恋の味をご存知ないのね ~You Don't Know What Love Is
直接表現は力技で避けましたが、よい子は閲覧注意(`・ω・´)メッ
#27
定期的に届く聡子からのメールに、義務的な嘘を送り返すようになってからどれくらい経つだろう。今でも彼女は、おれが至極まっとうに大学へ通っていると信じている。バイトなども知らず、エリックとの共演やキミエの存在も当然伏せ、そして。
桃子との偶然の再会も…梨香とのことも。
良心の呵責なんてあるんだろうか。聡子がくれる、日本での何気ない生活や姉の活躍ぶりをさりげなく織り込んだ穏やかな文面。それに短いレスを打ち込む。コピー&ペーストだっていっこうに構わない。そんな自分にうんざりしていた。
はっきりさせればいい。わかってる。
それでも、日本には自分を待つ人がいるという事実が、一樹の一部を支えていたことは確かなのだ。
病院の入り口で送信ボタンを押すと、彼は吸い込まれるように建物の中に入っていった。
多くの専門科を擁する総合病院には、世界中からの研修生や研修医が集まってくる。もっと深い研究をしたいからと、ベテランの臨床家が留学していることも珍しくない。
骨腫瘍科としては、ここ以上のハイレヴェルな治療は受けられないだろうとまで言われた。
けれど、一樹にとっては収容所と言っていいほどの高い壁を持つ檻しか思えなかった。完治するのなら寛解するのなら、どんな治療でも受けるさ。でもそれでもなお、その日がいつ来るか怯えながら暮らすのはイヤだ。
黙って梨香の前に座る。小型のモーター音が響いて自分を少しばかり守っていた覆いが外される。
「しばらくは動かすのも痛いかも知れないけれど、骨はしっかりついているからリハビリでしごかれてちょうだい。後は経過を見たいので定期的に予約を入れて…」
事務的に淡々と告げる担当医に、一樹はそっと呟いた。
「帰りは何時?下のカフェで待ってる」
下を向いて書類に書き込んでいた梨香の肩がぴくりと動く。それでも彼女は無言だった。
「いつまでも待ってる。迷惑…でも構わない」
「帰れるかどうかなんて、わからないわよ。いつかみたいに格好いい日本人の男の子が、突然急患で運び込まれるかも知れないし」
感情を押し殺したような声。もう一度触れてしまったら引き返せない。それは一樹もわかっていた。
それでも、今じゃなきゃダメなんだ。今この瞬間、一人で眠ることなんてできない。
……相手は誰でもいいのか?
遠くから囁く声は彼の目に見えない良心なのか。一樹はわざとその声を踏みにじった。
梨香の返事を待たずに診察室を後にする。来るのか来ないのか。来ないで欲しい。必ず来て欲しい。
違う。今あなたが欲しいから。
この怖さを一人で乗り切るほどの勇気がない。いい加減認めろよ、自分の情けなさを。
無意識に肩へ伸ばした手は空を切った。おれの…トランペット。すべてをつなげ人とつなげ何をももたらしてくれる幸福のアイテムは、失うことを何よりも恐れ一樹を縛り付けるものへと変わった。
仕事で吹くには片手でも何とでもなる。けれど大学の講義でそれはいくら何でも無しだ。吹けると言い張った一樹の声は、正論の前にかき消された。
ガキの頃のコンクールでは、彼を守ってくれた革のプロテクターは今は無力。篠原が知ったら顔を曇らせるだろうか。それとも何かできないかと走り回るんだろうか。
無類のお人好しでお節介な憎めない先輩。人がいいにもほどがある。その彼をパートナーとして選んだ桃子は正しい。
おれは…他人の愛情のかけらをかき集めて、つぎはぎだらけの温かさにくるまれて眠る。
禁煙表示の真下で、病院名物のカフェオレを目の前に置き、一樹は癖になったように自分の唇をその長い指でなぞっていた。
いつまでも待つ。待つことなんか慣れている。
待っても待っても家族は誰一人帰ることのなかった幼い頃。いくら待っても振り向いてくれることのなかった桃子。
そして今、一樹が待つのはつかの間で行きずりの愛。それでいい。
長く待ち続け期待し続け、いつか去っていくのを見送るくらいなら、最初から期間限定のその場限りの関係の方がずっといい。
一樹は無意識に「自分を待つ人」の存在を消した。いくらでもいるはずの、温かさを持って見守っていてくれる多くの人たちを。
この状況の彼にそれを求めるのは酷だろう。自分の言いようのない寂しさにとらわれている彼に……。
口ではああ言いながらも、梨香はそう待たせずにカフェへと姿を見せた。当直が空ける時間だということは前に聞いていたから。もしかしたら、顔を見てきっちり断ろうという思惑なのかも知れない。
それでも、いい。たとえ断りのきついセリフであってもひととき言葉を交わせるのなら。
どこまでも餓えている彼の心の中には、石ころであっても詰め込みたかったのだ。それが鋭いナイフであっても、びりびりに破かれたわずかな思い出の光景であっても。
