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主よ、人の望みの喜びよ ~Jesus, Joy of Man's Desiring

☆作中の音楽大学は実在のバークリー大をモデルにしていますが、カリキュラム等についてはすべてフィクションです。あらかじめご了承下さい。

#26



当分実技は受けられないだろうということで、一樹は転科届けを提出してみた。カリキュラムが重複するものは単位に加算されるということだったので、ディグリー(大卒資格)が取れるようにとのロマーノからの勧めがあったからだ。


作曲科。


今までも簡単なホーンアレンジをすることもあれば、スタジオワークでその場で頼まれることも多々あった。CDクレジットには書かれていない仕事などいくらでも実際にはある。

けれど、彼にとって本来は近づきたくもない分野。あの曲が耳から離れない。


『スィート・オブ・トキオ』…孝一郎の代表作は今でもクラシックとジャズの世界では高い評価を得続けている。


現実を考えろ。ここでのんびりと回復を待つだけの時間があるかどうかもわからないのに。少しでも単位を稼げば、自分にとってそっちの方が得策だろう。

一樹はそう自分に言い聞かせると、手続きの為に再びロマーノの元を訪れた。




「どうだい?調子は」


にこやかに迎え入れてくれた担当教官は、一樹へと穏やかな声を掛けた。


「ありがとうございます。来週にはギプスも外れ、リハビリを本格的に始めると言われています」


ぎこちなく、それでも笑顔で彼は応えた。内心の複雑な想いを閉じこめるかのように。

腕の怪我はすぐに治る。いつでも吹ける。今だって仕事は続けている。なのに作曲科への転科はどうかと告げた目の前の恩師に、一樹は何も言い返せなかった。


「曲のアナリーゼだけではなく、実際に書いてみるのは非常に勉強になるよ。君の才能への大きなプレゼントだと思ってもらえたら」


いつだって微笑みをたたえたロマーノは、安心させたいのか安心したいのか、そんな言葉を付け加えた。

一瞬息を止め、一樹は目をつぶった。言うつもりもなかったセリフがこぼれ出す。


「奏者としての才能がないから、見限られた……ということでしょうか」


ロマーノの顔を見る勇気もない。もしその瞳が気の毒そうに歪められていたら、と。



教官はそっと彼に近づくと肩を叩いた。こわごわとまぶたを開ける一樹に、座りなさいと手を指し示す。

落ち着かぬまま、年代物のソファに腰を下ろした。


「君は……何の為に楽器を演奏しているのかな。どれが正解という訳じゃなく、君自身の答えが聞きたい」


以前にも問いかけられた。何の為。ただ、吹きたいからではいけないんだろうか。何かしらそこに理由が必要なんだろうか。

理由のない者は、表現者にはふさわしくないと断罪されるんだろうか。

一樹には答えることができなかった。否定されるのが、はっきりとあきらめろと言われてしまうのが怖い。思わず目を逸らす。


「非常に高い演奏技術を持ち、音に対して瞬時に反応できるだけのセンスを持ち合わせている。君は十分に演奏家としてやっていけるだけの力がある」


ロマーノの言葉が上っ面をすべっていく。彼は世辞なんか言わない。それもわかっているけれど、その先にはきっと「しかし」という接続詞がつくはずだ。唇を噛みしめる。


おれに足りないものを突き付けられる。もう辞めろと告げられる。どこへ行っても何をしても。耐えられるか、耐えきれるか。一樹は心を堅くしてそのときを待つ。


「しかし」


もうそれ以上聞きたくない。ここを飛び出してしまいたい。何も聞かない聞こえない聞きたくない!!



ロマーノはいったん言葉を切ると、カップにコーヒーをついだ。そっと一樹の前にも一つ差し出す。黙ったまま、彼は教官を見据えた。


「君の音は、いつだって何かと闘っているように聞こえる。力でねじ伏せ、相手を完膚無きまでに叩きつぶし、一方的に勝利宣言をするまでは許さない。それは何故だい?」


思っても見なかったセリフに、一樹は目を見開いた。そんなつもりで吹いたことなんてない。いつだって楽器は<おもちゃ>、音楽は<遊び>、自分の居場所を作ってくれる為の<ツール>だと信じていたのに。


