるどころか、酷くなるばかり。何が留学だ、まだ何も手にしていない。


それなのに、都合のいいときにだけ聡子の大人の心に甘えた。


「…してるよ。今夜もステージが入ってる」


これは事実だった。痛み止めを口に放り込んで、片手で器用に楽器を操ってみせる。ステージの高揚感はどの麻薬よりも痛みを消してくれるから。


「じゃあ、今日みんなで見に行ってもいい?」


そっと付け加える聡子の言葉に、一樹だけではなく真理子ですら目を丸くした。

聡明な彼女には、さっきの一樹の嘘なんかすぐにばれているだろう。罵倒の言葉か別れの言葉か、口にするのはそれしかないはずなのに。


それとも、このステージを見納めにして…曖昧で一方的な関係を終わりにしたいんだろうか。

そこまで思い至った一樹は、じゃあいい席を予約しておくよ、と言った。演奏面だけじゃなくてあの店は美味い酒も出す。それくらいフィリスに用意させよう。


「ただし、頼みがあるんだけど」


空気を変えた聡子の発言に、ようやく少しばかり本来の明るさを取り戻した一樹は頭をかいた。


「なあに?あなたのお願いって何かしら」


そもそも深刻な表情などめったには見せないはずの真理子は、いつも通りの屈託のない声を出した。

いたずらめいて下から彼女をのぞき込む一樹の視線に、どうやら聡子も戸田も彼の真意がうすうす伝わったらしい。微妙な含み笑い。


「ちょっと何?どうしてみんなまで笑ってらっしゃるの!?」


しょうがねえなあ、全然この人気づいてないよ戸田さん。一樹の苦笑いに戸田も応える。


「私が用意しておきます。聡子さんと一緒に。彼女を連れ歩くと目立って仕方がないので」


すました顔で紅茶を口にする彼に、教えて!!何なの?と姉。すっかりこのマネージャーを信頼しているらしい。


「あ・の・さ。姉ちゃんがマリコタカハシだってばれたら、おれのステージはぶち壊しなの!わかる?頼むから今日だけはオーダーメイドのワンピなんか着てくんなよ!?その辺のファンキーな格好で来てくれね」


え?状況の飲み込めない真理子以外は、ようやく表情を和らげた。


一樹も右手でカップに手を伸ばす。冷めてしまったダージリンは苦みが舌に刺さる気がして、彼はその痛みをわざと感じるかのように一気に飲み干した。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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