自分でカップを手に一樹の真ん前に座った梨香は、ほうっと長いため息をついた。激務なことには違いないだろう。わずかな時間があれば睡眠を、勉強を、自分の心を癒す時間を。彼女が欲しいものはそれらであって、正面の一樹ではないはずだ。
わかっていても彼は梨香を見つめた。すがるように。見捨てないでと、見放さないでくれ、と。
ふっと彼女は困ったような表情で苦笑した。頬杖をつき、一樹の顔を下からのぞき込むようにして。
「そんな仔犬みたいな瞳で見ないでよ。あたしが悪いことしてるみたいじゃない」
一樹には何も答えられなかった。
「いるんでしょ?彼女」
わずかに頷く。
「あたしは家庭が大事だし、うんと年下の彼氏が欲しいとも思わないし。ましてや、都合のいい女になるつもりなんかない。執着心ないってよく言われるのよね。だからって寝たいときに寝られる手軽なおともだちになる気なんかさらさらないわよ」
「そんなんじゃない!」
じゃあ何よ。一患者にストーカーされてるって警察に突き出されたいの?容赦のない言葉が続く。
「なら何で、あのとき応えたのさ」
失敗だったかなあ、あんた遊び慣れてるとばっかり思ってたのに。梨香はわざとらしくぞんざいに頭をかく。
「同情ってか魔が差したのかな。愛情なんかなくたって寝ることはできる。あんたもそうでしょう?」
止めてよ、そんな言い方。あなたらしくない。一樹は唇を噛む。
「あら、あたしのことなんかろくに知らないくせに。日本語を話す年上の女だったら誰でも良かったんだわ、あんたは」
何も言い返せない。こうやって自虐的になりたかったんだきっと。もっともっとズタズタになってしまえ自分。
「はっきり言ってあげましょうか。あんたは誰かを抱きたいんじゃない。添い寝をしてもらいたいだけのマザコンくん。でしょ?」
「……もう、いい。わかったよ」
力なく立ち上がった一樹は、不意に右手を掴まれてびくっとした。握りしめた拳をそっと開かされ、そこに置かれたのは車のキー。
「先に駐車場に行ってて。荷物を持ってくるから」
状況が飲み込めず目を見開く一樹に、梨香はぽつりと呟いた。
「寂しいのは…あたしも同じ。でも面倒はゴメンよ。今日だけは」
中途半端に言葉を切って歩き出す彼女の背中を、一樹はただ見つめるばかりだった。
滑らかな彼女の額から頬をなでる。意志の強そうな瞳は一樹を見据えたまま。手のひらから伝わる温もりが、彼の心をその瞬間だけ溶かしてゆく。
こわごわと指でルージュをなぞる。ヌードベージュ。色味も見せないけれど手に残る感触。
梨香の唇がわずかに開く。
そっと噛むように口をつけると少しだけ息がもれる。
優しく舌で彼女のこわばりをほどいていく。次第に深く強く唇を押しつけて。
からまっていく舌に、梨香の方が怯えた。身体中が意志の力とは反して震え始めてゆくから。
耐えきれないかのように彼女は目をつぶり、顎を上げた。
白い首筋が視界に入る。呼吸の仕方も忘れたみたいに息が荒い。一樹が強く吸い上げたせいで。
「い…や」
思わず手で押しのけられる。
その細い手首を彼は握りしめ、今度は自分の口元へと持って行った。
小指、薬指…感覚の鋭敏な指先を甘く噛む。とうとう梨香からこぼれるのは甘い艶めいた声。
「やめて、おねが…い」
やめて欲しい?耳元で囁くベルベット・トーン。イメージはフリューゲルの柔らかな音色。
あてた手のひらに伝わる体温は、確かに生きている証。
どうかもっと感じろよ、どうかもっと感じさせてよ。おれがちゃんとここに存在してるってことを。生命が脈動していることを。温かな血が流れていることを!
快感を得たいんじゃない。きっとただ素直に泣きたかったんだ。一樹をおおうのはそんな感傷。心の奥で泣き続ける幼い子どもが、誰かの温もりを求める。
今さら、どうやってもらえばいいのかわからない。だから…だから、もっと乱れろ。もっと喘げ。それしかおれは知らない。そんなやり方しか、知らないんだ。
喉元から鎖骨辺りへとゆっくり唇を這わせる。彼は強く抱きしめる代わりに胸へと耳をあてた。
鼓動を聞く。人を落ち着かせる拍動。それはたぶんいつもよりずっと速く時を刻んでいる。
高ぶっているから、高ぶらせたから。このままこうしていたくとも、きっとどちらも耐えられない。
薄く色づく肌に手を添える。顔をよせ、少しだけ歯を立てる。うめくような吐息は痛いからじゃない。
わかっているからもっと強く舌をあてる。
こうしている間だけでも泣かせてよ。涙じゃなくて身体中で悲しいと言わせてよ。
片腕じゃ支えきれない一樹を察したのか、梨香がそっと半身を起こす。
両手でかき抱くように愛おしげに肩に手を回し、彼女は身を寄せた。
切ない視線を絡ませたまま…梨香は身を沈めていった。
(つづく)
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