朝日の如くさわやかに ~Softly, As In A Morning Sunrise
#25
姉の選んだベッドはとても一樹の趣味に合うはずないパステルピンク。替えるだけの資金もなくいつまでも同じ。その上にぶっ倒れるように眠りについた。服のまま。朝が来ても未だに動くことさえできずにいる。
ライブ後のごたごたにまぎれ、桃子は搬出の間に一足先にシアトルに帰ったと聞かされた。
大事なことなど、何も話せなかった気がする。大事なこと…そんなもの何もないのに。
ライブがはねたらビジネスライクに契約を確認して、エリックらは宿泊先に帰っていった。明日は移動日で、別の都市へと行く旅の繰り返し。さすがにこの歳だとメンバー全員が体調を整える時間を取らないとね、と苦笑いを残していく。
一樹の方こそ体力の限界だった。帰りがけにようやく梨香をつかまえて「来てくれてありがとう」と手を握った瞬間、彼女の顔色が変わる。
明日、予約をねじ込んでおくから。押し殺したように梨香が囁く。それに無理やり笑顔を向けて、一晩寝れば大丈夫だよと強がりを言った。
大丈夫なもんか。吐き気と寒気と、何より身体中がきしむ。無茶をした左腕は既に感覚すら失ってしまっていた。
おれの担当医は病院の予約を入れると言っていたが、とてもたどり着くことさえできないだろう。指一本動かすだけの気力もない。
昨夜は確かに何かが変わったように思えたのに、目覚めてみればごく普通の日常が待っていた。いや、もっと酷い。たった一晩のステージでボロボロになるなんて。
右半身は捻るようにして吹いたせいであちこち筋肉痛になっているし、いくらギプスをしているからと言っても、左腕はがんがんに動かした。治りかけのリハビリだと言い張るにはいくら何でも激しすぎるだろう。
痛い…いたい。
声さえ出せずに唸るばかり。これが現状なんだ、認めろよ。連チャンでステージが入っていたらどうする?これが本当にツアーサポートだったら?仕事を受けて途中でキャンセルすれば次はない。エリックが吹けなければライブは中止になるが、サブの代わりはいくらでもいるんだ。
頭の中をいろいろな想いが交差する。今の一樹にできることは痛む腕を押さえてうずくまるだけ。
やれるはずだ、おれはまだ吹けるはずだ。信じたい気持ちと…限界だろうと囁く声。枕元に置いたスポーツドリンクで鎮痛剤を流し込む。怪我から復帰したアスリートなどいくらでもいる。プロのスポーツ選手を見ろよ。どこが違うんだ?
つかの間の微睡みを切り裂くようにドアフォンが鳴り響く。
「つぅ」
押さえられるものなら頭を抱えたいほどの頭痛までついてきた。それでも習性で受話器に手が伸びる。
「……Hi」
「ここを開けなさいよ!何で病院に来なかったの!?」
梨香の、声?こんな姿を見せたら入院させられかねない。早く帰ってくれと小声で頼み込む。
「いいから早く。やせ我慢してる場合じゃない!!」
怒鳴るなよ、病人相手に。それも担当医がさ…。これ以上騒がれてもたまらない。重い身体を引きずるように持ち上げ、鍵を開ける。飛び込むように転がりこまれた。
下から見上げる梨香の表情は、医師としての心配と言うよりもあまりにも哀しげだった。
肩を玄関の柱に持たれかけ、苦笑いを返す。
「何?そんなに酷い顔してる?…おれ」
「……どう、して?」
梨香の言葉の意味を図りかね、けげんな目で聞き返す。総合病院の担当医が往診なんて随分と親切だねと減らず口を叩こうとした一樹に、彼女は顔を曇らせた。
「そこまでしなくちゃ、ダメなの?」
呟くような声。何かをこらえているみたいに嗄れている。なんで梨香の方がそんなに辛そうなのさ。
「音楽なんて何も知らない。でもライトを浴びるカズは、別の世界の人だと思えるほど素敵だった。だけど、痛くない訳がない。あんな無茶をしてまで、ステージに立たなきゃいけないの?これだけの病気を抱えてるのに…」
「抱えてるから何?吹いちゃいけないとでも?まだやれる、まだ吹ける。下手なヤツは来るなと言われるまでは、おれは演りつづける。みんなそうだろ!?みんな何か抱えて、それでもしんどくっても、歯を食いしばってあの場所をキープするんだろ!?違うのかよ!!」
大声のせいか、血の気が引くように視界が暗くなった。ふらつく身体を何とか立たせたままで、それでも耐えきれずに一樹は目をつぶった。
肘を膝を腰を、長年の酷使で痛める野球選手なんかざらだろ?大けがで手術をしたってすぐにリンクに戻るスケート選手。ハードな筋トレをベッドの上で再開するアスリートたち。
彼らと何が違うんだ。長く選手として活躍したいから手術を選択する。故障箇所を上手くフォローしつつプレーする。変わらない。それで延びる期間がたとえ一年であっても、彼らはそれを受け入れるだろう。
ただ、続けたいから。
ぶり返す痛みを悟られまいと、一樹はなるだけ平静に言葉をつなげた。同情なら要らない。昨夜の盛り上がりは腕のギプスとは関係ない。みんな音だけを聴いてくれた。そう思っていたっていいだろう?