「姉や…父とは違う。そう仰りたいのですか?」


声が震えていたかも知れない。隠し通すだけの気力もなかった。


ゆっくりとロマーノは首を横に振る。そうではない、と。一樹には理解できなかった。この大先輩は何を自分に伝えたいのかが。


「コウイチロウは、我々にとっても憧れでね。『トキオ』を初めて聴いたときは衝撃的だったよ」


誰からも言われるさ。その先は聞かなくてもわかってる。それに比べて息子は、と。


「彼とは幸いにも共通の知人を通して交友があってね。私にとってそれは誇りでもあるんだ。その偉大な作曲家も…息子のことになると、ただの一人の父親なのだなと思わされたよ」


少しばかりの苦笑い。何を言い出すんだろう、と一樹に浮かぶのは当惑の表情だった。


「大学で音楽を学びたがっているんだが、これ以上息子に…楽器を吹かせたくはないんだと頭を下げられた」


「その結果が、レベル1、です…か」


結局は父親の意のままにすべて事が運んでいたという訳か。最初から逃げられなかったんだ、どこへ行こうと。


だがロマーノは笑みを浮かべたままだった。


「私は私の判断で君を1のクラスに入れた。一つには君の実力を君自身でわかって欲しかったこともある。どこへ行っても断られたと言ったね、それが客観的な評価だ。なぜか君は自分の演奏に対し、自信があるように見えて信じ切れていないところがある。そう感じたんでね」


ゆったりとカップを口に運ぶ。反対に一樹の前に置かれたコーヒーは、手もつけられぬまま冷めてゆく。


「もう一つの理由は、ここに集う演奏家の卵たちがどんな思いで音楽に取り組んでいるのか、それを知ってもらいたかった」


どんな思いで。彼らは技術なんかほったらかしで適当でいい加減で、それでも心から音楽を愛し。下手だから知らないから技術がないから学びに来ているのだと開き直る。

眩しいくらいの誇らしげな顔で。



ここだけの話だがね、いたずらめいた口調でロマーノは言う。


「コウイチロウは、演奏家ではなく別の道で食えるようにしてはもらえないだろうかと、それはそれは心配げに君のことを頼んできた。まあ私は断ったけれどね。彼ほどの人物の頼みを断るだなんて爽快な経験は、こんなことでなければできやしない」


穏やかな瞳が一樹を見つめる。見守ると言っていいのかも知れない。


「君を前にしては、コウイチロウも子を心配する一人の親だ。音楽家である前に君は息子なのだなと」


「そんな訳ない!!」


つい大声で言い返す。相手が誰だかさえも忘れて。そんな薄い薄い遠回しで不格好な愛情を、いつだって他人の口から告げられて、どうやって信じろというんだ!!


「あの人は姉さえいればいい。本物の才能を持った姉がいればいいんです。僕は最初から期待はずれで…だから必要ないんです!」


「知ったような口を利いて失礼だとは思ってるよ。でもね、だとすれば君のトランペットは…コウイチロウを見返す為の道具かい?」


ちが……う、ちがう、違う!!取り上げないでくれ!!おれからラッパを奪わないでくれ!!ただそれだけなのに、おれの望むことはほんのささいなその願いだけなのに!!


「君の身体を心配しているのは何もコウイチロウだけじゃない。私は部外者だから無責任かも知れないけれど、君には息の長い演奏家になって欲しいと思っている。急ぐことなどないから、今は楽器をいったん置いてみたらどうだろうか」


「…あし…た、生きて…いるかどうか…も、わからない…のに?二度とラッパを…持てないかもしれない…のに?」


明日のことは誰にもわからないよ。静かなロマーノの声。


「僕にとってはそれが現実だ!!今この瞬間にも病院という檻に閉じこめられ、二度と音に触れることもできないで、ただ息をしているだけになるくらいなら!!」


その先の言葉は、一樹でさえとても怖くて口にはできなかった。いつでも付きまとう恐怖。だからこそ急ぐのに、一分でも一秒でも走り続けたいのに。


「どんな形でも音楽は続けられる。君がトランペットという楽器を、怒りをぶつける為の道具にしない限りは」


怒りをぶつける為、そう聴こえていたのか。見返したい気持ちが持てるほど、自分に実力があるはずのないことくらい、おれ自身が一番知っているのに。



なぜおれは、楽器を吹くんだろう。



…答えを見つけなければ、二度と返してやらないぞ。おまえの宝物は、バックのトランペットは…



空を漂う音に乗って、音楽を司る女神たちミューズの一人、笛を持つエウテルペの神託が響き渡る。

手放すものか。一樹はいつものように革のケースをぎゅっと握りしめた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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