医師としての梨香を見るのが辛かった。忘れていたかった。自身の持つ病気のことなど一切考えず、一樹の音楽を受け入れてくれる場所の余韻に浸っていたかった。
なのに年上の研修医は、おれを患者として悲しげに見るんだ。頼むから放って置いてくれ!!
だから……病院になど行かなきゃ良かったんだ。
日本にいれば、主治医の大河原の顔を見なきゃならない。定期検診とか何とか言って、すぐにあいつもおれを病院に縛り付けたがる。
挙げ句の果ては、いつだってラッパを取り上げられる。治療だ入院だ安静にしろ、だ。もうそんな世界から、逃げ出したかった。
そう、いつだっていろんなものから逃げ回るだけの生活。おれはただステージの片隅で、吹いていられればそれでいいのに。
膝から崩れ落ちるように、一樹は床へへたり込んだ。それ以上立っているのは無理で、自分の体調を取り繕おうにもさすがにきつすぎて。
梨香は手慣れた様子で介助しながら、彼をベッドへと運んだ。身体を横たえても息が苦しい。そんな一樹の頭を、彼女は本当に幼い子どもへするかのようになで続ける。
「ゴメン。あたし一人の権限じゃ本当の往診をする訳にも行かないし、強い鎮痛剤を打ってあげることもできない。だからせめて…」
「それって、あなたの…子どもの…代わり?」
切れ切れに、それでも一樹は言葉をぶつけた。梨香はおれを見てるんじゃない。残してきた息子を思いながら、重ね合わせながら、彼女なりの贖罪をしているだけに過ぎない。
事情は分からないけれど、そんなニュアンスが伝わってくる。だからこそ苛立ちをぶつけたかった。
ちゃんとおれを見ろよ!じゃなきゃ、おれに構うなよ!!
この間の勢いなら怒り出すと思ったのに、梨香はもっと悲しげに一樹を見やるだけだった。
「車で来てるから、予約枠をもう一つ何とか空けてみる。このまま一緒に」
「行かない。病院なんか行かない」
「カズ!」
寝たら治る、いつものことなんだから。自分の身体は自分が一番知ってる。見習いの研修医なんかに偉そうに言われたくない!
梨香は今度は背中をそっとさすり始めた。不思議と痛みが少し和らぐ。それが介護の技術なのか…人の手の温かさのせいなのか。一樹にはわからなかった。
「ねえ、もっと自覚して。あなたの疾患は多発性で、いつどこに良性腫瘍ができてもおかしくないし、それが悪性化することだって珍しくない。説明は聞いているでしょう?お願いだから無茶な生活は止めて。少しでもリスクを減らして、いい状態をキープできるように」
それで少しばっか長く生きたところで、どんないいことがあるの?聞き取れないほどの掠れ声。音楽がやれなかったら、生きてる意味なんてない。
「…本気で怒るわよ。あんたがもうちょっと気を遣って生活するだけで、確実に生存率は上がるってわかってるのに」
ねえ、じゃあおれは…明日生きているか、来年の今は生きているのか、それすらも確率にしばられてるって訳?
誰もが無条件に無意識に信じている確実な未来を描くことも……確率の問題なんだね。多分に分の悪い、さ。
一樹の言葉に、梨香は手を上げようとはしなかった。ただ切なげに背中へと手を当て続けた。
梨香。
おれはあなたの息子じゃないし、息子の代わりにはなれないよ。どんな子かも知らないけど。
母親から得られなかった温かな手は、こうしていつだって赤の他人からしかもらえない。
おれはバカだから間違えるんだ。この感情はあくまでも母親の愛情を求める甘ったれたガキの想いなのか、それとも…異性を求める愛なのかを。
わかんないよ、人を愛することってどういうものかなんて。そばにいて欲しいと思うのは、ただ寂しいからなのか。
一樹は無理やり右手を伸ばした。彼女の顔を引き寄せ唇を重ねる。わからないんだ、本当に。こうすることでしか愛情を確かめたことがないから。
一樹の身体のどこかが泣いている。それが胸の奥なのか、どこにあるのか、それすらも知らぬまま。
寂しげな瞳をようやく閉じた梨香が応える。やっと安心したのか、一樹の手から力が抜け、気を失うかのように眠りについた。
(つづく)
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